第十九話:魔王の悪足掻き
『■■■■■■■■――――――ッ!!』
「っ……」
響く叫びは、世界そのものを揺るがすかのようで。
――恐ろしい。いや落ち着け。
今の声には、間違いなく苦痛が混じっていた。
《蛇王》ザッハークは、イグナールの炎に焼かれて痛みを感じている。
攻撃が有効だという、何よりの証明だ。
「これでも喰らえ……!!」
負けじと、左目の聖痕を発火させる。
《雷》が瞬き、炎に焼かれた黒い鱗を撃ち抜いた。
咆哮。絶叫。
大量の毒気を含んだドス黒い血が、穿った傷口から溢れ出す。
例え聖痕を持つ勇者でも、ひと呼吸で致命になり得る濃度。
それを浴びる前に、右手の《浄化》の光を強めた。
輝きを受け、毒の呪いは一瞬で無害化される。
同時に、イグナールが文字通り火を吹いた。
「ガアァ――――っ!!」
獣じみた叫び。
視界を赤く染める紅蓮の炎が、魔王の一部を呑み込む。
本当に、凄まじい火力だ。
撒き散らされる余波に、こっちの肌が焼けてしまいそうだった。
「フォルテ、《鎧》を!」
「あぁ!」
イグナールの声に従い、《鎧》の聖痕を発動させる。
こっちの防御を固めておかないと、向こうが全力では戦えない。
《浄化》の光を帯びた、半透明な装甲。
それが身体を覆うと、熱はほとんど感じられなくなった。
よし、これなら行ける。
『■■■■■■――――ッ!!』
当然のように、ザッハークもやられっぱなしではない。
刻まれた傷から毒の血を流しながら、巨体を振り回すように暴れ出す。
爪。爪。牙。尾。
狂った獣が、デタラメにのたうち回ってるような。
そんな滅茶苦茶な攻撃でさえ、魔王が行うなら天変地異だ。
巨大な質量に、触れれば死ぬ毒の呪い。
森を薙ぎ払って大地を抉り、更に空気を真っ黒い毒溜まりへと変えていく。
「化け物め……!」
《翼》による飛行で、破壊の渦から遠ざかる。
呻くイグナールの声には、頷く他ない。
魔王は死にかけている。
実際のところ、それは予測ではあって確証はなかった。
真っ当な生き物なら、間違いなく死に至る傷。
それを幾つも刻まれた状態で、死なないはずがない。
とはいえ、魔王の死なんて人類は未だに経験したことがない話だ。
希望的観測が含まれていなかったと言えば、嘘になる。
けれど。
「やっぱり、アイツはもう瀕死だ……!」
漏らした声には、自然と歓喜の色が滲んでいた。
分かる。実際にこの距離で戦えば、より鮮明に見えるものがあった。
憤怒と憎悪で煮え滾る瞳は、時折不安定に揺れている。
深度『五』で遭遇した時よりも、全体の動きも明らかに鈍くなっている。
真っ黒い血が流れるほど、竜が見せる苦痛の気配も強まっていた。
間違いない。今なら、確信を持って断言できる。
魔王は――《蛇王》ザッハークは、もう死ぬ寸前だと。
『■■■■■■――――ッ!』
「っ……!?」
気を緩めたつもりはなかった。
が、死にかけても尚、魔王の爪は十分な速度を持っていた。
振り抜かれた爪が、《鎧》の上から叩いてくる。
衝撃と、《浄化》で消しきれなかった僅かな呪毒。
それらが身体の内側を貫き、熱い血がこみ上げてきた。
「フォルテ!!」
「くっ、そ……!」
毒気を纏った長い尾が、イグナールに向けて振り下ろされる。
幸い、そちらは当たらなかった。
安堵している暇はない。
口元から握った血をこぼしながら、《翼》を使って高く飛ぶ。
直後に、俺がいた空間を鋭い牙が呑み込んだ。
魔王の奴、完全にこっちを標的にしてやがるな……!
