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(期待の有望株をシティが捨てるわけないでしょ)
男が昨日と同じ軽い口調で言い放った。背中は昨日とは違う。訓練服ではなく柄シャツ。この方が男の姿にしっくりくる。
男が穴の外に出ていく。大人しくついていく。ソウが出ると同時に男は最初と逆の動作で扉を閉める。口調は軽く、一見すると戦闘訓練についていけそうには見えないが、一連の動作は素早かった。
無駄のない動き。それをこなせる体。『捨て』駒にはならないタイプだ。
男は扉の閉まりを確認すると、北西に向かって歩き出す。前方に森がある。確かモエギ族が住んでいる森だ。かつてグローリーシティと隣町ダストリーシティが、癒しの力を求めて奪い合った種族、そう聞いたことがある。やがて不可侵条約が締結され、二都市間の戦争にはもう関与していない。現在は二都市間で休戦条約も結ばれているため、なおさらそうだろう。
グローリーシティの外に出た時点で重罪だ。昨日男が言っていたダストリーシティとつながることより多少軽い程度。加えて条約がある以上グローリーシティの人間がモエギ族の棲み処に近づくことも許されない。これは外に出るより重い罪になるだろう。
それを知らないわけがないだろうが、男は気にせず森に入っていく。ソウも森に踏み入れる。足元の小枝が柔らかな音を立てる。グローリーシティとは違うと肌で感じた。新鮮で混じりけのない空気。草花や木々の香り。動物の糞なのか、木々が腐ったのか、何とも言い難い変な匂い。訓練で森を映して戦うことはあったが、それは見た目や、手足に伝わる感触だけだったのだと気づかされる。
森に実際に行ったことがなくとも、あの訓練をこなしていれば実戦で困ることはない。そう教官たちは言う。理解していても、目を見張ってしまう。
(どうした?)
男から声がかかる。二人の距離は少し離れてしまっていた。
(なんでもない)
歩みを再開する。うっそうと茂った木々の間を縫って歩いていく。
「ここまでくりゃ平気かな」
突然目の前の男が口から声を出す。空気の振動が音となって耳に届く。その音は森に響きもせずに消えた。
「遅ればせながら、俺はリンヤ。よろしく」
リンヤはソウをまっすぐ見つめる。青磁色の瞳には力強い光が宿っている。若さだけでない、否、若さなんてとうに捨てている。長年積み重ねてきた強い思いを抱えた光だ。終始あんな軽い口調で喋っている人間のものとは思えない。
(よろしく。なぜ口で?)
「口で喋りなよ、ソウも。少しは出せるんでしょ?」
(答えになっていない)
ソウのつれない返事にリンヤは口をへの字に曲げた。
「なぜって……この方が気持ちいいから? あとはまあ、それが『普通』だと思うから」
(新世代なのにその感覚は珍しいな)
「確かに新人類計画のあとに生まれた俺らからすれば、人間が口で話す姿なんて一度も見たことないはずだしね」
新人類計画。御大層な名前を付けているが中身は単純だ。以前より開発を進めていた脳での会話を、市民全員に強制するための計画。二十年前に実行され、以来市民は口で喋ることは禁じられた。そして新人類計画のあとに生まれた者たちを新世代と呼ぶようになった。
リンヤが空を仰ぐ。豊かに茂った葉の隙間から一筋陽光が漏れている。右目に注ぐ光を、リンヤはそっと手で遮った。
「俺らにとっちゃ、脳が普通さ。けど、本当に普通なのか。モエギ族やダストリーの人間が見たら、どう思うか。そんなのは自明でしょ?」
リンヤは右手で拳を作り、それからこちらを向いた。その拳は柔らかく開かれる。
「だからちょこっと、シティを引っ掻き回そうかな、なんて思ってるわけよ」
リンヤの顔に軽薄な笑みが浮かぶ。
口で喋ること。瞳の光。リンヤの軽薄さは仮面なのだろう。何も考えていないように見せているだけだ。ソウと正反対の人物である。
(シティ内にそんな大規模な反対勢力がいるのか?)
