(エリー……)

 誰かの声が聞こえた。そんな気がして、エリーは目を開ける。視界には月明りに薄青く照らされた天井が映る。身を起こし、寝床と居間を区切る薄布を引く。囲炉裏の火はとうに消え、家の中はしんと静まっている。オババが起きている気配もない。

(エリー……)

 気のせいかと身を倒そうとしたら、今度はより鮮明に声が聞こえる。

「マホメガ?」

 オババを起こさないよう小声で返すも、マホメガの返答はない。エリーは音を立てないように寝床から抜け出し、家の外に出た。集落には夜のとばりがおりている。昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、どの家からも明りは漏れていない。

 まるで一人世界に取り残されたかのようだ。そう考えて身震いする。

「マホメガ?」

 もう一度、声を出してみる。この静けさを切り開く勇気がなくて、誰にも届かぬような小声になってしまった。そんな声に当然返答はない。

 あの声はマホメガだ。何度も聞いた声を間違うはずもない。こんな夜更けに、あれほどためらっていた集落に足を運ぶなど、何かあったとしか思えない。

 エリーは辺りを見回す。きらりと何かが光る。それは森の中に消えていく。

 ――マホメガの角ではないか。

 そう思ったときにはもう走りだしていた。光の消えたところから森に入り、必死に走って追いかけていく。目を凝らすと光の正体はやはりマホメガだ。月明りが木々の隙間から漏れ出し、時折その美しい角や毛を照らしている。

 マホメガはある程度行くと足を止めた。エリーもすぐに追いつく。

「マホメガ……! 何かあったの?」

 マホメガの体に触れる。怪我をしている様子はない。

(助けてほしいのだ、エリー)

「えっ」

 安堵したのも束の間、マホメガの言葉にエリーは目を見張る。その顔を見上げると、珍しく焦りの色が見える。

(エリーの癒しの力がいる。どうか助けてほしい)

「マホメガの頼みなら断らないよ。でもその人はどこに? 何が起きたの? どうして夜に?」

(すまないが全てに答えている時間がない。それでも来てくれるかい?)

 マホメガからただならぬ気配が発せられている。普段ゆったりと話すマホメガの声に、今は明らかな焦りがにじんでいる。心臓のあたりが締め付けられる気がした。

「せめて行き先だけ……」

(グローリーシティだ)

 漏れた息は声にならずに消えた。予想外の場所に思考が固まる。

「でも、グローリーシティは……」

(ああ。酷な選択を強いて申し訳なく思う。しかしすぐに返すし、エリーのことはわたしが必ず守る。だから頼む。どうかわたしと)

 マホメガを見つめる。切羽詰まった声音に、表情。

 守るという言葉を疑ってなどいない。たとえそうだとしても、エリーはオババの孫だ。ただでさえもう何日も隠れてソウとリンヤに会っているのに、これ以上危険要素を増やしていいはずがない。今回は自ら内部に飛び込むのだから、二人に会う以上に危険だ。

 いくらマホメガの頼みでも。

 俯き、唇を噛みしめる。息が詰まる。夜は冷えるのに、汗が頬を伝っていく。恐怖が心を抉って、剥き出しにしていく。

(エリー)

 そんなエリーの顔を掬いあげるような声がする。マホメガを見る。

 断ったらどうなるのだろう。

 ぽつりと、そんな思いが浮かんだ。それは深い深い部分から、不意に浮かび上がってきたようなものだった。不安によって削られた表層から、心の奥底の思いが芽吹く。

 マホメガは幻滅するだろうか。嫌うかもしれない。もう会いに来ないかもしれない。

 最悪の考えが浮かんでは消え、また浮かんで消えていく。灰色の感情が心に広がっていく。抑えようのない恐怖と絶望が体を支配していく。

 誰かに嫌われることは怖い。誰かに見捨てられることは怖い。

「わかった。一緒に行くよ」

(ありがとう……)

 その時に見たマホメガの安堵の表情が、いつまでも頭から離れなかった。


               〇 ● 〇

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