『■■■■■■■■――――――ッ!!』
「うるせェよ馬鹿……!」
意味はないと知りつつも、思わず叫び返してしまった。
イグナールの《炎》が、黒い竜の身体を焼く。
しかし、そのぐらいでザッハークの動きは止まらない。
鱗を多少燃やされようが構わずに、俺ばかりを狙ってきた。
牙。牙。爪。時折尾も振り回される。
そのどれか一つでも、まともに喰らえば死ぬ。
《鎧》と《浄化》、それに《翼》を維持して兎に角逃げ回った。
「きっつい……!!」
あと少しで、《蛇王》ザッハークは死ぬ。
既にカイネの手によって、あの魔王は命脈を断たれている。
今のアイツがしていることは、絶命する寸前の単なる悪足掻きのはずだ。
ただそれすらも、人間では抗い難い大災害というだけで。
「オイ、しっかりしろよフォルテ!!」
「……!」
声。それはパシアスのものだった。
耳に届くと同時に、温かい風が身体を通り抜ける。
優しい熱だった。
鈍く残っていた内側の痛みが、癒やされていくのを感じた。
「援護は可能な限り行う! だからそっちは、どうにか頑張ってくれ!」
「ハハハハ、しかしマジでヤバいな魔王……!
近づいたら絶対に死ぬだろ……!」
暴れる《蛇王》から離れた位置で、サーレとパシアスがこちらに手をかざしていた。
サーレの《治癒》と、パシアスの《風》の聖痕。
その二つの力で、遠隔で傷の治療を行ってくれたようだ。
おかげで、さっき受けた毒の影響も完全に消え去った。
これなら……!
『■■■■■■■■――――ッ!』
「うるせェって言ってるだろ、この蛇野郎……!!」
叫び返し、《鎧》を解除する。
俺が今、一度に使える聖痕の数は三つが限度。
《浄化》は解除できないので、使えるのは二つまで。
《翼》による加速を維持しながら、再び《雷》の聖痕を発火させた。
光が瞬き、雷の槍がザッハークの顔面に突き刺さる。
魔王が怯んだら、その隙を突く形で一気に間合いを詰めた。
「おおおおぉぉぉぉぉぉっ!!」
叫ぶ。
叫びながら、立て続けに《雷》を連発する。
イグナールの方も、《炎竜》の姿で魔王の鱗を叩いている。
焼かれた傷痕を狙って、何度も雷撃を撃ち込んでいく。
断末魔にも似た絶叫。
焼かれ、引き裂かれる痛みと苦しみに、魔王はのたうち回る。
こっちの左目も、焼けるように痛んだ。
「魔王め、これでも足りないのか……!」
「…………」
イグナールが漏らした言葉の通り。
《蛇王》ザッハークは、まだ力尽きる気配を見せない。
死にかけている。弱ってきている。
それは間違いないはずなのに。
俺たちの攻撃では、コイツを死の底に突き落とすには足りないのだ。
……やはり、事前にサーレが言っていた通り。
魔王を完全に殺すには、首か心臓をどうにかするしかない。
首を落とすのは、正直難しいだろう。
俺もイグナールも、《雷》と《炎》を何度も撃ち込んでいる。
鱗や抉り、肉を焼くことはできても。
あの巨木みたいな首を落とすには、火力がまるで足りていない。
結局のところ、選択肢は一つしかなかった。
「イグナール!」
「……本当に、やるんだな?」
名を呼んだだけで、こちらの意図は察してくれたようだ。
《炎》でザッハークを牽制しながら、イグナールは視線だけを向けてきた。
迷わず頷く。
魔王の胸元に刻まれた、亀裂の如き傷痕。
予想が正しければ、アレは心臓にまで達しているはずだ。
万が一違った場合でも、体内から攻撃を仕掛けるのは有効だろう。
ただ、それを行うには呪詛まみれの血肉に耐える必要がある。
実行可能なのは、カイネの身体と《浄化》を持つ俺以外にはいなかった。
「やれる。俺は、そのためにいるんだ」
「……分かった。突入までの援護はする。
そこから先は君に全て任せる」
「あぁ」
恐怖の針が、心臓を何度も突き刺す。
こうして戦っている間も、ずっとそうだ。
