第二十三話:勇者はもういないから
毒と瘴気によって穢れ尽くした地の底。
まともな人間では、一呼吸で身体中の肉が腐り落ちる地獄。
そこに立っているのは、俺を含めて四人。
湧き上がる感情を噛み潰し、右手に刻まれた聖痕を強く意識した。
この身に宿る七つの聖痕。
神から与えられた奇跡の内、《浄化》の光を発動させる。
またたく間に、周囲を呑み込む瘴気の一部が清浄な大気へと変わった。
「おい、フォルテ……!」
「パシアスは援護を頼む!!」
後方に控える仲間に一声だけ応えて、前へと踏み出す。
この場で立っているのは、俺を含めて四人。
正確には四人と一柱。
向けた視線の先には、魔王が――魔王へと《転生》を果たしたカイネが立っていた。
この世界を蝕む八つの呪い。
数百年以上も前から君臨し、未だに人類が一度も踏破できていない厄災。
人類という種の天敵、滅びを約束する大悪。
それが今、俺たちの前にいる。
元は最強の勇者だった少女が、その極大の呪詛を呑み込んだ姿で。
「来て、フォルテ」
カイネは笑っていた。
世界を呪うように笑っていた。
生誕を祝うように笑っていた。
その笑みは無邪気で、残酷で、見ているだけで心が掻きむしられる。
たった一度きりの、森の中での邂逅。
過去に消えた少女の面影が、どうしようもなく胸を過ぎる。
――ダメだ、折れるな。
正直に言えば、勝てる気はまったくしない。
だとしても、戦う他ない相手だ。
例え、それが憧れと好意を抱いた少女であってもだ。
「ッ!?」
瞬間、強烈な瘴気が吹きつけてきた。
《浄化》の光は維持している。
触れただけで肉を溶かす呪詛も、奇跡の輝きが無害化する。
「ちっ……!!」
そのはずなのに、喉の奥から熱い血がこみ上げてきた。
僅かに《浄化》の光を突破された。
一呼吸分にも満たない瘴気だが、それすら致死の威力で蝕んでくる。
深度『十』以上の呪詛にも耐える肉体でも、お構いなしだ。
佇むカイネの周囲で、黒い『何か』が蠢く。
それは竜の首だった。
真っ黒い鱗に覆われた、三本の竜の首。
その一つが、瘴気の塊を《
確か、元々のザッハークは三本首だと言っていた。
敢えてそれの真似をしているのは、楽しげなカイネの表情から察せられた。
――まだ、彼女は遊んでいる。
だったら今、やるしかない。
「待て、ダメだ! 行くな、フォルテっ!」
背中にイグナールの声を感じる。
彼女の傍にいるだろうサーレは、きっと立ち上がれない。
あれほど慕った
魔王を倒せる勇者は、ここにはいない。
だから、俺が行くしかなかった。
「おおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」
叫ぶ。
同時に、右目と背中に刻まれた聖痕が熱く燃え上がった。
《力》と《翼》、二重の発動による超加速。
ほんの数秒程度だけど、踏み込む足は音を置き去りにして駆け抜ける。
他の動き全てが遅くなる中で。
カイネの眼だけは、こちらの動きを捉えていた。
――私と同じ速度なら、それぐらいは当然見えてるよ?