リンヤの目が一瞬見開かれる。すぐに元の表情を形作るが、一瞬でも気圧されてしまいそうな視線だった。強い憎悪の念だ。軽薄の仮面の下に、目の前の男はああも激しい感情を隠している。
「さすが主席は話が早いねぇ。それで、のる? のらない? 色々聞きたいこともあるだろうけど、まだ質問には答えられない」
まだお前は仲間ではないとリンヤの態度が示している。ソウはリンヤの視線をまっすぐ受け止める。
おそらく他にも仲間はいるのだろうが、そうだとしてもあのグローリーシティを潰すことはできるのだろうか。それこそ昨晩のリンヤの言葉のように、ダストリーシティと通じるのが手立てかもしれない。今は休戦中ではあるが、お互いがお互いを潰したい気持ちは消えていないはずだ。もしくは少数精鋭で頭を潰すか。いずれにせよ崩壊させるというのは生半可な覚悟では挑戦できない。
ここで断ればリンヤは昨日のことを出すかもしれない。今更訴えると逆にリンヤも怪しまれる。そうだとしても分が悪いのはこちらだ。言い訳などいくらでもあるし、口から声を出していたのはソウだけだ。
頭の中で様々な計算を巡らしていると、不意にある顔が浮かぶ。幼い頃から何度も見た母の顔。母のあの顔――
「のった」
短く、小さく、掠れた声。周りにも聞こえる声で、ソウは返事する。リンヤは薄く歯を見せる。
「交渉成立」
リンヤは満足そうにして、再び森の中を進みだす。大方モエギ族を仲間にでも引き入れるつもりなのだろう。
「勝率は?」
「隠しても仕方ないから言っちゃうけど、今のところ二割あればいい方」
「仲間集めは?」
「新たに引き入れるのはソウで一人目。やめたくなった?」
「いや」
どちらかと言えば面白がっている表情のリンヤ。その問いに首を振る。
ソウで一人目ということは、この先もっと引き入れる予定の人間がいるということだ。二割という計算は、その予定人員を含めない数だと考えられる。曖昧な可能性を含めて計算しないあたり、寧ろ好感が持てる。おそらくそれを見込んで正直に告げたのだろう。
横を歩く人間を横目で窺う。伸び伸びと森の風景を眺める姿は、とてもクーデターを狙っているとは思えない。故に恐ろしい存在である。
「音がする。そろそろ集落が近いかも」
「了解」
隣のリンヤと視線を通わせ、すぐ小道から森の中に逸れた。口を閉じる。神経を聴覚と視覚に集中させる。ソウもリンヤも周囲に警戒を張り巡らし、音を殺して歩く。
そこまで遠くない場所から人の声が聞こえる。子供の笑い声、大人の怒鳴る声、人々のさざめき。内容まではわからないが、こちらに気づいた様子はない。声を出して暮らす人々の日常なのかもしれない。
(七メートル前方で停止)
(おーけい)
体勢を下げ、気配も殺す。そのまま進むと声がはっきりと聞こえ始める。リンヤとソウは左右に分かれ、茂みから前方を眺める。
数メートル先に集落がある。木造の家屋が雑然と並び、道も森を活かすように切り開かれ、入り組んでいる。一つ他より手の込んだ作りの家があるが、他の家にたいした違いはない。大方長かそれ以外かの差しかないのだろう。家畜を囲う柵はあっても集落を守る柵は見当たらない。畑仕事、野菜の下ごしらえ、洗い物。人々は各々の仕事をしながら、時折走り回る子供に声をかけている。
皆の表情が今まで見たことのないものだった。グローリーシティの人間とは比べ物にならないほど大きな笑顔だ。当たり前に口から声を出し、笑い合う風景が目に映る。
別の世界を目の当たりにしているようだ。そこだけ切り離されて、明るく輝いている。遠い遠い世界。ソウの手には決して届かない世界。
(南南西。少女離脱)
(……了解)
リンヤの声で我に返る。言われた方向を見ると、籠を腕に提げた少女が一人集落から離れるところだった。連れもいなければ、見送りの挨拶をする者もいない。
(追うぞ)
リンヤが言うや否や少女の方へ向かう。ソウも後に続く。低い体勢のまま一定の距離を保って歩く。
肩のあたりで切り揃えられた赤茶色の髪の毛が揺れる。そのたびに健康的に焼けた肌が見え隠れする。少女は特に警戒した様子もなく進んでいく。時折道端の花に目をとめたり、小動物と戯れたりするものの、追跡は容易かった。
程なくして少女は足を止め、籠を地面に置いた。額、心臓の順に拳を当て、最後に腹の前で合掌する。その後に草を摘み始める。先の動作が何を意味しているのか定かではないが、祈りを捧げているように見えた。グローリーシティとは全く違う生き方をしてきた者たちだ。一族特有の決まりがあるのだろう。
少女は草を摘み始めてからは、殆どその場から動かない。
(どうする?)
