第十四話:怒れるフォルテ


「砕けろッ!!」


 イグナールが吼え、視界の端で真っ赤な炎が唸った。

 魔女の呪いによって、人間の身体と溶け合った二匹の怪物。

 大蜥蜴と大百足の両方を、《炎竜》は纏めて殴り飛ばす。

 《剣》、《鎧》、《炎》。

 三つの聖痕を重ねた、燃え盛る炎熱の装甲。

 《鼓舞》による強化も受けた爪の一撃は、魔獣の巨体を物ともしない。

 炎の爪は、分厚い外皮ごと肉と骨を焼き潰す。

 当然、魔獣たちの方もやられっぱなしではなかった。


『■■■■■■■■――――ッ!!』


 狂乱の咆哮と共に、怪物の呪紋が瘴気を放つ。

 それだけじゃない。

 取り込んだ勇者二人――ダナと、ユーウェイン。

 彼らの身体に刻まれた聖痕も、それぞれ鈍く輝いていた。

 直後、大百足の全身には半透明の光に包まれる。

 大蜥蜴の方は、大きく開いた顎から燃える矢の雨を吐き出した。

 百足が使ったのは《鎧》、蜥蜴の方は《炎》と《矢》の組み合わせ。

 あんな状態から、無理やり聖痕の力を使わせられるのか!

 だとしたら、それはとんでもない脅威だ。

 魔獣自身の呪紋だけでも厄介なのに、更に聖痕まで――。


「甘いわっ!!」


 こちらの心配など、イグナールは腕力で簡単に粉砕してみせた。

 浴びせられた火矢の雨。

 甲冑程度なら容易く貫通する矢じりは、《炎竜》の装甲に全て弾かれた。

 大百足の《鎧》も、振り下ろされた爪を止められない。

 あっさりと骨まで焼き切られ、断末魔じみた獣の悲鳴が響いた。


「ホントに凄いな……っ」

「そりゃあイグナールは強いからねぇ!

 けど、こっちもあんまり余所見してる暇はないよ!」

「分かってる……!」


 《翼》によって、通常より遥かに加速した知覚。

 それがあった上での『余所見』だ。

 俺とサーレも、イグナールと同程度には死線の上にいた。


『――――――ッ!!』


 何かを叫んでいるようだが、魔女の声はやはり無音だ。

 ただ、口汚く罵られてるような気はする。

 サーレの踵で顔の配置が歪んだ《寡黙》の魔女。

 握った血を撒き散らし、蜘蛛の腕を激しく振り回す。

 その手には、やはり呪紋が不気味に揺れていた。

 触れるのはマズい……!

