パキッと足元の枝が折れる。土臭い香りがわずかに立ち上る。足元に何か踏めるものが落ちていることも、音を立てて踏んでいいことも、慣れたようで、まだ新鮮にも感じる。

「エリーを引き入れるのはいつにする」

「んー?」

 しかし心はいつだって現実にいる。温かな希望やかぐわしい未来など、あの日リンヤに賛同した時点で捨てている。一時、身をゆだねる瞬間があったとしても、最終的にはここに戻ってくるのだ。

「今日でどれくらい経つっけ?」

「二十日。会わなかった日を除けば十四日だ」

「よく数えてんね。さすが」

 リンヤに冷めた視線を送る。

「もうこんなに経ったってのに変わんないねー」

 リンヤが頭の後ろで手を組み、嫌そうに舌を出す。それを横眼で追って、反射的に口を開こうとする。喉元まで登った空気は、音にならずに息として吐きだされた。今の言動に返事をしても、益はない。

 迷った末に、また口を開いた。今度は声を出す。

「……前より感情を出せるようになったと思う」

 リンヤがソウを感心したように見る。その口元に笑みが現れる。

「まあ、少しは変わったみたいだな」

「それで」

「はいはい。俺だって何も考えてないわけじゃないさ。マホメガだよ。だからまだ行動起こしてないの」

「わかっている。何かしら思いついたかのか問いたいんだ」

「今日までソウに何も言っていない時点で、ねぇ」

「……それもそうか」

 エリーを危険にさらすことを、マホメガが了承するようには思えない。かといってマホメガもこちらに引き入れるのは、無理な話だろう。エリーとマホメガを引き離すことや、エリーが集落を出た時点で止めることなど、色々策はあるが、マホメガはそれで騙せるようには思えなかった。

 まずはマホメガのことをもっと知ることから始めるのがいいのかもしれない。

 ソウが色々考えているうちに、待ち合わせ場所が目と鼻の先にあった。

(マホメガのことを探ろう)

(了解)

 リンヤに一瞥もくれず、話しかける。静かな返答を聞いてから、そこに足を踏み入れる。

「……いないな」

 隣のリンヤが小さく声を出した。ソウも辺りを見回すが、エリーもマホメガもいない。森の中の景色はどこも酷似していて間違えやすい。しかしグローリーシティで教育を受けている二人なら、毎日同じ場所に来ることは造作もない。

 念のため場所を変えるときは、マホメガが迎えに来て、エリーのもとまで連れていく。時間は事前に決めておくことにしてある。

 その場でしばらく待ってみたが、誰も来ない。辺りで人の気配がした瞬間もなかった。

「急な予定変更の可能性もあるな。今日は……」

「だが何かしら問題が発生した可能性もある。念のため森の中を見ておいた方がいい」

 ソウの瞳がまっすぐリンヤを見つめる。リンヤの言葉を初めて遮ってしまった。リンヤは視線を斜め下に落とし、逡巡する。

「……わかった」

 仕方ないから従ってやると言わんばかりの笑みを向けられる。いつだって軽い調子を崩さないリンヤに、ソウの口元は自然と緩んでいた。

「とりあえず分かれた方がいいな。探索範囲はどうする?」

「半径五十メートル以内での探索はどうだ? これなら声も届くし、駆けつけることもできる」

 近くにある幹に、小さなナイフで真一文字に傷をつける。

「その場合声は遠くても百メートルくらい飛ばせば済むか……」

 リンヤが小さく声を漏らす。

 脳での会話は、範囲を決めず声を遠くに飛ばすこともできる。発した人間を中心に同心円状に広がるのだ。その距離は個々人の能力による。これは敵味方問わずに拾えてしまう音だが、脳での会話能力がない者には聞こえない。そのためダストリーシティを念頭に置いた訓練でよく行われる。そうは言っても、決まった複数人に向けるときより体力を消耗するため、一般的には互いの位置を把握した会話が行われる。

