第七話:最初の死闘
息が苦しい。
生命の存続を許さぬ濃度の呪詛が、肌を焦がしながら纏わりつく。
並の人間なら、全身を包み込まれた時点で死んでいただろう。
けど、カイネの肉体は特別だった。
魔獣の呪いに蝕まれ、呼吸さえままならない状態。
にも関わらず、五体を動かすことに何の支障もなかった。
思考は半ば乱れているものの、意識は明瞭だ。
「っ…………!!」
声は出ない。
不気味な光を帯びた粘液が、明確な意思を持って蠢いている。
塞がれかけた視界の向こうに、こちらと同じく呑まれたサーレの姿を見た。
彼女も足掻いている。
が、大質量の流動体が相手では、単純な腕力はほとんど意味を持たない。
――このままでは拙い。
兎に角、急いでこの状況から脱出しなければ。
試しに左手の《剣》を発動させる――が、ダメだ。
聖痕から生じた光の刃は、確かに呪詛を帯びた粘液を消し飛ばしている。
しかし、影響しているのはあくまで刃に触れてる部分だけだ。
振り回しても、そのまま水を棒でかき回してるのと大差はない。
だったら、また出力を上げれば……いや、それも危険だ。
こっちはやっと、『抑える』ことを覚えただけ。
周りの粘液の海だけ消し飛ばし、サーレを巻き込まずに済む出力。
そんな繊細な操作が、今の状態で可能なのか。
「ぐ、そ……っ!」
ダメだ、思考が空回りしてる。
考えろ考えろ考えろ。
考えた上で、なるべく迅速に答えを出せ。
無意味な結論はすぐに捨てろ、必要なのは確実な打開策だ。
こちらがカイネの身体だから平気でも、サーレがそうとは限らない。
事実、白い彼女は粘液の底で未だにもがいていた。
向こうは、いつまで持ち堪えられる?
急げ、急いで考えろ。
《剣》の聖痕がダメなら、他の聖痕を使えば――。
「……!」
脳裏に閃くのは、記憶にあるカイネの姿。
多頭蛇の毒と呪いで汚染された森を、一瞬で浄化してみせた。
確か、その時に使っていた聖痕は……!
「《浄化》……!!」
右手の甲に刻まれた聖痕。
無我夢中で、その光に祈りを注ぎ込んだ。
力が爆ぜる。
それは熱も、衝撃も伴ってはいないはずだった。
しかし、その力を発した俺自身は焼け付く熱を感じていた。
まるで右腕全体が、松明となって燃え上がったような。
光は激的に弾け、劇的な効果を示した。
『■■■■■■■■■■■■――――――っ!?』
耳障りな魔獣の絶叫は、途方もない苦痛に焦がされていた。
絡みつく粘液は一気に蒸発し、自由となった身体が空中に投げ出される。
右腕がヤバいぐらいに痛む――が、今は構ってられない。
「サーレ……!」
呼びかけ、手を伸ばす。無事な左手の方を。
青白く濡れた彼女の身体は弛緩していたが、幸いにも息はあった。
腕を掴み、引き寄せて、結晶化した草の上を転がる。
そこまで来て、やっと大きく息を吐き出した。
「は、ぁ……っ!」
「……っ、すまない、フォルテ。助かったよ」
「いや、無事で良かった……!」
本当に、真面目にダメかと思った。
これで終わりなら万々歳だが、残念ながら状況はまだ進行中だった。
《浄化》で吹き飛ばした粘液。
アレは間違いなく、ウーズのものと同じだ。
どれだけ大きくとも、せいぜい人間ひとりを呑み込む程度の最下級の魔獣。
だけど今、俺たちの前にいるのは。
「ちょっと、流石にデカ過ぎるだろ……!?」
轟々と激しく渦を巻く、見上げるほどに巨大な粘液の塊だ。
かなりの範囲を《浄化》で削ったはずだ。
が、どうやらそれは『コイツ』にとってはほんの一部分に過ぎなかったらしい。
こんな化け物が、深度『一』に過ぎない《結晶ヶ原》にいるなんて……!
