第五話:実戦訓練


 風を感じる。

 呪層から吹く風は、いつも妙に生ぬるい。

 それは生き物の吐息に似ていて、酷く不快だった。

 《都市》を囲う城壁。

 石材一つ一つに《教会》の奇跡が施されたそれは、文字通り最後の壁だ。

 その上に立って、俺は目の前の光景を見ていた。

 広がっているのは『穴』だ。

 見渡す限り、どこまでも続いている巨大な『穴』。

 これこそが呪層、魔王がこの世界に刻みつけた呪いそのもの。

 八つの大呪層の一つ、《地獄ゲヘナ》の姿だった。

 実際に、この『穴』がどのぐらいの範囲を呑み込んでいるかは分からない。

 分かるのは、《都市》の壁がなければ『穴』はあっという間に拡大してしまうことだけ。

 聖痕を持つ勇者たちは、日頃からこの《地獄》に挑んでいる。

 呪詛による汚染を広める魔獣や魔人を狩り、呪層が大きくなることを阻止する。

 それが勇者の主な役目の一つだ。


「――やぁ、心の準備は良いかな?」

「あぁ、大丈夫だ」


 かけられた声に振り向く。

 後ろには、白衣姿の女性――サーレが立っていた。

 格好そのものは変わらないが、今日はそこに幾つか装備が追加されている。

 野外活動用の道具を詰めた背嚢バックパックに、腰のベルトから下げた一冊の分厚い本。

 その本が教会の《奇跡》を記した特別な経典であることは、事前に教えられていた。

 武装は帯びていないが、サーレは徒手格闘の心得があるらしい。

 ……きっと、死ぬ前の俺よりもずっと強いんだろうな。


「ボーっとしてるね。本当に大丈夫かい?」


 ぐいっと。

 いきなり顔の距離が縮まったことに、心臓が大きく跳ねた。

 近い。いや本当に近い。

 俺たちが立っているのは城壁の上、その縁の近くだ。

 驚いて仰け反ったせいで、そのまま《地獄》に落ちました――なんて間抜けは避けたい。

 鼻先が接触するギリギリの距離で、軽くカーレの身体を押し留めた。


「大丈夫。大丈夫だから、あんまり距離を詰めてこないでくれ。

 慣れてないから、ビックリするだろ」

「おっと、これは失礼。

 だがフォルテ君、君は今や女の子なんだから。

 この程度のスキンシップで動揺してちゃあ身が持たないよ?」

「勘弁してくれ」


 楽しげに笑うサーレに、俺は重いため息を吐いた。

 ――彼女に協力すると決めたのは、昨日の出来事だ。

 最強の勇者、カイネの代理。

 とても務まるとは思えない大役だが、一度決めた以上は覚悟を決めるしかない。

 覚悟を決めた俺に、サーレが先ず最初に提案したこと。

 それが呪層に挑むことだった。


「今日の目標は、深度『三』まで下りることだ。

 身体の動作や体力など、基礎的な能力には何の問題もなかった。

 それなら後は、聖痕の使い方も含めて、カイネの身体で戦うのに慣れることだけだ」

「こう、訓練とかはしなくて大丈夫なのか?」


 そこがどうにも心配だった。

 俺自身、聖痕の使い方はまるで知識がない。

 不安げなこちらの様子に対して、サーレはあくまで自信満々だ。


「少々荒療治なのは間違いない。

 けど、聖痕は呪詛の濃い場所ほど力を発揮しやすい。

 君の場合は状況も特殊だから、あえて危険な実戦訓練の方が良いと判断したのさ」

「なるほど」

「それに、危険と言っても精々が深度『三』だ。

 うろついてる魔獣もたかが知れてるし、心配することなんてないよ」

「だと良いけどな」


 概ね、サーレの言ってることも間違いではないと思う。

 死ぬ前の俺だったら、深度『三』は十分以上に危険な場所だ。

 けど、それなりの力を持った勇者だったら、小遣い稼ぎに丁度良いぐらいの危険度だ。

 聖痕に慣れる訓練をする目的なら、おそらく丁度良いはず。

 ただ、やっぱり不安要素はある。

 本当に、俺がカイネの聖痕を使うことができるのか?

 それに加えて、俺が彼女と出会った時に遭遇した多頭蛇ヒュドラ

 ああいうのが深度の浅いところに迷い出てくる可能性も、ゼロではない。

 万が一、またあんな怪物に遭遇したら……。


「……どうやら君は心配性のようだねぇ」


 声は、今度は耳元で聞こえてきた。

 また考え込んでしまったせいか、間合いを詰められたことに気付かなかった。

 笑うサーレの顔が視界の半分を埋めている。

 いや、ホントに近いな……!?

 いつもカイネ相手に、こんな距離感で接していたのか。


「不安なのは分かるよ。

 ボクもリスクは承知で、最初から呪層に潜ることを選んだ。

 安全な保証なんてない――けど、それは別に勇者に限った話じゃないだろう?