 この森にはモエギ族しかいない。リンヤとソウの頭には、この森の細かい地形は入っていない。故にこの方法が最適だ。リンヤもそう判断したのだろう。

「それでいこう。いやぁ、俺に合わせてもらって悪いね」

「別に合わせたわけじゃない」

「ちなみに飛距離テストの結果は?」

「今年度初めの結果はたしか三百十八メートルだった。リンヤは?」

「俺の結果なんて『九代のソウ』には恥ずくて話せないよ」

 聞き慣れた言葉に息を飲む。市民学校の同期がよく言う言葉だ。ソウには話せない。ソウに話せるような結果ではない。誰もがソウを上に据え、対等な人間だと思おうとしない。元々周りに興味を抱く行為は無駄だと感じていたため、特に気にしてはいなかった。リンヤだってふざけてそういう言葉を発する。だが本心ではないと思っていた。今みたいに作戦に影響がある質問にまでそういう返答をするのは、なぜだろう。

 リンヤに何か言おうと顔を上げた時には、その姿は遠かった。

 自嘲的な笑いが漏れる。無意識にリンヤを特別扱いしていた。気を取り直して、ソウもリンヤとは別方向に足を踏み出した。

 先程傷つけた木の位置を気にしつつ、森を探索していく。目を凝らし、時々リンヤに声を送りながら、歩く。特に目に付く印は一切なかった。人が歩いた形跡すら見つからない。

「お前、モエギではないな」

 前方から声。心の芯が冷たく凍る。身構えた心とは裏腹に、表情や体には警戒を出さないよう注意する。

「あなたは……?」

(モエギ族老婆と接触。印より南西二十メートル。老婆の背は北西)

 老婆に問うと同時にリンヤに声を送る。

「モエギ族のしがないババアだよ」

(了解)

 老婆の声が耳から、リンヤの声が脳から入ってくる。あとは様子を見るだけだ。目の前の人間にリンヤとの会話が聞こえることはないのだから。

「お前は……グローリーシティの人間じゃあないかい」

「……モエギ族の方は、ダストリーシティとグローリーシティの人間を見分けることができるのですか」

 すっと細められた老婆の瞳から目を逸らさぬよう言葉を返す。感心した風を装い、腰に手を当てる。指先にナイフの柄の冷たさを感じる。

 おそらく今この瞬間に老婆を殺すことになれば、容易にこなせる。身体能力は年齢を見ても、それ以外の要素を含めてもソウの方が圧倒的に上だ。一方でその瞳は、多くの感情を煮詰めて、固めたような色を湛えている。ソウには想像もつかない経験をし、辛酸を嘗めてきたのだろうと察せられる。故に侮れない。

「否定しないということは、ババアの言っていることは当たりかえ」

「あっ、いえ……ただ、驚いてしまって、つい」

 ソウが弱々しく返すと、なぜか老婆はおかしそうに笑った。

「演技などせずともよい。どうせもう一人、脳の会話とやらで呼び寄せているのだろう。二人いることはエリーから聞いて知っておる」

 その言葉を聞いた瞬間、勝手に体が動く。老婆の背後に回り、脚でその動きを制限する。左手で老婆の上半身を固め、右手でその首にナイフの切っ先を当てる。ソウが少しでも右手に力を入れれば、老婆の命はあっさり尽きる。そうであるにもかかわらず、老婆は楽しそうな笑みを浮かべた。

「ババアにも容赦ないな」

「……最初から逃げる気もなかっただろう」

 挑発にまんまと乗せられたことを悟る。大方ソウがどれくらいの技量を持っているのか試したかったというところか。

(やっと着いたと思ったら、もう片が付きそうじゃん)

 老婆を捕らえたままでいると、リンヤから声がかかる。警戒はしているのだろうが、もはや緊張感の欠片もない調子に苛立つべきか、嘆くべきかわからない。声の調子とは異なって、音一つなく背後にたどり着いたのだから、よいのだろうか。

「わざわざ争うこともなかろう。ほれ、その木の陰にいる小僧も出てこい」

 その場に緊張が走る。それがナイフに伝わらなかったか不安に思う。

 リンヤは動かない。もしかしたら誘っているだけの可能性もある。だが先程ソウが感じたものと同じ感覚を味わっているだろう。おそらくわかっている。当て推量で言葉を発したわけではない。

