第二十話:カイネの導き


 意識が、頭の中から剥がれ落ちそうになる。

 耐えろ。

 耐えないと、一秒先には死が待ってる。

 もう、どれだけの時間が経ったか。

 一秒が永遠にも感じられて、何もかもが曖昧だった。

 地獄だった。

 分かり切っていたなんて、そんなのは凡人の思い上がりだ。

 虫ケラほどの理解力じゃあ、想像もできないようなモノがこの世にはある。

 今いるザッハークの体内なんて、その最たるものだ。


「ッ……」


 暗い。熱い。寒い。寒い。苦しい。痛い。

 カイネの肉体が持つ耐性と、絶えず光を放つ《浄化》の聖痕。

 その二つに守られているにも関わらず、生命は音を立てて削られていく。

 前へ進むほど、血肉の深奥にあるはずの心臓へと近付くほど。

 漂う呪毒の濃度は、天井知らずに上がり続ける。

 熱い塊が、胸の奥から込み上げて来た。

 それを、吐き出す前に呑み込む。

 吐いてしまったら、後はもう流れ出すのを止められなくなるからだ。

 命とか、魂とか。俺という人間を形作る何もかも。

 そうなってしまえば終わりだと、本能が警告を発し続けている。


「く、そ……っ」


 何に対しての悪態か、自分でも分からない。

 ただ、罵らずにはいられなかった。

 何に? 誰に?

 運命か? 馬鹿な自分か?

 なかなかくたばりやがらない、魔王のしぶとさか?