言葉はなくとも、視線は雄弁に物語る。
三頭竜の首が蠢く。
また瘴気の《吐息》が吐かれる前に、先手を取る。
その動きを読んだ上で、カイネは愉快そうに笑っていた。
「良いね、躊躇いがない――!」
左手の聖痕が輝き、剣が生じる。
《浄化》の光を圧縮し、大振りな刀身を形成する。
魔王が纏う毒気や瘴気も、その刃は構わずに断ち切った。
渾身の一刀――を、魔王は受け止める。
巨大な
「無茶苦茶だな……!」
「当然、このぐらいはね?」
思わず文句を垂れると、カイネは楽しげに喉を鳴らした。
剣を手放し、再び二つの聖痕を重ねての超加速。
前髪を掠めたのは、魔王の指先だ。
凝縮した呪いに染まった爪。
《浄化》では消しきれない呪詛は、まともに喰らえばそれだけで死にかねない。
加速状態を維持したまま、左目の聖痕を意識する。
既に《浄化》《剣》《力》《翼》と、四つの聖痕を同時に発動させている。
五つ以上の使用は、まだ未経験だが。
「やるしかないよな!!」
自らを鼓舞する意味でも、強く声を張り上げる。
左目に刻まれた《雷》の聖痕。
青白く輝く閃光が、大気を引き裂く槍となってカイネへと向かっていく。
当然、これにも《浄化》の力が付加されている。
それに対し、カイネは竜頭の一つを盾にした。
衝撃。
《浄化》を宿した雷の槍は、竜の首を粉々に打ち砕いた。
カイネ自身には届かなかったが、ダメージを与えることはできた。
「これなら……!」
「――勝てるって、ホントにそう思う?」
戦える。勝機はある。
そんな俺の楽観とも呼べる希望をカイネは静かに嘲笑う。
目に見えるほど呪いが渦を巻き、砕けた竜の首へと集まっていく。
一瞬、本当に一瞬で。
粉砕したばかりの竜は、完全に無傷の状態で再生されたのだ。
何だそれ、ふざけるなよ。
「クソッタレ……!!」
毒を吐いたら、相手も瘴気をぶち撒けてきた。
腐食した地の底を、更にぐずぐずに腐らせながら。
押し寄せてくる呪いの波濤を、《浄化》の光でどうにか遮る。
超加速は解除し、腹に刻まれた聖痕を意識した。
《鎧》の聖痕。
白く輝く装甲が、瞬時に身体の要所を覆っていく。
かなりキツかった呪詛の影響が、これで大分マシになった。
「うん。あれだけ格好良く啖呵を切ったんだから。
当然、このぐらいはして貰わないとね」
「……余裕そうだな、チクショウ」
カイネは、俺を見ていた。
俺だけを見ていた。
その瞳は、子供のように輝いていた。
稚気を帯びながらも、同時に莫大な呪いを含んだ眼差し。
以前ならば、その視線だけで溶けてなくなっていただろう。
「そうだ、それで良い。
俺が――勇者が、
我ながら、なんとも酷い台詞だ。
俺の力は全て、元はと言えばカイネのもの。
何もかもが借り物、貰い物の分際で、何が勇者か。
自分で自分を笑い飛ばしたいぐらいだ。
……発動している聖痕は《浄化》と《力》、《剣》と《鎧》。
合わせて四つ、今の俺が支障なく戦闘を継続できる限界値。
《力》で強化した《浄化》は、絶対に解除できない。
した瞬間に、後ろにいる仲間たちが呪詛に呑まれて死ぬ。
《剣》と《鎧》を、他の聖痕と切り替えながら戦うのがベストか。
「――考え中で悪いんだけど。もう、始めて良いかな?」
声は、ぞっとするほど近くから聞こえてきた。
目を離していなかった。
にも関わらず、カイネは俺の目の前に立っていたんだ。
速い……!?
転移とか、そういう不可思議な手段じゃない。
ただただ単純な圧倒的速度。
考えてみれば、彼女はさっきの超加速に反応していた。
今のカイネには、《翼》の聖痕は無いはず。
つまり、普通にアレと似た速さで動けるってことか……!?
「ッ!!」
驚き、動揺してる暇はない。
叩きつけられた爪を、剣と鎧で受け止める。
押し潰されないように、全霊の力で。
同時に《翼》の聖痕を起動する。
速度で負けてたら勝負にもならない……!
「そう、気を抜かないで。私だけを見てよ、フォルテ。
今は君が勇者で、私が魔王なんだから」
祈りにも似た声に、応じている余裕はなかった。
加速、加速、加速。
《力》の聖痕は、俺の持つあらゆる力を強化してくれる。
単純な身体能力だけでなく、他の聖痕の力もだ。
ただし、負担は大きい。
一歩足を出すごとに、全身の骨がギシギシと軋みやがる。
そんな、こっちが必死に出してる速度に、カイネは平然と追いついてきた。
だが、負けてはいない。
むしろ僅かだが、こっちの方が速いぐらいだ。
鬼ごっこが楽しいのか、彼女の顔は笑っていた。
走りながら、一時的に《剣》と《鎧》の聖痕を解除する。
そして、同時に。
「《雷》よ――!!」
左目の聖痕を発火させた。
追いかけてくるカイネの顔面へと、《浄化》を受けた雷の槍を叩き込む。
今度は、竜の防御も間に合わない。
蒼白い輝きは、瘴気の衣を貫いてカイネ自身に直撃する。
動きが止まった。
どの程度のダメージを与えられたかとか、確認している暇はない。
再び《剣》。
刃を握り締めて、加速状態からの強引な方向転換。
雷に貫かれたカイネへと肉薄する。
「おおおおぉぉぉぉおぉッ!!」
「ハハハハハハ、無茶するなぁ!」
二人の声に、竜の叫びが重なる。
コイツらにも、独立した意識があるのか。
三頭竜は呪いの声を発しながら、俺に向けて襲い掛かってくる。
邪魔だ……!!