「……《
馬鹿な、どうしてこんな浅い場所にコイツが」
「知ってるのか、サーレ」
「見た通り、超大型化したウーズだ。
生息してるのは少なくとも深度『三』から。
これほどのサイズだと、最低でも深度『六』以下でなければ遭遇しないはずだ」
「……嘘だろ」
言われてみると、確かに大きめなウーズは見た覚えがある。
大体生き延びるのに必死で、相対したことはないけど。
それにしたって、深度『六』以下って……!
『■■■■■■■■■■――――っ!!』
「っ……」
呪層の怪物、その咆哮が大気を揺るがす。
巨大な――あまりにも巨大過ぎる粘体には、蒼白い光が奇妙な紋様を描いている。
魔獣が持つ
ただのウーズみたいな、雑魚は持ち合わせていない。
人間を含む真っ当な生命を穢すための呪詛、その結晶たる力。
光が不気味に脈動すると、巨大ウーズの表面がボコボコと泡立った。
「あの呪紋の力は《増殖》だ!
フォルテ、一度退くよ!」
「っ、けど……!?」
《増殖》。
サーレが口にしたその名の通りの変化を、魔獣の呪いが引き起こす。
渦巻く粘液が沸騰するみたいに激しく蠢き、その大きさを増していく。
増殖、増殖、増殖!
ただのウーズならあり得ない、それは悪夢に等しい光景だった。
「くそっ――!!」
自分を『増やす』ことに専念している巨大ウーズ。
その巨体に向けて、右腕をかざした。
肌は黒く焦げ、ぶすぶすと煙を上げている。
闇雲に聖痕を発動させた反動だ。
激しい痛みが心臓を引っ掻くけど、歯を食いしばって堪えた。
堪えて、さっきと同じぐらいの力を《浄化》の聖痕から引き出す。
『■■■■■■■■――っ!? ■■■■■ッ!!』
「吹き飛べ、デカブツ……!!」
爆発する閃光が穢れを払う。
呪詛そのものとも言えるウーズの粘体が、大きく抉れるように消し飛んだ。
目測で三割強。まだ足りない。
「あ、ぐっ……!?」
「フォルテ!!」
立て続けに《浄化》を放とうとしたが、苦痛がそれを阻んだ。
痛い、熱い、痛い痛い痛い。
右腕を、焼けた鉄の中に突っ込んだような。
涙で滲んだ視界の隅に、焦ったサーレの表情が掠めた。
「ダメだ、確かにコイツに《浄化》は有効かもしれない!
けど、君一人で倒すには相手がデカ過ぎる!」
「っ……」
サーレの言う通り。
確かに、《浄化》の聖痕は通じている。
が、向こうも《増殖》の呪紋で粘体の身体を際限なく膨らませていた。
こちらが力尽きるのが先か、向こうが消えてなくなるのが先か。
どっちの方が分が悪いかなんて、焼けた右腕が明確に示していた。
けど、それでも。
「コイツ、間違いなくもう何人も喰ってやがる……!!」
見えているのは、僅かな痕跡だけ。
青白く光る流体に浮かぶ、衣服や装備の切れ端。
あとは、ほとんど消化されてしまった白い骨の断片。
大して危険はないと油断した探索者たちを、コイツはどれだけ喰ったのか。
ここでコイツを逃したら、あとどれだけの犠牲が出る?
そう考えた瞬間、選択肢なんて頭の中から弾き飛ばされていた。
『■■■■■■■■■■――――っ!!』
さらなる《浄化》の光を浴び、巨大ウーズは絶叫を迸らせた。
《増殖》の呪紋も激しく明滅し、消滅と再生がせめぎ合う。
右腕を焼き焦がす痛みは――。
「ホントに、カイネより酷いな、君は……!!」
サーレが施してくれる《治癒》のおかげで、大分マシになっていた。
暴発に等しい力の行使が、容赦なく血肉を焼いていく。
その度にサーレの聖痕が輝いて、負傷を片っ端から癒やしてくれる。
「ありがとう、サーレ……!」
「礼を言うタイミングじゃない!