 《翼》の力によって、空中で身を捻って回避。

 合わせて左手の《剣》を振るい、腕の一部を斬り裂いた。

 音のない絶叫。

 傷から流れる血は、腐った泥みたいな臭いがした。


「順調!! 舐めてかかるべきじゃあなかったねぇ、魔女どもっ!!」

『…………っ!』


 余裕の笑みを見せるサーレだが、油断した様子は微塵もない。

 むしろ、そう勘違いさせるのが目的の態度だろうか。

 俺よりもずっと慣れた動きで、老婆が繰り出す蜘蛛の腕を避ける。

 そして長い間合いリーチの内側に、するりと入り込む。

 蹴り足は鋭く、そして驚くほどに速い。

 金属で補強された靴底は、魔女の肉と骨を容易く叩き潰す。

 怯んだ隙を狙って、こっちからも《剣》の切っ先を捩じ込んだ。

 切り裂き、抉る。

 《寡黙》の魔女、その胸元に刃が半ばまで突き刺さった。


『ッ……ッッ……!?』

「おおおぉぉぉ!!」


 苦悶に喘ぐ魔女を、間近から睨みつける。

 思わず雄叫びを上げて、《剣》を持つ手により強く力を入れた。

 もう一人、耳から鉄串を生やした魔女沈黙は動かない。

 その表情が恐怖に歪んでいるのは、ひと目で理解できた。

 仮に横槍を入れようとしても、サーレが睨みを利かせている。

 だから俺は、目の前の怪物にだけ集中した。


「くたばれ……っ!!」


 相手もかなりの力で抵抗するが、それがなんだ。

 歯を食い縛って、強引に刃を押し込む。

 肉を裂く嫌な感触が、握り締めた手に伝わってきた。

 不快に思う余裕なんて欠片も無いのは、幸いと言えるだろう。

 一度完全に貫いてしまえば、後は簡単だった。

 纏った襤褸ごと、その身体を両断する。

 《暗黙》に続いて、《寡黙》の魔女も絶命した。


「後は……!」

『――――っ!?』


 最後の一体。

 ドス黒い血を浴びながら、俺は《沈黙》の魔女を睨んだ。

 油断はできない。

 油断はできないが、戦えている。

 高位魔人三匹を相手に、二匹までほぼ無傷で仕留め切った。

 相手が俺たちを侮っていた、ってのも大きい。

 それを差し引いても、十分過ぎるぐらいの戦果だ。

 だから、あと一匹。

 アイツさえ仕留めれば、俺たちの勝ちなんだ。

 《寡黙》が完全に死んだことを確かめ、剣を引き抜いて――。


「……あっ!?」


 《沈黙》へ切っ先を向けた瞬間、老婆の姿が遠ざかった。

 完全に背中を見せる状態で、なりふり構わず。

 恐るべき上位魔人が、人間相手に逃亡しやがった。


「逃げたか。まぁ、賢明ではあるかな。

 できれば逃したくはないけど、安易に深追いはするべきじゃない。

 先ずはイグナールの方を手伝って、それからどうするかを――」


 細く息を吐き出すサーレ。

 彼女の言ってることは、間違いなく正論だった。

 逃亡したとはいえ、相手は上位魔人。

 追った先に罠がある可能性は、当然考えるべきだ。

 分かっている――理性では、ここで追いかけるのは危険だと。

 けど、頭で考えるよりも早く、心臓が跳ねた。

 今、この瞬間も、バラバラにされた犠牲者たちが見えている。

 見知った二人、大嫌いだった二人。

 例え死んだとしても、悲しむはずもない相手。

 なのに、俺の心臓は怒り煮え滾っていた。


「逃がすかよ……!」

「あっ、おいフォルテ!?」


 《翼》の聖痕、その力を自分の限界まで引き出す。

 もう豆粒ぐらいになった老婆の背中を、全力で追いかけた。

 サーレの声は、この瞬間は聞こえないフリをした。

 老婆は、《沈黙》の魔女は振り返らない。

 脱兎という言葉が相応しいぐらい、兎に角必死に逃げていた。

 ――行ける、速度はこっちが勝ってる。

 距離はネックだが、遠からず確実に追いつけるはずだ。

 走る。《翼》の力で空を駆ける。

 見渡す限り続く荒れ野を、ただひたすらに。


『ッッ…………!!』


 ごくりと、老婆が息を呑む音が耳へと微かに届いた。

 必死過ぎて見誤っていたが、気付くと随分と距離は縮まっていた。

 手は、まだ届かない。

 《剣》の間合いからも、当然遠い。

 それでも、あと少しだ。

 たった一人になった魔女は、背中を脅かされながらも逃げ続ける。

 こんな状態なら、罠なんて無いんじゃないかと。

 頭の片隅で考えながら、追跡の速度を更に上げる。

 風と共に、周囲の景色は後方へと吹き飛ばされていく。

 獣に荒らされた平野は過ぎて、地形そのものが変化しつつあった。

 恐らく今は、深度は『四』から『五』に移ろうとしている。

 空気に混ざる呪いは、これまでより一層濃くなった。

 粘りつく大気と、胸糞悪い腐臭。

 暗く煙っているのは、汚泥に満たされた無数の沼地だ。

 ここが深度『五』、《悪蛇の巣窟》。

 生息する魔獣も危険だが、それと同等以上に毒の沼がヤバい。

 以前の俺は、完全装備でも少しの時間しか滞在するのは不可能だった。


「……とりあえずは、まだ大丈夫そうだな」


 呟く。

 呪詛の漂う空気を吸っても、一先ず大きな異常はない。

 多少、気分が優れず胸糞悪くなる程度だ。

 カイネの肉体は、本当に凄まじかった。

 一応は対呪詛装備は身に付けてるが、これも不要だったかもしれない。