リンヤが少女を見つめたまま声をかけてくる。
(考えがある)
腰につけているナイフを取り出す。肘と手首の中間あたりを切り裂いた。骨までは達していないが、浅いわけでもない。ぱかりと皮膚が割れ、すぐに血が溢れだす。あっという間に地面に血だまりができた。それなりの痛みが腕に感じられる。
(いいじゃん)
ソウを見て、リンヤは満足そうに笑んだ。
「そこの人! 頼む!」
左腕を垂らし、動きが妨げられているように装う。大きな音を立てて茂みを飛び出す。少女はその声に気づき、そっと顔を持ち上げた。
「助け――」
若紫色の瞳と視線がかち合う。
「ぐっ……!」
その瞬間、腹を突き刺すような痛みが走り、思わずその場に蹲る。何度も何度も鋭利なもので貫かれ、その傷を引っ掻き回されているようだ。手で腹を押さえ、なんとかこらえる。痛みと吐き気で意識が朦朧とする。
「大丈夫ですか? そんな……なんてひどい怪我!」
「おい!」
前方から少女の声、後方からリンヤの声。鼓膜が震え、声を認識。痛みが引いていく。
顔を上げる。少女が心配そうにソウの顔を覗き込んでいる。美しい瞳がこちらを見ている。もう先程の痛みはやってこない。
「お腹の痛みは治まったみたいですね。待っていてください。こちらの傷を今」
少女が傷に手をかざす。柔い水色の光が灯る。すると見る見るうちに血が止まり、皮膚がつながり、残った跡も消していく。
それなりに深い傷だったが、十秒もかけずに癒えてしまった。この分だと体の一部が切断されても治せる可能性がある。
「す、すごい……」
「すごいな、あんた。どんな傷も治せちゃうんだ」
驚いた表情を作り、傷跡を眺める。リンヤは駆け寄って腕を眺めるふりをする。そしてすぐにソウに調子を合わせた。二人の人間に見つめられた少女は、きまり悪そうに微笑んだ。
「いえ……」
小さく発せられたその声に、他の言葉が続くことはない。
この力を疎んでいるのか。謙遜しているのか。単に褒められることに慣れていないのか。いずれにせよもう少し探りを入れなければ、この少女自身の力についても、モエギ族の力についてもはかり切れない。
とはいえ第一関門は突破だ。困っている人を切り捨てない。それだけで扱いやすさは段違いだ。
「申し遅れました。私はモエギ族のエリー……です」
「俺はリンヤ。こっちはソウ。見たところ歳近いし、そんな堅苦しい喋りしなくていいよ」
「あ、えっと……うん」
エリーは周囲に視線を走らせ、ほっと息をつく。
「あの、モエギ族……ではないよね。グローリーシティの人? それともダストリーシティの人?」
「グローリー」
「そっか。あの、モエギの人たちは、シティの人を……その……」
エリーが言いよどむ。
(モエギ族について知りたいと思った。それがシティにばれてこの傷。どう?)
(シティは自らの栄光を崩したくない、というシナリオか?)