どっち道、ボクじゃあアレを殺す手段がない!
君がやるって言うなら、付き合う以外はないんだよ!」
『■■■■■■■■■■■■――――――っ!?』
叫ぶような声が重なる。
どう見ても神経なんかなさそうだが、巨大ウーズも《浄化》は苦痛らしい。
のたうつ粘液の一部が、触手のようにこちらに伸びてきた。
咄嗟に右手をかざし、《浄化》の光を放つ。
呪詛は無害化され、触手はただ蹴散らされる――はずだった。
「嘘だろ……!?」
《浄化》の光を浴びながらも、構わず大量の粘液が迫ってくる。
通じていないわけじゃない。
気力を振り絞って維持している聖痕の輝きは、絶えず呪いを払っていた。
しかし、それは巨大ウーズの方も同じだった。
青い光が激しく明滅する。
呪紋に宿る《増殖》の呪いが、粘液の身体を絶え間なく再生させ続けていた。
その勢いは、《浄化》の威力とほとんど拮抗していた。
「っ……フォルテ、流石にこれは……!」
サーレの唇からも、苦しげな吐息がこぼれた。
こうしている間、彼女も《治癒》の聖痕を使い続けている。
俺ほどでないにせよ、焼け続ける右腕を癒やすのは相当な負担のはずだ。
巨大ウーズだって苦しい……はず、だけど……!
「くそ、見た目じゃ全然分からん……っ!!」
『■■■■■■■■ッ!!』
粘液を震わせる咆哮には、間違いなく苦痛の色がある。
それ以上に、俺たちへ向ける敵意と憎悪で煮え滾っていた。
――「逃げろ」と。
反射的に、サーレにその言葉を口にしかけた。
が、喉元でそれを呑み込む。
彼女は自らを足手まといとして、カイネと同行するのを諦めた。
だから今、逃げろと言っても彼女が聞き入れるとは思えなかった。
なによりも、《治癒》の力がなくなれば、この拮抗も容易く崩れてしまう。
俺一人だけでは、とても耐え切れない。
「負ける、かァ……!!」
気合いを叫び、更に力を振り絞った。
限界がどこにあるのか、もう自分でも分からない。
あるいは、もうとっくに超えてしまっているのかもしれなかった。
右腕の聖痕に、命を吸い出されてる錯覚すら覚える。
痛みは止まない。
心臓に、直接爪を立てられるような痛み。
それを無視して、もっと――もっと、《浄化》の光を――!
『■■■■■■■■――■■■■……ッ!!』
巨大ウーズの発する声に、少しずつ変化が生じる。
《浄化》で消し去る端から、《増殖》を続けていた粘液の触手。
それがジリジリと、ウーズの側へと押し込まれつつあった。
これなら、何とかなる、か?
緩めてはいないが、そうなることの期待は否が応でも高まる。
あと少し、あと少しで……!
『■■■■■■■――――ッ!?』
断末魔に近い絶叫。
それが耳に届くのとほぼ同時に、手応えが一気に軽くなった。
《浄化》の輝きが、《増殖》の呪いを上回る。
渦巻く粘液の巨体を、光が大きく貫く。
半分以上――少なくとも、七割を超える範囲が消滅した。
呪紋の勢いも、目に見えて弱まっていた。
完全に仕留めるまで、もう一息。
「――ぁ」
そう考えた矢先に、全身から力が抜け落ちた。
分かり切っていた話だ。
こちらも、とうに限界だった。
サーレの声が聞こえるが、それを言葉として認識できない。
耳鳴りが酷く、心臓はこれ以上なく早鐘を打つ。
早く、早くしないと。
すぐトドメを刺さなければ、また《増殖》で奴は元に戻る。
あと少し――けど、その『あと少し』が、酷く遠い。
勇者じゃない俺では、届かないぐらいに。
「っ……!?」
ここまでかと、苦痛で掠れた意識が諦めに流されかけた。
その瞬間、真っ赤な炎が視界を埋め尽くしていた。
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