 君はいつだって、死ぬ覚悟をしてこの《地獄》を下りていたはずだ。

 違うかな?」

「……いや」


 違わない。

 むしろ、勇者じゃない人間の方が命は軽い。

 まぁ、俺には結果的に聖痕はあったらしいが、それでも呪詛の耐性は決して高くなかった。

 重い対呪装備に身を固め、口を開けた奈落の穴へと身を躍らせる。

 いつだって、戻ってこれない可能性は頭の中に置いていた。


「同じだよ、何も変わらない。

 あとは君次第さ。やると決めたんだろう?」

「あぁ」


 頷く。

 あぁ、そうだ。サーレの言う通り。

 ビビって足踏みをしていても、何も始まらない。

 身体は軽い。

 カイネの肉体が、死ぬ前の俺よりずっと強いのもある。

 それに加えて、身に付けた装備も普段と比べればかなり軽いものだった。

 サーレと同じ背嚢と、後は胴体や腕、脚に付ける軽い装甲。

 武器は腰に下げた長剣と、後は投擲用の短剣を何本か並べてある。

 聖痕を使えれば不要な武装だが、最悪への備えはいつだって必要だ。

 それらの装備を、引っ付いてきたサーレが一つずつ触って確認していく。


「うん、問題はなさそうかな?」

「ないから、いい加減離れて欲しいんだけど」

「照れてるかい?」

「こっちはこんな距離感で、異性と話したことなんてないんですよ……!」


 マジで勘弁してくれ。

 思いっきり密着するから、白衣の下が意外と豊満で柔らかいのも知ってしまった。

 というか、そっちはそっちで大丈夫なのか。

 サーレは防具の類は、ほとんど身に帯びていない。

 一応、俺の方も鎧は身に付けてるのに。


「あぁ、ボクは身に付けてるモノに《奇跡》を施してあるから。

 《鎧》の聖痕ほどじゃないにしろ、防御力は普通の甲冑と大きく変わらないよ。

 何なら、君の装甲にだって事前に同じものを施してるからね」

「そ、そうなのか?」

「万が一、《鎧》の聖痕が使えなかった場合に備えてね」


 万が一というか、その可能性は十分あり得ると思ってる。

 本当に、俺はカイネの力を扱えるのか。

 考え出すと心臓が痛んで、不安な気持ちがとめどなく溢れ出してきた。

 勇者にはなれないと、自分にかけ続けてきた呪いが酷く重い。


「――よし、悩んでばっかじゃ話が進まないよ。

 さっさと行こうか。それ」

「あ」


 トンと、何気ない動作で押された。

 大した力ではないんだが、また思考に沈みかけてた俺を動かすには十分過ぎた。

 ほんの数歩ほど、前へと。

 それで足元には何もなくなっていた。

 落ちる。

 《都市》の城壁、特に《地獄》側には門は造られていない。

 呪詛の侵入を防ぐため、とにかく隙間になるようなものは全て排除されているのだ。

 だから呪層に潜る方法は、城壁から飛び降りる形となる。

 当然、生身なら例え勇者でも死にかねない高さだ。

 が、呪層の外縁には、ぶ厚い呪詛の膜がある。

 これを突き抜ける際に落下速度を軽減するので、死なずに穴の下まで辿り着けるわけだ。

 ……ただそれは、あくまで常人より頑丈な勇者に限っての話。

 あと、当たり前だが着地もしっかり決めないとダメだ。

 以前の俺は、ロープなどの補助をしっかりした上で下りていた。

 こんな自由落下めいたやり方は未体験だ。


「うああぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

「そんなに慌てなくとも大丈夫だ。

 さ、自分の状態を冷静に把握するんだ」


 無様に落ちる俺のすぐ傍に、突き落とした張本人が並んだ。

 サーレの落ちる姿は、まるで蝶のように軽やかだった。

 悪びれもせず、彼女は微笑みながら俺に囁やきかけてくる。


「足を下に、頭を上に。

 既にここは呪層の内側だ。

 大気に満ちる呪いは濃く、普通の空中よりは動きやすい。

 身体の重さを意識して動かせば、姿勢制御ぐらいは簡単だよ」

「それこそ、簡単に言ってくれるよなぁ……!」

「仮にこのまま落下しても、今の君なら死にははしないよ。

 怪我をしたら治してあげるから、頑張ってほしい」

「分かったよ……!」


 死なないらしいが、この身体は元はカイネのもの。

 無様に顔面から着地しました、なんて惨事だけは避けたかった。

 高ぶった気を鎮めるため、深く息をする。

 穴の下までそう間もないはずだ。

 焦ったらダメだが、なるべく急ぐ必要はあった。

 サーレに言われた通り、身体の重さ――重心を意識する。

 そのまま、呪詛で汚染された大気の中で、腕と足を動かした。

 手応えの薄い水を掻いてるような感触。

 これまではただ、「空気が重たい」ぐらいにしか意識したことはなかった。

 ――動ける。