(そ。あながち間違っていないっしょ)
その間にリンヤの声が脳内に流れ込んでくる。視線はエリーに向けたままなので、まさか二人が会話しているとは夢にも思わないだろう。この技術が本格的に導入されたのは、歴史を鑑みてもグローリーシティとモエギ族の関わりが絶えたあとだ。技術について知られている可能性は低い。
「わかってる。生まれる前とは言え、俺らがモエギ族にしてしまったことは理解している。すまない」
「え! 違うの。謝らないで。責めたいとかではなくて、他の人に見つかったらと……」
「ありがとう。傷を治すだけじゃなく、心配もしてくれるんだな」
「……やっぱり俺たちの行動は間違いじゃなかった。そうだろう、リンヤ」
何気なさを装ってリンヤに笑いかける。リンヤも笑顔で頷く。その表情の中で唯一、瞳だけは狡猾な光を宿している。だがエリーは気づく様子もなく、ソウの発言に不思議そうにしている。
リンヤは地面に尻をついてあぐらをかいた。ソウはそれを一瞥して、同じように座った。
「俺らはモエギ族のことを知るために、ここに来たんだ」
「私たちを……?」
エリーの表情に一瞬不安がよぎる。モエギ族の間で二つのシティが行ってきた惨劇は繰り返し伝えられているのだろう。
「もちろんあんたらに危害を加えるためじゃない。俺らがしてしまったことを正しく理解したかったんだ。でもシティに残る資料には、モエギ族の癒しの力を求めたこと、不可侵条約が結ばれたこと。それくらいしか書かれていない。おそらくシティは己が罪業を隠したいんだ」
リンヤがそこで言葉を切る。エリーはじっとこちらを見つめ、真剣に話を聞いている。エリーが内容を飲み込んだあたりで、ソウが言葉を引き継ぐ。
「それではいけないと思った俺たちは、モエギ族に直接聞こうと考えた。だが不可侵条約があるのに許されるはずもなく……この腕の傷だ。何とか振り切ったところでエリーに出会えた」
「そんな……」
エリーは口元に手を当て、顔を青くする。ソウのまっさらな腕を見る。傷跡は見る影もない。
ソウは傷のあった箇所を指先でそっとなぞる。微妙な肌の起伏すらない。肌の内側に伝わる感覚も普段と変わりない。外も内も完治しているようだ。エリーはソウのその行動を心配そうに見つめている。
「まだ、痛む?」
「いや、全く痛くない。わざわざ力を使わせて申し訳なかった。疲れなどあるだろう」
ソウが軽く頭を下げると、エリーは大慌てで手を振った。
「いいの、大丈夫! 本当に、大丈夫! 全然疲れてないし、まだまだ動けるよ」
「え、ノーリスクってことか?」
リンヤがエリーに問うと、またきまり悪そうな笑みを浮かべた。視線が地面に落ちる。
「普通の人は、違うかもしれないけど……」
「普通……?」
「ううん。それよりこれからどうするの? グローリーシティに戻れる?」
エリーの声が若干低くなる。やんわりと壁が作られた。そもそも初対面の人間に全て話すわけもない。グローリーシティの人間でない時点で、リンヤは引き入れるタイミングも長期的に考えているだろう。
今日はここらで引き上げるのが最適かと思えば、同時にリンヤが(潮時)と話しかけてくる。それに短く返事をすると、リンヤはすらすらと話し出す。
「いけないことはしたけど、子供だから不問にしてもらえると思う。なあ、明日もまたモエギ族について話を聞かせてもらえない?」
「……うん。またここにいるね」
エリーの表情が華やぐ。
まだ警戒心はあるが、嫌がられてもいないようだ。元々気のいい人物のようだし、これから先作戦に有効に生かせるだろう。
ソウとリンヤはエリーに別れを告げて、来た道を引き返す。背を向けると同時に、上げるように努めていた口角を下ろす。慣れない動きを連続で行ったため、口元あたりの筋肉がひきつっている。声は出さないにしても、口を動かす運動くらいはこれから行うべきだろう。
(エリーは普通のモエギ族より癒しの力が強い。ソウはどう思う?)
エリーからそこまで離れる前にリンヤが声をかけてくる。
(同感だ。普通の人なら俺の傷を治せない。治せるが疲れ切ってしまう。治すスピードが遅い。様々なパターンが考えられるが、エリーが特別なのは間違いない)
(集落から出てきた時の様子を見てもなぁ……。どこまで治せるか気になるところだな)
(本当にエリーがノーリスクかどうかというのも気になる)
(疑問は尽きないねぇ。まあまだこれから)
(ああ)
地面を踏む。少し足が沈む。浮かすと足跡が残る。訓練場も似たような感触だ。しかしこの森のように音や匂い、生命の息遣いをありありとは感じられない。風が吹けば森の木々がざわめき、そこら中から生き物の気配を感じる。この森は生気に満ちている。エリーも他のモエギ族も本当に生きているように見えた。
ちりっと胸の奥が焦げるような気がする。初めて抱く感情をソウはまだ理解できないでいた。
〇 ● 〇
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