第39話 母と子

 ニュープロビデンス島ナッソーは国の統治下に置かれ、先遣隊としてピアースがフェニックス号と共に送り込まれたものの、ヴェインを代表とする抵抗勢力に消沈し、ヴェインが外海へ出た数日後にナッソーを出ていった。

 ヴェインが離れて海賊共和国ナッソーにウッズ・ロジャーズが来ても追い返せるのではないかと考える者もいた。ギャング化する海賊たちは最期のひと花の如く暴れまくる。

 

 しかし時代の節目はそこまできていたのである。

 

 1718年4月22日、バハマの植民地総督並びに遠征隊の司令官として任務へ就くために準備を進めていたウッズ・ロジャーズは遠征隊としてイギリスのテムズ川を出航する。その遠征隊の規模は入植者や島を守る兵士、様々な物資を7隻の船に分けて運ばれ、さらに3隻の海軍の船も船団に組まれるという規模の大きいものだった。ウッズ・ロジャーズは海賊に道徳心や宗教心を植え付けようと考え、それは治安維持に必要だと確信していた。



 ニュープロビデンス島ナッソーが国王の恩赦により、海賊共和国という地盤が緩んでいく中、情報は航行する船舶や港界隈から船乗りたちへ流れていく。グリンクロス島でも噂好きな住民が船乗りたちから情報を仕入れ、酒場やコーヒーハウスで広めていた。


「母さん、母さん……また船に乗っていくの」

 エリカはもうすぐ4歳になろうとしている。まだ幼子であるがマリサに似て言語習得が早く、大人びた言葉を発することがある。もっとも、それは周りに同じような子どもがいないことも影響している。エリカの周りは大人ばかりだ。大人ばかりのかかわりの中でエリカは成長していた。

 マリサもそうであったが、救いなのはエリカのそばにハリエットやシャーロット、ウオルター総督がおり、成長を見守っていたことだ。マリサは血のつながらない大人たちの中で常に相手の顔色を見ながら成長していたが、エリカはそうでなかった。

 だが、やはりまだ幼子である。様々な事象に関心を持ち、あれこれ周りの大人に質問をして困らせる幼子である。そして本当は同年代の子どもとかかわりあって互いに社会性を身に着けていく必要がある幼子である。


「船は母さんの仕事場なの。誰かが荷を運ばないとにも荷を待っている人が困るからね」

 マリサは足元にしがみついているエリカを見て思わず抱きしめる。

「父さんってどんな人?私にも父さんがいるよね。なんで父さんはここへ来てくれないの。……父さんは私のことが嫌い?」

 エリカはそう言って不安そうな顔をした。エリカがそういうのも無理はない。なぜならスパロウ号が奪われたことにより海軍の乗員たちは家へ帰ることができないままだったのである。フレッドはマリサとの貴賤結婚による妬みや嫉みを恐れるあまり、エリカにじゅうぶんかかわってやれなかったのでエリカの顔さえ思い出せないほどだった。マリサは先日フレッドの様子を見にいき、わだかまりを解いたことで彼の思いを知ることができていた。

「父さんはエリカに似ていてとても優しい人。世界で一番エリカを愛している人だよ。会えなくてもこの海のどこかでエリカのことを思ってくれている。だから心配しないで。海が平穏になったら必ずエリカとおばあちゃんは国へ帰ることができるし、父さんにも会える。そしてそうなったら母さんも一緒に暮らすことができると思う」

 マリサがそう言うとエリカは涙をこぼしてマリサに抱き着いた。

「母さん、私は甘いお菓子やきれいなお洋服はいらないの。それよりも母さんと父さんと一緒にいたい。だって私はお姫様じゃないもの。シャーロットおばさんみたいなお姫様じゃないもの。このお屋敷の人がそう言っている。私はお姫様じゃないって」

 エリカは屋敷で過ごす間、使用人たちの言葉を耳にしていた。大人のかかわりのなかで言語能力を高めたのは自分を守るため無意識につけた力だ。それはかつてマリサが幼少期に言葉を覚えた以上の力だった。


 ジェニングス一味に囚われた日々が、今でもエリカの発達に影響をおよぼしていることは明らかだった。


「そう、エリカはお姫様じゃない、母さんと父さんの大切な子どもだよ。でもシャーロットやおばあちゃん、総督にとっても大切な子どもであることは間違いない。そしてみんなエリカのことが好き。じゃあ、母さんが航海へでるまえにケーキを焼くのでエリカもお手伝いしてくれる?」