恐れはどれほど薄くなっても、完全に消えたりはしない。
死神の吐息は、骨身を凍てつかせるほどに冷たかった。
……だとしても、やるって決めたからな。
覚悟した。決意はとうに済ませた。
恐怖がこの鼓動を止めてしまわぬ限り、やらない理由はなかった。
『■■■■■■■■――――――ッ!!』
「……やはり、動きは鈍くなってきているな。
だが、油断はするなよ」
「分かってる」
イグナールは、これまで以上に分厚く《炎》を纏う。
こちらも、《浄化》と《翼》の力を強めた。
遠く離れた位置では、サーレとパシアスが何かをしているようだ。
声までは届かない。
が、パシアスの《風》で、こちらに援護を飛ばしてくれてるのは分かった。
皆の心は、今間違いなく一つになっていた。
勇者カイネが成し遂げた魔王討伐を、完全な形で実現する。
そこに、俺の名誉は無くても良い。
俺は勇者じゃない。きっと、勇者にはなれない。
ただの代理に過ぎなくとも――やれることは、あるんだ。
それだけでも、俺には十分だった。
「行くぞ――!!」
「――――ッ!」
その声に応じる形で、《翼》は加速した。
先陣を切るのはイグナールだ。
全身を《炎》に包んだ姿は、まさに巨大な火の玉だった。
ザッハークが大顎を開き、そこから真っ黒い毒気の塊を吐き出した。
それに触れただけで、空気が腐り落ちるのが分かった。
魔王の放つ《
イグナールは、それに真っ向から躊躇いなく突っ込んだ。
「こんなもの……!!」
「イグナール!」
「構うな! 君は自分のなすべきことだけ考えろっ!!」
《浄化》は、強く維持し続けている。
《炎》は、触れた毒気を絶えず焼き尽くしている。
それでもまだ、ザッハークの毒は強力だった。
実際、イグナールの声は苦痛を帯びて掠れて聞こえた。
魔王の放つ《吐息》は、まだ途切れない。
燃え盛る炎熱と化したイグナールは、ザッハークの呪毒と拮抗していた。
迷っている暇はない。
「もう少しだけ、持ち堪えてくれ……!!」
祈るように呟いて、魔王に刻まれた亀裂へと飛ぶ。
ザッハークは《吐息》を放っているため、こちらに注意を向ける余裕はない。
命懸けで、イグナールがこじ開けてくれた隙。
それに我が身をねじ込むつもりで、俺は全力で駆け抜けた。
近付けば、刻まれた傷の大きさが良く分かる。
それはあまりにも深く、内側は暗闇に閉ざされて見通すこともできない。
まるで、地獄が口を開けているかのような。
「だからなんだよ……!」
己を奮い立たせるため、あえて強い言葉を口に出しながら。
俺は勢いつけて、魔王の傷口へと飛び込んだ。
幸いと言うべきか、それはちょっとした洞窟程度の広さはあった。
身体が支えることもなく、するりと滑り込むことができた。
――そして同時に、凄まじい濃度の呪詛と毒気に包み込まれた。
「ッ…………!」
一瞬、呼吸が詰まった。
外で浴びた呪毒なんて、これに比べたらそよ風みたいなものだ。
《浄化》の光をこれ以上なく強めるが、それでも影響を消しきれない。
毒の塊に、自分から首を突っ込んだ気分だ。
「いや、実際その通りか……!」
《蛇王》ザッハークは毒の魔王だ。
その体内が、最も毒が強いことなんて分かり切っていたはずだ。
心臓が激しく脈打っている。
大丈夫だ、今の俺にはカイネの聖痕がある。
この身体だって、魔王の毒なんかに負けたりはしない。
「――あぁ、大丈夫だ」
喉奥からこみ上げてきた血は、ぐっと呑み込んだ。
《翼》と《鎧》、それから《浄化》。
三つの聖痕を、気力を振り絞って維持する。
どれか一つでも途切れたら、その時点で死ぬと。
そう自身に強く言い聞かせながら、俺は血肉でできた空洞を進む。
暗闇の奥にあるはずの、魔王の心臓を目指して。
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