第4章 翻弄される心

 エリーが微笑む。

「じゃあ、また」

 マホメガもお別れをするかのように首を揺らした。銀色のたてがみが木漏れ日を受けて煌めく。リンヤもソウも別れの言葉を返し、グローリーシティに向かって歩き出す。

「今日ちょっと帰りいい?」

 そろそろグローリーシティの壁が見え始めるところで、リンヤが口に出した。

「特に予定はないが……」

「よーし。会わせたい人たちがいる」

「わかった」

 ソウの短い答えにリンヤが頬を震わせる。からかいの言葉は言ってこない。

 含みのある言い方に大方誰に会わせるかは検討がつく。リンヤに誘われてから今日で八日。思っていたより早い。

 壁が見えてきたこともあって、それからはお互い無言になる。いつもの壁の穴を通り抜け、閉鎖的な故郷に戻る。壁の内側に入ると急に息が詰まるような気がする。モエギ族の森にいるのと天気も気温も変わらないが、何かが確かに違う。それは人々の思想かもしれないし、生き方かもしれない。

 リンヤは大通りに出ると、すぐにビルとビルの間の細道に入った。まとう空気が鋭くなる。ソウも合わせて周りに気を配った。

 向かうのはいわばスラム街のような場所だろう。市民学校の成績が底辺に近い者や、そもそもついてこれなかった者が、最終的にたどり着く場所。グローリーシティは使えない駒に一切配慮しない。どこで野垂れ死にしようとお構いなしだ。

 細道から少し広い裏通りに出ると、言いようのない臭いと、人の熱気が体にまとわりついた。

(やってらんねーよ!)

(酒はどこだぁ)

(あのぼんくら上司め……大人しく従ってやれば調子に乗りやがって……)

 あたり一帯に向けたのか、制御が下手なのか判別はできないが、グローリーシティの人間が発するとは思えない怒号が通りに飛び交っている。叫んでいる者も、そうでない者も、皆一様に仄暗い瞳をしている。生気のない表情の人間たちと、脳の中に入り込んでくる多くの叫び。グローリーシティでこれほど人の声が聞こえる機会などないので、頭が混乱してくる。

 思わず足を止めそうになる。しかしリンヤは慣れたものなのか、道に転がるゴミを避けながら素早く進んでいく。後ろ姿を見失わないように後を追う。

 程なくして到底やっているとは思えない店の前にたどり着いた。リンヤが五回ドアを叩く。たっぷり時間をかけて向こうから声が返ってくる。

(日が陰るところに)

(栄光あり)

 中の人間とリンヤが合言葉を交わし、小さくドアが開く。体を滑り込ませて店内に踏み入れる。

 店の中は意外に広い。カウンター席だけではなくテーブル席も用意されている。そこに様々な年齢層の人間が座していた。皆、物珍しそうな視線をソウに注いでいる。

「そいつが『九代のソウ』だな」

 一番奥の席に座る髭面の男が声を上げた。肩幅が広く、筋骨たくましい体つきをしていた。右手の甲には深い傷跡がある。傷跡を修復しないままでいる時点で、堅気の人間ではないとわかる。周りの人間が向ける視線や雰囲気からして、この人間がリーダーなのだろう。

「そう。あの人はガルさん。俺ら……デグローニのリーダー」

「……デグローニ」

 リンヤはガルに返事をしてから、ソウに紹介する。リンヤが言っていた仲間、その組織の名前がデグローニ。当然ながら聞いたことのない名称だ。

 ぽつりと呟いた声を聞いて、ガルが笑い声をあげた。思わずガルの顔を見つめてしまう。

「ただの変なおっさんなんだよ」

 今度はリンヤに視線を向ける。リンヤの言葉だけを聞くと敬意を払っているようには見えないが、仲がいいからこその言葉なのだろう。ガルも気分を害した様子はない。共に過ごしてきた時間の長さが垣間見える。

 リンヤはソウの背を押して、ガルの近くの席まで連れて行った。ソウがガルの真正面の席に座ると、リンヤは少し離れたカウンター席へと座った。

「口で喋れるたぁ、上出来じゃねぇの。随分人間らしい顔もしてるもんだ」

「そんなの事前に伝えてあったでしょ」

「この目で見るまでわかんねぇだろうよ」

 ガルはリンヤの方を見ながら豪快に笑い、手元のグラスを勢いよく煽った。茶色の液体が入っている。ウイスキーだろうか。グローリーシティでは酒自体は許されているが、羽目を外すことは許されない。だからそもそも酒を飲まない人間の方が多い。だがこの飲みっぷりはまさに普段から飲んでいる者のそれだ。この忘れ去られたような区画では、酒がよく出回っているのかもしれない。