「エリカ、お手伝いする。母さんと一緒にケーキ焼く」

 そう言ってようやく表情が和らいだエリカ。

「いい子ね、エリカ愛してる」

 マリサは抱き上げるとキスをした。



 その日、マリサは総督の屋敷の厨房を借りると、ハリエット、エリカとともにごく庶民的なキャロットケーキを作った。

 それは高価な砂糖を使わずその代用としてニンジンの甘味で焼き上げたケーキだ。そしてかつてオルソンの息子たちと過ごした中で、初めて自分が町で買い求めたものもキャロットケーキだった。


 一日機嫌よく過ごしたエリカは疲れたのか早々に寝入ってしまう。エリカの手を握り、複雑な思いで眠りにつくマリサ。

(あたしの子どものころはイライザ母さんがいつもそばにいてくれた。血のつながらない母さんだったけどあたしは気にしなかった。デイヴィスが航海から帰るのを一緒に待った時間はあたしにとって幸せな一瞬だった……。だとしたら……エリカを幸せにできないあたしは親として失格なのだろうか……)

 自分が船に乗ることを選んだことは後悔していない。だが、そのためにエリカが犠牲になっているとしたら……マリサに再び迷いが生じ、考える中でマリサも寝入った。


 

 早朝、エリカの眠そうな顔に見送られてアーティガル号が出帆する。

 自分たちはこのまま本当に商船で終わっていいのか……マリサ達は歯がゆさをもったまましばらくの間、ナッソーを迂回したり比較的安全な航路をとったりして荷を運ぶ仕事ばかり請け負っている。海賊であるなら金品を略奪するだけでよいのだが、商船は荷を運んで対価をもらわねばならない。武器や弾薬を買うにもお金がいるし連中に対価を払わねばならない。そのことをウオルター総督も知っており、アーティガル号の航海を認めていた。ただし、航海の安全が懸念されるということでエリカとハリエットには島へ残るように言っている。これはマリサの目には単に孫かわいさとして映っていたが、実際はアーティガル号がジェニングスに目をつけられている以上、危険を冒してまで一般人を乗せて航海をさせるわけにいかないという総督の考えがあってのことだった。


 このことにハリエットはがっかりし、国にある家のことをとても心配をしていた。エリカもお姫様のように可愛がられているにもかかわらず、自分がお姫様ではないという事実を子どもなりに受け止めており、ハリエットのそばにいることが多くなった。マリサがいないときに自分を理解してくれるのは祖母ハリエットだと考えたのである。


「おはよう、エリカ。今日もごきげんさんね」

 シャーロットは相変わらずエリカをかわいがっており、その日もエリカを連れ出すと広間にあるハープシコードのそばへ連れてくる。その日はシャーロットに音楽を教えている楽師が来ており、エリカにも教えてやってほしいとシャーロットが頼み込んだのだ。

「これはね、ハープシコードといってこう弾くのよ」

 そう言ってシャーロットはヘンデルの曲を奏で始めた。ヘンデルはドイツのハノーヴァ王朝で宮廷楽師を務めていたが、あまり華々しい仕事をしないままイギリスへ渡り、アン女王に仕えていた。アン女王が崩御し、かつてのハノーヴァ選帝侯ゲオルクがジョージ1世として即位するとジョージ1世に仕えたのである。(ジョージ1世との和解のために『水上の音楽』を作曲し舟遊び中のジョージ1世を喜ばせたという逸話があるが、1717年に舟遊び中の音楽として奏でられ人気が出たというのが本当のようである。ヘンデルはその後音楽家としてイギリスで名をはせていく)

 エリカはシャーロットの指の動きをよく見ており、そして静かに聞き入っていくなかで、どの鍵盤がどの音を出すのか覚えていく。その様子を楽師がみてエリカの小さな指を鍵盤の前に置いた。なんの知識もなくハープシコードを弾いたこともないエリカだったが、エリカの耳は音の高さを確実に捉えて記憶していた。


 曲の第一主題の旋律がエリカの小さな1本の指でゆっくり奏でられる。ほんの4小節ほどの旋律だったがこれにはシャーロットと楽師も目を見張った。

「お世辞にもマリサには音楽の素養があると思わなかったけど、エリカはこのハープシコードを弾くだけの素養があるとみていいわね」

 シャーロットは遊びでもいいからハープシコードを触らせたいだけだったが、思わぬエリカの力をみて学ばせたいと思う。

「エリカには読み書きを教えているけど音楽も身につけた方がよさそうね」

 そう言われるまま楽師から手ほどきを受けていくエリカ。シャーロットに悪気がないことを知っているエリカは自分の気持ちを表さずに言われるままである。エリカはますます子どもとして不相応な成長をしていくこととなった。



