第35話 マリサ、娼館へのりこむ
話はアーティガル号がグリンクロス島に入りマリサと合流した頃に
マリサはウオルター総督とようやく親子の信頼関係を築くことができた。今まで総督の胸に飛び込むような安心感を持つことなく、どこか他人行儀さえあったのだが、それもなくなり、話さずとも自分を受け止めてくれるという気持ちさえあった。
フレッドの様子についてマリサはベイカー艦長から聞いたことをそのままハリエットとウオルター総督、ほかにマリサの後見人でもあるオルソンにも伝える。ハリエットはとても心配をして自分もついていきたいといったのだが、どこで海賊に出くわすかもしれず、船長代理のリトル・ジョンと船のもう一人の所有者であるオルソンとで説得をするものの、すぐには納得しなかった。
「せっかくジェニングスの手から逃れたのにこれ以上危険な目に合わせるわけにはならないから。お義母さんはエリカをお願いします」
この説得にはシャーロットも加わり、エリカを味方につけた。エリカの『島に滞在したい』という言葉はハリエットも聞かざるをえなかった。
翌早朝、アーティガル号は港を離れ、ジャマイカへ針路をとる。
マリサが甲板から港を振り向くとハリエットとエリカが見送りに来ていた。家族がいなかったマリサは見送ってもらうということがほとんどなく、今こうして来てくれることが嬉い。
「お義母さん……ありがとう」
恩赦の動きを気にしながらもフライング・ギャングをどうかわすか警戒をしながらの航海をしなければならない。
「風量が増したぞ。いい風だ!」ハーヴェーの声で帆が響き、連中が指示通りに帆を展開していく。
それまでアイザックの治療に専念していたハミルトン船医はその後を屋敷の住人たちに任せてアーティガル号に乗りこむ。病気のことを総督に話し、まずは傷の完治を目指した。アイザックのことが心配だったが、フレッドの様子も気になっていたからである。
様子がおかしいと言われたフレッド。何が彼を追い詰めているのか。
(フレッドは貴賤結婚のことを気にしていた……まさかそれを……)
マリサはあの日のフレッドの表情を思い出す。
貴賤結婚のことはどうすることもできないことだ。船上で身分や宗教、立場、人種を問わない海賊であっても陸に上がれば陸の身分制度にさらされる。海軍に属するフレッドは軍部の階級があることを身をもって知っているのにそれに対して疑問を持たなかった。なぜ貴賤結婚の壁を破れないのか。マリサはわからないでいた。
マリサ自身も幼少期のころ、オルソンの息子たちと町へ買い物に連れて行ってもらい、そこで身分差と貧富の差という現実を
社会の闇というものを理解できたのは大人になってからである。
自分がもしもさらわれずにずっとウオルターの元で育てられていたなら、シャーロットと同じように何不自由なく、そして外の社会を知ることなくきていただろう。
さらわれたのは事実だし、イライザとデイヴィスに育てられたことも事実だ。そして結果的に自分は社会を見つめるようになった。自分の身を卑下することなくあたしはあたしとして生きている。これで良かったと思っている。
(フレッド、待っていて……)
そう思いつつ海原を見つめる。もうグリンクロス島の姿は視界から消えていた。
ジャマイカへの航海はギャング化した海賊たちと出くわすかわからないものだ。出航前、港へ出入りする船の情報から国王の恩赦の情報がナッソーにも入り、それを受け入れるか受け入れないかで海賊たちの団結が危うくなっていることを知る。
(海岸の兄弟の誓いと略奪でまとまった海賊の集団はもろい。そういうことだ)
やがて海賊共和国は分裂するだろう。マリサはそう考える。だとしてもジェニングスを裏切ったことで彼らから狙われるのは必須だ。ジャマイカへの航海は緊張の連続である。
海賊化してた頃、拿捕した船の積み荷を買い上げて海賊相手に商売をしたものの、やはり需要と供給の違いがある。奪った財宝や金貨はジェニングスによって割り振られたので”青ザメ”時代の様に儲かっていない。