 それとも――こんな後始末を残して逝った、勝手気ままな勇者を――。


「違、う」


 違う。

 それだけは違う。

 カイネは、やれるだけのことをやったはずだ。

 人間の力では、決して届くはずのなかった魔王討伐。

 その偉業を、九割以上成し遂げたのは、間違いなくあの少女の功績だ。

 俺たちがやってることなんて、ほんの少しだ。

 生き残った仲間たちを逃がして、たった一人で魔王に挑んだカイネ。

 一体、彼女はその時に何を思っただろう。

 分からない。

 他人の――その上、故人が考えていたことなんて、分かりようもない。

 けど、何となく。

 本当に、これは何となくの思い付きだけど。

 カイネは、後のことを俺たちに託してくれたんじゃないかと。

 ふと、そんな考えが頭を過ったんだ。

 彼女の魂が失せた後も、この身体に聖痕の輝きは残されていた。

 その光こそ、カイネの遺志を証明している――そんな気がするんだ。


「……そう、だ」


 きっと、それは勘違いなんかじゃない。

 理屈や根拠なんて無くとも、はっきりとそう言える。

 だって――ほら。


『……フォルテ』


 この耳は、

 幻聴だって構わないと、心の底から思える。

 あまりの毒の濃度に、視界は霧が掛かったように霞んでいる。

 けど、俺の目はその姿をハッキリと捉えていた。

 黒い髪も、細い肢体も、穏やかな表情も。

 全て、あの時に見た姿と一つも変わることはなかった。


「カイ、ネ……!」


 名を呼ぶ。

 進む足は、歩くというよりも引き摺る有り様だ。

 呪毒が渦巻く血肉の地獄。

 万物を黒く蝕む闇の中で、カイネは希望の光のように瞬いて見えた。


「カイネ……俺は……!」

『――――』


 彼女は笑っていた。

 穏やかに微笑みながら、暗闇の奥へと身を躍らせる。

 俺は導かれるまま、その後を追った。


『――大丈夫、もう少しだよ』


 ふわり、ふわりと。

 蝶が舞うみたいに、彼女は柔らかく宙を舞っていた。

 見た目では、それなりに距離が開いているのに。

 囁く声だけは、すぐ耳元から聞こえてくる。

 夢幻も同然の光景。

 けど、呪詛と毒気に痺れた意識は、それを現と疑わない。

 前へと、ただ進む。

 手足と身体、朽ち果てそうな心を引き摺って。


『頑張って、フォルテ。

 貴方ならできるよ、私は知ってる。

 だって、いつだってこうして、歯を食い縛って来たんでしょう?』

「……っ、カイネ……」


 柔らかく、温かな声。

 一言一言が、止まりそうな心臓を高鳴らせる。

 進むために歩む足は、そのまま命の鼓動と繋がっていた。

 この魂が脈打っている限りは、決して止まらない。

 諦めない。諦めてたまるか。

 俺は今、最強の勇者に導かれているんだ。


『《浄化》と《鎧》――それに、《翼》。

 凄くがんばってるけど、このままじゃ持たない。

 けど、大丈夫。今の貴方なら、もう一つぐらいは何とかなるよ』

「もう、ひとつ……?」

『そうだよ。ほら、右目の聖痕を意識して』

「ッ…………!」


 魂に直で響くような囁き。

 その声の言われるがままに、右の眼を強く意識した。

 そこに刻まれている聖痕。それは、確か――。


『《力》――その聖痕は、貴方の持つ全ての力を強くしてくれる』


 夢幻の淵から語り掛けてくるカイネの、その言葉の通りに。

 発動している聖痕全ての力が、一気に強化されるのを感じた。

 呼吸もおぼつかないほどだった呪毒を、《浄化》の光が押し退ける。

 ……呪いの影響を、完全に除去できたわけじゃない。

 うっかりすると気絶しそうだし、視界もぼやけ気味で随分と怪しい。

 けど、ついさっきまでと比べれば、文字通り雲泥の差だった。


「ありがとうな、カイネ……!!」

『――――』


 呟く言葉に応えたような、穏やかな微笑みが瞳に映る。

 踏み出す足は、先ほどよりも遥かに軽かった。

 《力》によって強化された《浄化》と《鎧》で、呪毒を押し退ける。

 そして苦痛に蝕まれた身体を、《翼》で無理やり加速させた。

 俺もヤバいが、外の状況も気になる。

 暴れるザッハークの相手を、サーレやイグナールたちが今もしてるはずだ。


「急げ……!!」


 毒に蝕まれる苦痛とは別に、焦燥が胸を焼く。

 どれだけ死にかけで弱っていようが、魔王の力は強大だ。

 長くは耐えられない。俺も、仲間たちも。

 だから急げ。もう、どのぐらいの時間をこの血肉の洞穴で過ごしたか。

 サーレにイグナール、それにパシアス。

 彼らだったら、きっと無事だ。

 そう信じて、祈って、前へ。

 永遠にも等しい時が過ぎ去り――やがて。


「ッ…………!」


 俺はとうとう、その場所に辿り着いた。

 足を踏み入れたと同時に、凄まじい濃度の呪詛が押し寄せて来た。

 強化したはずの《浄化》でさえ、完全には消し切れない。

 ドス黒い血と肉で構成された、広いドーム状の空間。

 その中心で、闇を噴き出す巨大な肉塊があった。

 ドクン、ドクンと。

 地響きめいた音を規則的に響かせるソレが、なんであるのか。

 考えるまでもなく、明白だった。


「こいつが、ザッハークの心臓……!」


 身体に絡みつこうとしてくる、暗黒の呪い。