「今どれくらいの人員がいるんだ?」

 ガルを正面から見据える。仄かに頬を赤くしたガルは、静かに口角を上げた。グラスが高らかな音を立ててテーブルに置かれる。しん……っとその場が静まる。

「まあ、この空間にいるよりは多いな。お前は、いつからだ」

 ガルはソウに言葉を続けさせまいとすかさず問うてくる。周りの者の視線を感じる。

 いわばここは敵の本拠地だ。リンヤだって助ける気はさらさらないだろう。言葉を間違えれば消される。たとえ消されずともまずい立場に追い立てられる。

 心臓の鼓動が自然と早くなる。しかし心は冷静だった。ここは市民学校と同じ。一度でも失敗すれば終わり。何度もこなしてきた訓練の、本番がやってきただけだ。

「正確な年数はわからない。物心ついた時には違和感があった。あなたたちに出会ったのが偶然今だったというだけだ」

「それでもリンヤに言われなきゃ来なかったろう」

「シティに忠実な人材も欲しているんだろう?」

「それも含めてお前ではあるがな。……なぜリンヤにのった」

 ガルが声を一段低める。重みのある声が直接心にのしかかる。ゆっくりとまばたきをして、ガルを見つめる。

「このシティは矛盾に満ちている。ここが栄光の都市ならば、泣く者も、悩む者も、いない」

「そらそうだ。だがな、んなこたわかってるやつがたくさんいるんだよ」

「……なら断る余地を作ればよかったんじゃないか?」

 薄く笑む。ガルは眉を顰め、リンヤの方を見る。リンヤは悪びれた風もなく肩をすくめた。目の前から大きなため息が聞こえ、ガルは頭をがりがりと掻き始める。白いフケが淡い電灯に照らされている。

「……ちげぇねぇ」

 ガルはグラスに手を伸ばし、残った酒を飲み干した。また音を立ててグラスを置く。先程とは異なって、皆の空気が僅かに緩んだ。

 どうやらソウは失敗しなかったらしい。

 傍のテーブル席に腰掛けていた女性がガルのグラスを持っていく。カウンターに入ると、冷凍庫から大きな氷の塊を取り出す。塊を砕いて丸くし、グラスにぴったりの大きさに仕上げる。先程と同じ酒を注いでいく。その手際の良さはソウからすれば魔法のようだった。

「どうだ、森は。口で話すのは」

 女性からガルに視線を戻す。

 今日まで見聞きしてきた景色が、声が、笑顔が、頭をよぎる。モエギ族の集落は一度しか目にしてないが、今でも鮮明に思い出せる。エリーの笑顔も、マホメガの声も、リンヤの表情だって、全てが新鮮だった。

「楽しい、という感覚が一番近いのかもしれない。様々なものを見て、これが人間本来の姿なのだろうと感じた」

 口を動かす。声が紡ぎだされていく。もう顔の筋肉は強張らないし、声もかすれない。

 この感覚をほとんどのグローリーシティの人間は知らない。

 素直な感想を漏らすと、ガルは大きな声で笑った。店の外に聞こえてしまうのではないかと危惧するほどだ。もしかしたら多少は酔っているのかもしれない。

 豪快に笑い、好きなように飲み、皆と口で話す。ここにも自然な人間が存在している。

「リンヤよりよほどいいわな」

「ガルさんと一緒にいる期間が短いからね、ソウは」

「そういうとこだぞ、リンヤー!」

 リンヤの返しに周りがヤジを飛ばす。店内でどっと笑いが巻き起こる。リンヤを見ると呆れたような顔をしているが、内心は嬉しいのではないのだろうか。そう思うと口が自然と笑みを作った。

 その瞬間、ちょうどリンヤと目が合う。

「なに、ソウ」

「いや……リンヤも存外かわいらしい一面があるのだなと」

「そりゃあぴちぴちの十六歳ですから」

「十六歳はもう半分大人だろ!」

「リンヤは大人よかタチ悪いけどな!」

 二人の会話のはずがすぐに周りが声を挟んでくる。こんなに収集のつかない会話を聞くのは初めてで、爽快な心地になる。ここでは誰も鬱屈としていない。

「ソウくんも十分可愛いわよ」

 ガルのグラスがテーブルに置かれる。視線を上げると、先程酒を作っていた女性が隣に来ていた。にこりと微笑む。赤色のリップがその笑顔によく映えていた。

「背が高くて、端正なお顔をしてるのに、とっても素直なのね」

 女性の手がソウの頭を撫で、そのまま顎まで降りてくる。細くて美しい指先が優しく顎をくすぐる。先程酒を手際よく作っていたのとは異なる、妖しい雰囲気だ。このように迫ってくる女性もグローリーシティでは見たことがない。

「色目使わないでよ、コウコさん。そいつを見つけたのは、俺」

 リンヤが隣にやってきて、コウコの手をどかす。コウコの視線がリンヤを捕え、また雰囲気が変わる。今度は相手をからかういたずらっ子のようだ。

「あら、嫉妬? 別に取ったりしないわよ」

「違う。コウコさんにまで毒されたらソウが使い物にならなくなる」

「それどういう意味」

「さあね」

 会話のテンポが速い。瞬く間に会話が進むものだから、二人の会話を追うので精一杯だ。

「ねね、ソウくん? モエギ族に会ってるんだろ」

 二人のやり取りを見ていたら、今度は別の人間が近寄ってくる。ここにいるデグローニの中では若い方に見える。人当たりのいい笑顔を浮かべ、目を爛々と輝かせてこちらを見つめている。

「返答に気をつけろ。ジャギーに捕まったら長ぇから」

「それ、どういうことですか、ガルさん!」

 ガルはジャギーのことは無視して、うまそうに酒を口にする。

 ジャギーの声。コウコの声。ガルの声。他の人の声。耳から入ってくる情報が、ここではあまりにも多い。様々な会話が行きかって、相手の声を聞き取るのも大変なのではなかろうか。

 脳の会話よりよほど不便だ。そしてよほど、好ましい。

(いい人たちだな)

 リンヤにだけ向けて、声を出す。リンヤの顔は見なかったが、微笑んでいるような気がした。


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