4
マホメガが呟く。エリーは床の一点を見つめたまま、泣き続けている。
エリーの後ろで兵は刃物を取り出した。そしてさも当然のことのように首をかききった。血が噴き出し、エリーに雨を降らす。
命令があれば死ぬのは至極当然のことだが、実際に目にするのは初めてだった。
からんと刃物が床に落ちる。よろけた兵は二、三歩後退し、壁にぶつかる。壁に背を預け、落ちていく。その瞳にはもう光がなかった。
マホメガは兵には目もくれず、エリーを見つめる。エリーの手を、見つめている。
ソウがそれに気づくのと同じタイミングで、エリーの手に水色の光が灯る。その光はまっすぐ兵の傷に向かっていく。
「な、なに……」
涙で濡れた顔で、エリーが兵を見た。どうやらエリーの意志とは関係なく、力が使われているようだ。
マホメガの狙いはこれだと、瞬時に悟る。
肉体や精神を疲労させると、力は意志と関係なく働くのかもしれない。エリーの体力はもう限界で、これ以上力を使えば命の危機だ。
「エリーッ……!」
どうにかして止めなければならない。腕を拘束されたまま、走り出す。
兵の傷は見る見るうちに塞がっていく。しかし治った後も、光が消えない。完全に力が暴走している。もう治癒はいらないのに力を注がれ、兵の体は変に膨張していく。筋肉が異様に発達していっているようだ。
一瞬光を取り戻した瞳も、再び濁る。もはや人間とは思えない。
「うがぁぁあ!」
異形の存在は唾を吐き散らしながら、獣のような咆哮を上げた。
生存本能なのか、エリーに襲い掛かる兵。その腹に飛び蹴りをくらわす。少しよろけただけの兵は、ソウに顔を向けた。ぼたぼたと涎を垂らしながら、ソウをじっと見ている。その間も水色の光は兵を包んでいる。
「エリー! 落ち着くんだ! 力を使うのをやめてくれ」
「わか、わかんないよっ……たすけて、ソウ……何もわかんないの!」
エリーの声は震え、ただただ異常発達した兵を見ている。とてもその場から動けそうにない。
もう一度吠えた兵が、ソウに殴りかかってくる。その腕をかわし、回し蹴りを繰り出す。異様に素早い動きで脚を止められ、軽々と持ち上げられる。そのまま勢いよく壁に叩きつけられた。
「かはっ……」
息が肺から出ていく。目の前が白む。
脚を離され、床に落ちる。霞む視界の中で、エリーに向かう兵が見えた。
「やめ、ろ……!」
背中側から兵に飛びかかる。顔から倒れていく兵の背に馬乗りになる。先程の攻撃で壊れかけた手錠を無理やり剥がした。
腕と全体重を使って、兵の体を押さえ込む。
「ぐぅぅ! がぁ! ごがあああ!」
獣と何ら変わらない声を上げ、暴れだす。ソウ一人の力では、押さえておけるのも時間の問題だった。
「リンヤ! 頼む、手伝ってくれ!」
リンヤを見る。市長に馬乗りになって殴ろうとしている。その手を市長が受け止め、二人の動きが止まる。今のリンヤは市長しか見えていない。
「くっそ」
エリーは動けない。リンヤに言葉は届かない。目の前の敵には力では敵わない。
何か方策を考えろ。思いつけ。脳をフル回転させる。
「ははは! 最高だ! もっと狂え! もっと踊れぇ!」
市長の高らかな声が聞こえた。
「うるっせぇ!」
リンヤの怒声と、殴る音がした。
エリーの鳴き声。兵の咆哮。市長の楽しそうな声音。頬を殴る音。自分の息遣い。
脳みその中が音で埋まっていく。音が文字になり、情報になり、埋め尽くしていく。何も考えられない。わからない。苦しい。
息が詰まる。耳が詰まる。胸元が苦しい。腹の中にガスがたまったようで、うまく息が吸えない。
(そうか。邪魔しているのは、それか)
音で溢れる中、その声はやけに鮮明に聞こえた。
顔を上げる。マホメガが角をこちらに向け、駆けてくる。ゆっくり、ゆっくり、向かってくる。
自分の息遣いが聞こえた。それは普段より遅く聞こえた。エリーの泣き声も、市長の声も、鈍く、遅く、聞こえた。
全てがスローモーションに見える中、マホメガの角が、ソウの胸元に近づく。兵を押さえるソウには、かわしようがない。
ああ、ここで死ぬのか。
何の恐怖も、感慨もなく、ただ思った。
思いとは裏腹に、その角はソウの胸ではなく、翡翠を狙って、貫いた。
パキッという音が聞こえた。全ての動きが通常に戻る。翡翠はばらばらに砕け、破片がその場に飛び散った。
(さあ、ソウ)
何かを促すようなマホメガの声。その声をきっかけに腹が痛む。エリーやマホメガと出会ったときと同じ痛みだ。それに呼応するかのように、腹の中で何かの力が鼓動する。
吐き出せ。狂え。解放しろ。力を。ちからを。チカラを!