 まぁ勿論、今さら外す気もないけど。

 そんなことよりもだ。


「いい加減に、観念しろよっ!」

『ッッ………!』


 激情のまま叫ぶが、魔女は呻くだけで止まらない。

 それはなんとも、当たり前の話だった。

 あと少しという距離が、酷く長い。

 それだけ、逃げる《沈黙》も必死ということか。

 毒沼の瘴気を浴びても、呪いを呼吸する魔人には無害だ。

 逆に、こっちは平気と言っても毒の影響を完全には無視できない。

 その微妙な差が、互いの速度に現れているようだった。


「絶対に、逃がすか……!!」


 ここで取り逃がせば、コイツはまた犠牲者を出す。

 ドナやユーウェインのように。

 それだけは、絶対に認められない。

 呼吸を整えて、左手の《剣》を一度消し去る。

 今の俺は、聖痕を同時に使えるのは二つまでだ。

 まだ、一度も使用していない聖痕。

 その一つである左目に、意識を集中させる。

 相変わらず、振り向きもせず逃げ続けている背中に狙いを定めた。


「くたばれ――っ!!」


 叫んだ瞬間、左の視界が発火した。

 空気を引き裂く轟音。

 左目――《雷》の聖痕から、槍の如き雷撃が放たれた。

 凄まじい音に《沈黙》の魔女が振り返るが、その時点でもう手遅れだ。


『ッ――――!?』


 無音の断末魔。

 雷に貫かれた身体が、一気に燃え上がる。

 飛ぶ力も失い、稲妻に焼かれた魔女は地表へと落下していく。

 毒沼の一つに落ちると、黒焦げになった亡骸はゆっくりと沈んでいった。

 俺は、それが完全に見えなくなるまで、目を離さなかった。

 魔女は死んだと、間違いなく断言できるまで。


「……痛……っ」


 左目がズキリと痛む。

 やっぱり勢い任せで使ったせいで、制御が甘かったようだ。

 幸い、痛みがあるだけで視覚的には問題ない。

 痛む箇所が眼球なため、自分では状態がイマイチ分からないが。


「……戻って、サーレに診て貰うか」


 呟く。

 しかし、一人で勝手に行ってしまったんだ。

 サーレは多分、怒っているだろうな。

 あとはイグナールも、きっと怒髪天を衝いてるに違いない。

 冷静になって考えると、指先からすっと血の気が引いてきた。

 かなりマズいことを、してしまった気がする。


「謝ろう。先ずはそれからだ」


 言い訳せず、徹頭徹尾平謝りするしかない。

 どうあれ、魔女団は残さず殲滅することができた。

 その結果を得られたのだから、多少叱られるぐらいは――。


「…………?」


 ふと。

 首筋を、冷たい風が触れた気がした。

 戻ろうとした足が止まり、後ろを振り向く。

 何もない。

 見渡す限り、不快な毒沼と黒く煙る瘴気が漂っているだけ。

 魔女の死体は、沼底に沈んで見えなくなっている。

 他に魔獣の姿さえなく、酷く静かだ。

 本当に、静か過ぎるぐらいに静かだった。


「……待て」


 おかしい。

 ここは呪層の深度『五』。

 魔獣なんて、そこら中にウロウロしてないとおかしい危険地帯だ。

 それがどうして、一匹も見当たらない?

 おかしい。何がおかしいのか、全く分からないが。

 何かが、おかしい。


『――――■■■■■■■』


 最初に、その音を聞いた時。

 俺は、単なる獣の唸り声かと思った。

 毒沼に身を潜めていた魔獣が、姿を現した。

 そう勘違いして、少しだけほっとしたぐらいだ。

 ただの魔獣なら別に問題はないと。

 そう楽観しそうになった俺の思考を、『ソイツ』は紙の如く引き裂いた。


『■■■■■■■■■■■■■■■■■■■――――ッ!!』

「…………は」


 轟く咆哮。

 汚染された大地を砕いて、その亀裂から這い出してくる。

 ソレは、一頭の『竜』だった。

 暗黒に燃える鱗を纏った、巨大な――あまりにも巨大な、怪物。

 これまで見てきたどんな魔獣とも、根本的に異なる。

 ただ目にしただけで、魂を粉々にする畏怖。

 自分の中で、何かがひび割れるような音を聞いた気がした。

 動けない。

 とんでもない化け物が、いきなり現れたっていうのに。

 俺はその場から、まったく動けなくなっていた。


『■■■■■■……!!』


 赤黒い憎悪が渦巻く瞳が、俺を見ていた。

 莫大な量の呪詛が、一呼吸で肉が腐り落ちる瘴気と共に吹きつけてくる。

 肉体の方は、何の問題もなかった。

 最強の勇者であるカイネの身体は、その程度ではビクともしない。

 問題があるのは、俺自身だ。


「お前、は――あの、時……の」


 声が震える。

 知っている、俺は、コイツを知っている。

 黒く燃える鱗を纏った、見上げるほどに巨大な竜。

 それを目にした瞬間、欠けていた記憶が蘇ったのだ。


「俺を……殺した、化け物」

『■■■■■■■■■■■■■■■■■――――ッ!!』


 呪層を、《地獄》全体を、揺るがすような叫び。

 存在する次元が違うことを、どうしようもなく刻みつけてくる。

 俺はただ呆然と、黒い竜の威容を見上げるしかなかった。

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