「森の中のモエギを侮るなよ」

 ソウとリンヤの緊張に拍車をかけるように、老婆が低い声を出す。まるでこちらがナイフを首に当てられたようだ。頬に汗が伝う。

 すぐ後ろの草が踏まれる。小さな音を鳴らしながら、リンヤが姿を現した。

「いやー、完敗、完敗」

「グローリーシティの人間の忍び足なんぞ、何の意味もないわ」

「耳も全く衰えていないっと」

「お前がリンヤじゃな。そして後ろのが、ソウ。そろそろ離せ。もっと老体を労われ」

 逆らわない方が得策だろうと、その体を解放する。殺すべきだと思えばすぐできるし、今は少しでもエリーの情報を聞き出しておいた方がいい。

「何が目的だ?」

 ソウが老婆に問いかける。そもそも不用心に姿を見せた時点で、ソウとリンヤに何かしら求めるものがあったということだ。

「わしの名はピラー。最も、オババという名の方が、お前らには親しみがあるかいね」

「あーやっぱあなたがあのオババさんだったのか」

「なんだその気持ち悪い呼び方は。オババでええわい。皆もそう呼ぶ」

 老婆改めオババは、こちらに主導権を渡すつもりはさらさらないらしい。

 このしたたかさと熟達は、苦難を乗り越えてきた証なのだろう。少なくともグローリーシティにはいない。レールを歩かされ、皆同じように行動するしかない人間たちの中には、いない。

「じゃあオババ……なんか、変な感じだなーこれ」

「わしにはその方が馴染む。そう呼べ」

「はいはい。それで?」

 オババの前ではリンヤも多少調子が崩れるようで、言葉にいつもの軽快さがなかった。知ってか知らずかオババは二人の様子など目にも留めず、地面に直接尻をつけて座った。巻き衣の裾が広がり、骨と皮しかないような細い脚が見えた。エリーが度々見せていたオババへの不安も、その脚を見て納得できてしまう。いくら心が強くあろうと、老いには敵わない。グローリーシティに住まう人々とは異なり、随分人間らしいこの老婆も、いつかは世から消えてしまう。

 ソウが空虚な思いに囚われていると、オババが顎をしゃくる。気づけば隣にいたリンヤはオババのように地面に座っていた。物思いに沈んで状況観察ができない自分に心底驚きつつ、ソウも座る。

「結論から言うと、ソウ、リンヤ、エリーを探せ」

 あまりに率直な物言いに、ソウとリンヤは脳で会話することすら忘れてしまう。

「その代わり、エリーとの交流は不問にする」

 その言葉を聞いて、ソウにもなんとなくわかった。オババはエリーの祖母なのだ。たった一人の、祖母。長などという立場ではなく、エリーの身内としてその身を心配している。ソウとリンヤとの関係に気づき、その身を心配しつつも何も言わなかった。否、言えなかったのだ。

 そこからオババを突き崩せる。エリーをこちらに引き込みやすくなる。グローリーシティで育ったソウの頭には、素直にその考えが浮かんだ。

 指を丸め込む。ズボンの繊維に爪が引っ掛かり、小さな痛みが走る。

「エリーがいなくなったのは、昨日の夜?」

 リンヤが言葉を探すように声を発する。

「大方そうだろうな。そして森にはいない。そうとすれば、お前らのシティの中にいる」

「ダストリーの可能性は? かつてモエギ族を……求めていたのは変わらないんだろ?」

「ダストリーシティの市長は休戦という状態を捨てることはないだろう。臆病だからな。だがグローリーシティは違う。あの狡猾さ、残忍さ。その思想は今でも健在だろうよ。休戦も不可侵条約も所詮紙の上だ」

 オババの静かな声音は、ソウの心の中に浸透していく。

 休戦中にもかかわらず、戦闘訓練は欠かさない。その方針の時点で、休戦を守る気がないことなど、生徒全員が気づいている。

「……グローリーシティの中にはさすがに手を出せない。だから俺らってことね」

「どうじゃ? わしの手を取るか?」

 オババの若紫色の瞳が、リンヤとソウを交互に見る。こぶしに力が入る。オババからはあえて視線を逸らさなかった。

 エリーのことは無論心配ではあるが、元々はリンヤたちの計画を円滑に進めるための一要素だ。リンヤが以前モエギ族は計算に入っていないと言っていた。だからエリーは切り捨てるのが得策だ。そうすれば何度もグローリーシティの外へ出る危険を冒さずに済む。