 一方グリンクロス島を離れ航海中のアーティガル号でも迷いが生まれている。

 

 アイザックの傷はもう普通に歩くことができるほど治癒しており、すでにアーティガル号に乗り込んでいる。と言っても梅毒の症状はよくなるでなく進行している。しかし父親とハミルトン船医の見解もあり水銀治療と女遊びをやめていた。残された命を船で過ごしたいと考えていたのである。マリサはアイザックが娼館通いをやめたことを不思議に思ったが、それは真面目になろうというアイザックの意思だと解釈をした。

 そしてもっと冒険がしたいからこのまま国へ帰るのは嫌だといって父親であるオルソンを困らせたルークは、アーティガル号があちこちの島へ寄港するたびに交易で何か珍しいものはないかと港界隈を巡っていった。オルソンも東西の毒物を求めて闇商人と取り引きをしていたのだが、ルークはアメリカ植民地で国とは違う植生や生物の生態、気象などを経験し、オルソンの毒物の知識よりもはるかに多くの知識を身に着けることができていた。

 自分は自分、親と同じにはならない……そう考えていた。それはマリサが其処彼処そこかしこで『あたしはあたしだ』といっていることと似ていた。

 アーティガル号は商船としてこのまま海賊におびえながら荷を運ぶのか、それともマリサが考えるように海賊化して海賊に向かうのか。まだ結論を出せていない。


 

 商船としての航海をしていくうち、港界隈で海賊共和国の情報を耳にする。

「ナッソーの情報が入った。あのジェニングスやアシュワースなどジェニングス一派の海賊はバミューダのベネット総督へ出頭し、投降したってことだ。奴らは国の先遣隊がナッソーへ入る前に恩赦を受け入れたんだ。ふふん……ジェニングスらしい動きだ。読み書きできる奴は新聞などでもニュースを取り入れることができる。こうした社会情勢の変化は読み書きができないと乗り遅れるってことだ」

 リトル・ジョンは連中に港から仕入れた情報を話した。

「ナッソーは恩赦の受け入れをめぐって二分していく。そう、そこから瓦解していくだろう。それならジェニングスはあたしたちを追ってこないということか?」

 マリサはそう言いつつもヴェインのことが気になっている。

「残念だが、ヴェインがいる。スパロウ号だって奪われたままだ。恩赦を受け入れない海賊は総督に投降した海賊を裏切りだと考えるだろう。俺たちが狙われているのと同じことだ。奴らにとっちゃ海賊共和国という拠点が失われる危機だ。外海へ出て荒らし放題となっていくんじゃないか」

 リトル・ジョンの話に連中は戦時中に経験したような緊張感を覚えた。


 敵はスペインやフランスではない。お互いに手の内を知っている海賊である。


「ジャマイカへの航海の時、恩赦を受け入れるために同行させてほしいといっていたノズアーク号とエズラ船長もその危険を十分に知っていたのだろう。俺たちをどうしたいのかウオルター総督は何も言ってこないからな。全く……中途半端な今は歯がゆくってならねえ」

 ハーヴェーがため息交じりにつぶやくとその場の連中も黙って頷いていく。

 

「……それでも仕掛けられたらあたしたちは反撃をする。このままおとなしくしていたら亡くなったデイヴィス(”青ザメ”時代の船長・マリサの育ての父)が怨霊デイヴィージョーンズとなってでてくるぜ」

 マリサの言葉に連中が口角を上げる。

「そう、誰が何と言おうと私たちの心は海賊だ。戦う相手はスペインやイギリスじゃないし商船や奴隷船でもない。敵は恩赦を受け入れずに荒らしまくるギャングだ。だからといって別に正義の味方を演じるわけでもない。お前たちは正義の味方の海賊って聞いたことがあるか」

 オルソンが古参のひとりとして意見を言う。アイザックやルークが乗船してからというもの、親の立場があってかオルソンは目立った動きをしていない。それでもこの場で言わねばならないと思ったのだろう。

「海賊なんてもんは英雄じゃない。英雄や正義の味方は海軍に任せておけばいい。俺たちは俺たちの流儀で戦う。そのための特別艤装許可証だ。まあ、ウオルター総督は必ず海軍への協力命令を言うだろうよ。このご時世、俺たちを使わざるを得なくなってきているのは確かだからな」

 リトル・ジョンの意見に賛同していく連中。

「……ほらな、やっぱりあんたは船長にならなきゃならない感じだよ、リトル・ジョン」

 マリサが言うと彼ははにかんだ様子で黙り込んだ。


 心配しながら航海を続けるマリサ達。その心配がついに形となり事件が起きる。

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