 自由自在とはいかないが、なす術もなく落ちているのとは違う。


「っ…………!!」


 衝撃を、二本の足が受け止めた。

 ギリギリだった。

 ギリギリのところで、姿勢制御が間に合った。

 俺は両足で、きちんと《地獄》の地面に着地していた。


「――お見事。顔から落ちやしないかと、ほんのちょっとだけ心配してたよ」

「そうなるのだけは、全力で回避したからな」


 派手な着地を決めた俺とは真逆に。

 羽根でも落ちてきたみたいに、サーレが軽やかに下りてきた。

 比喩ではなく、ホントにふわりと。

 着地した彼女の手には、分厚い経典が開かれていた。


「……今のは?」

「《落下速度軽減フォールダウン》の奇跡だよ。ちなみに複数人同時に使える」

「使ってくれてもよくないか??」

「慣らしだよ、慣らし。

 今ので、身体を動かすコツを少しは掴めたんじゃないかな?」

「……まぁ、確かに」


 釈然としない気持ちはあるが、そこは素直に頷いておいた。

 すると、サーレは「そうだろう?」と満足げに微笑んだ。

 ……言いたいことも、ないわけじゃない。

 けど、サーレは昨日よりもずっと明るくなっている。

 ならそれで良いかと、そう思い方が強かった。

 勇者カイネの代わりとして、少しは役に立ててるはずだ。


「――フォルテ?」

「っ、な、なんだ?」

「君は考えごとが多すぎるな、そこは改善した方が良い。

 それより、周りを見るんだ」

「周り、と言っても……」


 促されるまま、視線を巡らせる。

 ここは呪層深度『一』、通称《結晶ヶ原》。

 その名の通り、蒼白く結晶化した草木が一面に広がっているだけの場所。

 全ての結晶が淡く光っているため、ここは光源無しでも視界が通る。

 入ったばかりで危険も少なく、何度も通過してきた。

 今さら見るべきものなんて――。


「…………あ」


 改めて景色を見て、気が付いた。

 今の俺は、分厚い対呪詛用の装備は身に付けていない。

 ほとんど生身の状態で、初めてこの《地獄》に降り立っていた。

 これまで、この《結晶ヶ原》は単なる『入口』だった。

 勇者でない俺は、生きて戻れない可能性が高い。

 その恐怖を噛み潰すのに必死で、景色を眺める余裕なんてなかった。

 けど、今は。


「君にとって――今の君にとって、これが最初の一歩目だ。

 それを意識して損はないと思うよ」

「……そうだな」


 まだ浅いとはいえ、呪いに穢された空気。

 結晶化した草木が吐き出している呪詛による汚染だ。

 人間を含めた、まともな生物は長く生きられない、文字通りの《地獄》。

 ……だけど、その光景は酷く美しく見えた。

 陽光の届かない奈落の底を、月明かりのように照らす結晶の輝き。

 それが呪いの産物だと信じられないくらいに、綺麗だった。

 汚染の中で呼吸をしても、身体に影響は感じない。

 あるのは、心臓が痛むような高揚だけだ。


「気分は悪くなさそうだね」

「あぁ、大丈夫。むしろ調子は良いぐらいだよ」

「呪詛に触れたことで、聖痕が活性化してるのかもしれないね。

 じゃあ、そろそろ――」


 出発しようかと、サーレが言いかけた矢先。

 前方で、不定形な影が動いた。

 それは結晶化した草木と同じ光を放つ、半透明な粘体――《結晶粘獣クオーツウーズ》だ。

 サイズこそ、人間ひとりなら丸ごと取り込める程度にはデカい。

 しかし動きは鈍く、中心辺りに見えてる球状の核を潰すだけで死ぬ。

 深度『一』のそこら中で見かける、単なる雑魚魔獣に過ぎない。

 まぁそれでも、以前の俺では殴り合うのも危険な相手だが。


「ふむ、丁度良いね」

「と、言うと?」

「練習台だよ。

 動きは鈍重で、その分大きくはあるからタフさは十二分。

 試しに殴ってみるのに、これほどの逸材はそうそういないよ」

「……確かに」


 練習台。

 つまり、聖痕の初使用だ。

 具体的にどうすれば良いかは、サーレがすぐに説明してくれた。


「先ずは、一番使いやすい《剣》の聖痕を使ってみようか。

 分かるだろう? 左手の甲に刻まれたのだよ。

 それに集中して、手元に剣を生み出すようイメージするんだ」

「イメージ……」


 言われた通りにする。

 こっちが準備してる間も、ウーズは呪詛を吐きながら蠢いていた。

 その動きは鈍く、悲しいぐらいに遅い。

 相手がのたうっている内に、《剣》の聖痕を使って――。


「は……っ!?」


 叩き潰してやろうと、そう考えていた。

 俺の左手の中で、眩い光が衝撃と共に弾けた。

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