 振り払い、《浄化》の光で消し飛ばしても、途切れる様子は微塵もない。

 まるで、頭からつま先まで泥の海に浸かっているみたいだ。

 いつの間にか、視界からカイネの姿は消えていた。


「あと、少しだ……っ」


 カイネは、必要なことをしてくれた。

 だったら次は、俺がやるべきことをやる番だ。

 《翼》を解除して、左手の聖痕に強く祈る。

 展開された光の《剣》を握り締め、魔王の心臓へと近付く。

 縮まった距離は、精々が歩幅一つ分。

 たったそれだけの違いでしかないのに、呪詛の濃度が跳ね上がった。

 気を抜いていたら、魂ごと吹き飛びそうだった。


「悪足掻きが、過ぎるだろ……クソッタレ……!!」


 きっと、これが《蛇王》ザッハークの最期の抵抗だ。

 けど、そんなものにやられてやるつもりはない。

 ――あの心臓に、この《剣》を突き立てれば、それで全てが終わる。


「あぁ……本当に、あと少しだ……」


 カイネと初めて会った時も、蛇の魔獣に殺されかけた。

 そして今、蛇の魔王を相手に死にかけている。

 これは果たして、どういう因果だろうな。

 我ながら下らないことを考えながら、心臓との距離が近付いていく。

 ただでさえ目が霞んでるのに、毒気が濃すぎて視界がヤバい。

 人間の背丈よりデカい心臓でも、うっかりすれば見えなくなりそうだ。

 ……にも関わらず、俺の歩みに迷いはない。

 黒く渦巻く闇の中に、微かな光が見えたからだ。

 黄金色の輝きは、カイネの聖痕と同じモノな気がした。

 きっと、これも彼女の導きだ。


「カイネ……!」


 無意識にでも、唇は彼女の名を呟く。

 あと少し――本当に、あと少しなんだ。

 暗闇に光る星を追うように、前へ前へと進んで行く。

 輝きは僅かだが、闇に包まれた状況では星の如く煌めいている。

 だから、迷う心配は皆無だ。


「ッ……くそ……」


 近付く。

 呪詛が濃くなる。光は、まだ見えている。

 近付く。

 毒気は凄まじく暴力的で、《浄化》と《鎧》の上からでも皮膚を焼く。

 星の輝きは消えず、同じ場所で光を放っている。

 近付く。近付く。近付く。

 遂に、俺は魔王の心臓の前に、立っていた。

 《剣》の間合いだ。

 今この瞬間も、カイネの光は心臓の上で瞬いている。

 「ここを狙って」と、彼女がそう言っているような気さえした。

 俺は迷わなかった。

 迷わず《剣》を振り上げて――。


「おおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!」


 躊躇わず、それを真っ直ぐに振り下ろした。

 刃は大した抵抗もなく、分厚い肉を派手に切り裂いた。

 真っ黒い油みたいな血が、呪詛と共に噴き出す。

 身体に浴びて良いモノじゃないだろうが、今は気にしてられない。

 持てる力を出し尽くしても構わないと、更に刃を重ねる。

 切り裂く。切り裂く。何度でも切り裂く。

 魔王の心臓を、今度こそ完全に破壊するために。

 そのまま、俺は。


「………………え」


 振り下ろすはずの《剣》が、止まった。

 刻んだばかりの傷から、血と呪詛を吐き出す心臓。

 急速に死の色が濃くなっていく血肉の上で、今も輝く光。

 光。そう、光だ。

 幻覚でもなければ、俺の都合の良い思い込みでもない。

 そこには確かに、星にも似た眩い光があった。


「……なん、で?」


 その光は、聖痕だった。

 魔王の心臓に刻まれた、一つの聖痕。

 ……勇者が持つ聖痕にしろ、魔獣や魔人が持つ呪紋にしろ。

 それを見ただけでは、『どういう力を宿している』かは分からない。

 鑑定とか、そういう《奇跡》を使うだとか。

 兎も角、普通は見ただけでは聖痕の意味は分からない。

 分からない、はずなのに。

 俺はその聖痕がどんな意味を持つのか、ひと目で理解していた。

 理解、してしまった。


「…………《 》……?」


 嘘だ。

 あり得ない。

 でも、だって、それは――つまり。

 この聖痕が、俺の持っているモノと、同じであるとしたら。


「ッ――――!?」


 輝きが、消えた。

 まるで蝋燭の火を、吹き消すように。

 「もう役割を果たした」と、そう示すみたいに。

 消えて、直後に心臓の傷口が裂けた。

 俺が斬った傷が、内側から更に広げられたのだ。

 思考が追いつかない。

 今、俺は、何を見せられてる?


「――――あぁ、ありがとう。フォルテ」


 声。それは絶対に、幻聴じゃない。

 瘴気に塗れた空気を震わせるのは、間違いなく少女の声だ。

 言葉を交わした機会は、たった一度だけ。

 だけど、きっとこの先ずっと忘れるはずのない声。


「貴方なら、きっと来てくれるって、信じてたよ」

「……カイ、ネ」


 笑っていた。

 魔王の心臓を、内側から引き裂いて。

 呪詛で黒く濁った血で、その身体を余さず濡らしながら。

 微笑む少女が、そこにいた。

 黒髪も、白い肌も、幼さの残る美しい顔立ちも。

 初めて出会った時と、何一つ変わらない。

 カイネは、笑っていた。

 それは本当に、愛らしい微笑みだった。

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