 体の芯が氷のように冷たい。染みついた冷静さが、判断を迫る。声が出ない。それを拒む何かが、ソウの中にはもう芽生えている。

 そっと目を閉じる。無垢な少女の顔が浮かんだ。朗らかに笑う姿が見えた。

「わかった。取引成立。ソウもいいだろう?」

 隣からの声に目を丸くする。脳内ではない。間違いなく耳に届いた声だ。リンヤの言葉を聞いて、オババは小さく笑った。ソウもかろうじて声を出す。

「あ、ああ……」

「賢明な判断じゃ」

 オババとリンヤが握手を交わすのを眺める。リンヤの表情は普段と何ら変わりはない。オババがソウにも握手を求め、それに応じながらも、リンヤに意識を向けてしまう。

 リンヤとオババが立ち上がり、ソウもならう。軽く尻をはたいて汚れを取る。

「おお、そうだ。ソウ、手を出せ」

 オババからの指名に、訝しんで目を細める。無理やり手を取られ、その手に何か乗せられる。指を開くと、翡翠色の石が顔を見せた。石は台座にはまっており、そこから紐が伸びていた。どうやらネックレスらしい。

「これは?」

「なあに、エリーのために動くお前らへの餞別だ」

「俺には?」

「貴重な石が二個もあるかい。代表してソウ、肌身離さず持っておけよ」

 オババの両手が、石もろともソウの手を包み込む。オババの手は温かかった。生きる者の熱だ。

 ソウに祈るような視線が注がれる。エリーを思う心の深さが見える。

「わかった」

 噓偽りのない言葉を返すと、オババはゆっくり手を離す。惜しむようなその動きは、豪胆なオババらしくない。しかし今日初めて会った人物に問うわけにもいかず、誤魔化すようにネックレスを首にかけた。

「用心するんだぞ」

「言われずとも」

 リンヤがひらひらと手を振る。オババに背を向けて歩き出しても、しばらくその視線を感じた。

 やがてその視線も感じなくなる。それでもソウとリンヤは無言で歩き続ける。普段よりグローリーシティが近づいたところで、ソウは口を開いた。

「どうして即決したんだ?」

「相談しなかったこと? ごめんって。なんかオババには脳の会話も見透かされそうな気がしてさ」

 リンヤは一見すると普段通りの笑顔を浮かべている。それに対する違和感が、疑念からくるものなのか、本物なのか、ソウにはわからない。

「そうじゃない。リンヤらしくない」

「わお。俺のことそんなに理解してくれてんの」

「……ふざけるな」

 ソウがリンヤをねめつけると、リンヤは壁でも作るように手を顔の横に掲げた。

「あんなのただの口約束だ。下手に断って騒がれても困るだろ」

「それなら」

「殺したら殺したで後々大騒ぎだって。それに、エリーのこと心配っちゃ心配だ」

 ソウの思考を読んで素早く返事を返すリンヤ。その言葉はどうしても軽く聞こえてしまう。本心とは思えない。

「自分の善を慰めるために取引を受け入れるような人間じゃないだろう」

「ひゃーお熱いねぇ」

 いくら真面目に返してもすぐに茶化すリンヤに苛立ちが募る。そんな些細なことで心を動かす前に、これから取る最善策を考えるべきだと、心の冷たい部分が言っている。それでも抑えがたい情動が、ソウの中には生まれていた。こんなもの知らない。グローリーシティで生きているだけでは、絶対に経験しない。

 首にかけた翡翠色の石に触れる。深く呼吸をする。

「こちらに危害が来ない程度に、動向を探ればいいか」

「そうそう。デグローニに軽く探ってもらうよ」

「ああ」

 見なくとも隣のリンヤが軽薄な笑みを浮かべているのがわかる。その視線も自分の感情も拒否するように、目を閉じた。

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