首の一本に刃を食い込ませ、内側から《浄化》の光で焼き尽くす。
吐き出される瘴気は、まともに喰らうことだけは避けた。
至近距離からの《雷》の連打で、他の二本の首も一時的に退ける。
妨害をくぐり抜けた先には、倒れ伏したカイネが――。
「……ッ!?」
いた。
だが、彼女は倒れてはいなかった。
《浄化》の雷で焼かれた傷も、既にほとんど塞がっている。
笑っていた。
痛みなどないように、平然と笑っていた。
俺が無謀に飛び込んでくるのを、カイネは待ち構えていたのだ。
「舐めんなよ……!!」
「舐めてなんかないさ」
伸びてくる手を、剣で真っ向から叩く。
呪詛の闇と《浄化》の光。
それらが互いに食い合って、空間が軋むような音を響かせる。
刃と爪が弾かれ、同時に《剣》の聖痕へと更に強く意識を集中させた。
これまで、剣を振るっていたのは左手だ。
そっちはそっちで剣を握ったまま、右手に二本目の剣を形成する。
聖痕の過剰使用に、神経が焼ききれそうなほどの苦痛が襲ってくるが。
それを気合いで噛み潰し、二刀の剣をカイネへと打ち込む。
「ッ――――!?」
初めて。
この戦いで初めて、カイネに驚きの感情が過ぎった。
《浄化》を伴った剣の切っ先が、瘴気を裂いて彼女の血肉を抉る。
致命傷には遠く、深手と言うにも浅い。
それでも、刃は通った。
刻まれた一筋の傷口からは、赤黒い血が流れ落ちた。
「まだまだ……!!」
そうだ、まだだ。
まだ遠い。
戦えるだけじゃ足りない。
届くだけでも、まだ足りない。
俺がやるしかない。
俺が、この魔王に、勝つしかないんだ。
勇者はもういない。
俺はまだ、勇者になれていない。
「が……ッ!?」
「甘いよ、フォルテ」
振り下ろした剣の片方が、砕け散る。
砕かれたのだ。
カイネの手に掴み取られ、あっさりと握り潰された。
普通の《剣》だったらあり得ない。
無理やり二刀にしたせいで、強度が下がっていたのか。
手痛いミスを省みる前に、呪詛に濡れた爪が腹に突き刺さる。
貫かれる――寸前、《鎧》の発動が間に合った。
装甲が止めてくれたが、衝撃までは完全には防げない。
息が詰まる。
僅かに浸透してきた呪いが、血肉を食い荒らそうと暴れている。
「こ、の……っ」
耐える。
《浄化》をもっと強めて、強引に内側の呪いも排除する。
強すぎる《浄化》は、逆に生身に対しては毒になる。
が、今はそんなことも言っていられない。
呪詛を無理やり消し飛ばしてる間も、戦いは続いている。
トドメとばかりに振り下ろされた爪を、無事な方の剣で弾き落とす。
その直後。
「《雷》よ!!」
既に五つの聖痕を発動しているが、その状態で《雷》を発火させた。
ほぼゼロ距離から放つ雷の槍。
威力は先ほどよりも低いけど、相手にとっては不意打ちのはず。
狙い通り、雷光はカイネの身体を焼き焦がす。
《浄化》によって瘴気も剥ぎ取られ、相手は僅かに後退する。
追撃――を、仕掛けられれば良かったが。
「っ……は……!」
その瞬間、こっちにも余力はなかった。
自殺行為に等しい聖痕の六重発動。
心臓の鼓動は激しく、爆発寸前の火の玉みたいだ。
――まだだ、まだ緩めるな。
退いても、魔王と化したカイネは強大なままだ。
雷で貫かれた傷も、もう殆ど塞がっていた。
本当に完全に治癒したのか、治ったのはあくまで見た目だけなのか。
判断はつかない。
積み重ねていけば、いつか必ず届く――そう信じて戦う他ない。
だからこのぐらいで、音を上げるわけにはいかなかった。
「……勇者は、もういないからな」
だから、俺がやるんだ。
そう決めて、覚悟して、この地の底に立っている。
……パシアスからの援護は、未だにない。
他の二人が気がかりで、それどころじゃないんだろう。
それならそれで、仕方がない。
「俺が、
「……嬉しいな。今、心臓が凄くドキドキ言ってる。
こんな気持になるのは、貴方が初めてだよ。フォルテ」
決意を、改めて言葉にする。
借り物しか持たない自分でも、届くはずだと今は信じて。
カイネは変わらず、俺に対して微笑みを向けていた。
世界を呪う魔王でありながら、恋する可憐な乙女のように。
彼女は、本当に美しく笑っていた。
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