衝動が体を駆け巡る。
「うるさいっ……」
思わず両手を頭に当ててしまう。ここぞとばかりに兵が身をよじる。慌てて腕を兵の体に戻すが、間に合わない。
身を起こす兵。振り落とされていくソウの体。痛む頭。体を巡る衝動。
泣くエリー。殴るリンヤ。笑う市長。こちらを見つめるマホメガ。
音、音、音、音。衝動、解放、かいほう、苦しい、くるし、大切な、なか――
「やめろ!」
何もかもを断ち切らんばかりに、叫んだ。体を巡っていた力が、一気に放出される。
――全ての音が、消えた。
耳を埋めていた音が急に消える。頭痛もおさまっている。起き上がろうとしていた兵はその動きを止めている。ソウが床に振り落とされた音だけ、空間に生まれた。
呆然としてあたりを見回す。
ソウ以外の全ての存在が動きを止めている。あんなに暴れていた兵は、体を起こす途中の状態で不自然に静止している。エリーは泣きながら虚空を見ている。その頬の涙はそこに張り付いたまま流れていかない。リンヤは何やら市長の腰の下あたりに手を入れて止まっている。口から血を流す市長は、目を見開き、歯を見せて笑っている状態で、止まっている。
皆、彫像のようだ。時が止まってしまっている。
(ああ……! 長かった! 市長ならそう言うだろうか)
「マホメガ?」
声が聞こえた。マホメガだった。コツコツと蹄を鳴らし、市長のデスクのあたりに戻る。
「マホメガが、やったのか?」
(いいや)
マホメガは静かに首を振る。銀のたてがみが、光を受けて煌めく。
その言葉が本当か、嘘かはわからない。少なくともマホメガの思惑通りになっていることは見て取れた。
「お前は何がしたいんだ」
マホメガを睨みつける。音のない空間に、ソウの低い声が浸透していく。
(さあ。自分自身が何をしたいか。そうそうわかるものでもない)
「……なら、今、何をしようとしている。市長と、何を」
マホメガはふいっと顔を逸らす。市長室を見回し、小さく鼻を鳴らした。
(そろそろ時間だ。初めてにしては上出来だろう)
「なに」
急に視界が歪む。よろけた体を、脚を踏ん張ることで支える。
全ての音がさざ波のように戻ってくる。
「ぐっ……がぁ、あ……」
ソウの近くにいる兵の体は、水色の光に包まれたままだ。膨らみ続けた筋肉が、今度は逆にしぼんでいく。黒かった髪は白髪になり、涎に塗れた口から歯が落ちる。小さな声を最期に漏らし、動かなくなった。エリーの手から水色の光が消える。その瞳が虚ろになる。倒れていく体に手を差し伸べようとしたが、脚に力が入らなかった。
糸が切れたように膝をつく。どっと疲労が体を襲った。鉛のように体が重い。指先一つ動かすことすら難しい。体中のエネルギーを使い果たしたかのようだ。
「エリー……リンヤ……」
エリーが気を失って床に倒れる。手を伸ばそうとしても、届かない。
リンヤは、ナイフを、左手に、持っている。それを振りかぶって……。
そこでソウの意識は途切れた。
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