「モーガン、商船として給料を出すことはできるか」
マリサとオルソンはオーナーとして気になることを尋ねる。そう、今の立場は商船だ。いくらなんでも無報酬で連中を動かすには無理がある。 オルソンは商船として航海するのは危険だとマリサに忠告したのだが、フレッドのために認めざるを得なかった。
「ギリギリってことろだ。グリンクロス島の積み荷を何とかさばいてジャマイカからまた荷を積む。それしかない」
真顔のモーガン。冗談を言えないほどギリギリなのだろう。
ジャマイカへの航海中、1隻の帆船に遭遇しアーティガル号と並走してきた。それはナッソーで見かけたことがある海賊船だ。共闘したことはないが、ナッソーには多くの海賊たちが行き来しており、見覚えのある程度の船もたくさんあった。警戒するアーティガル号。しかしよくみると海賊旗を揚げていない。自分たちを襲うならとっくに射程内に入っているので砲撃でも何でもしてくるだろう。
(戦い目的じゃないということか……)
やがて一時停船の信号が送られてくる。何か話があるのだろう。
二隻の帆船はともに停船をし、投錨をする。
相手方からボートが降ろされ、向かってくる。どうやら相手方の船長だろう。アーティガル号の連中によって甲板へ導かれた彼らはマリサの前に進み出る。
「こうしてあんたと話すのは初めてだ。俺の名はエズラ。ノアズアーク号の船長をしている。お前たちとはナッソーで何回か見かけたけどな」
エズラ船長は日焼けして髭も伸び放題だが着るものにこだわっているようで絹のシャツを身に着けていた。
「あたしはマリサ。隣にいるのはオーナーのオルソン、リトル・ジョン船長代理。ジャマイカへ商売と所用で向かっている。訳あってジェニングス派にいたが、もう堅気だ。あたしたちを投錨させてまで来るということは何か話したいことでもあるのか」
「そうだ。お前たちは例の国王の恩赦の布告を知っているか。俺はその情報を知って仲間たちと協議をしたところ、ほぼ全員が恩赦を受け入れると希望をした。希望をしなかった連中はナッソーに残った。これからジャマイカへ行き、総督に投降するつもりだ。アーティガル号も海賊旗を揚げていないが、堅気だということはもう海賊じゃないのだな。それなら2隻の船団でジャマイカを目指さないか。俺たちも海賊に追われる立場だ。2隻だと心強い」
エズラ船長の申し出にオルソンとリトル・ジョンも断ることをしなかった。確かに2隻だと狙われても対応しやすい。
こうして2隻はともにジャマイカへ向かう。マリサは海軍駐屯地を訪れることにしていたので、この際にエズラ船長も同行させて総督に出向くよりも先に投降の意思表示をさせることにした。
2隻はアーティガル号を追従する形で帆走し、やがて無事にジャマイカへ到着する。マリサにとって久しぶりのジャマイカだ。このどこかにフレッドがいるのである。
マリサはどこにでもいる夫人のように髪を結い上げるとシフトドレスにスカートといった服装に着替え、はやる気持ちを抑えながらエズラ船長とともに海軍駐屯地へ向かう。前回は女だけで行くと舐められるからといってハーヴェーが同行したが、今回も心配なのだろうか、マリサが断っても同行していた。
「なんだよ、あたしじゃ頼りないっていうのか。フレッドと会うために付き添いがいるのか。全く、あたしは子どもじゃないんだ」
マリサはぶつぶつ言いながら歩く。
アーティガル号は商船として荷降ろしや荷積みを行い、マリサの用件が済み次第再び帰路につく予定だ。
ジャマイカ海軍駐屯地でマリサ達を迎えたのはアストレア号のスミス艦長とグリーン副長だった。グレートウイリアム号は任務についており、すでに航海に出ているとのことだ。
「お久しぶりです。あなたとは”光の船”海戦以来ですね。あれから何かとあったようですがお元気そうで何よりです」
スミス艦長は幾分しわが増えた。彼なりに苦労もあるのだろう。
「あいかわらず頭目として頑張っているようだね」
グリーン副長はマリサにとって叔父であるが名前と身分を隠してとして海軍で働いており、マリサに会えたことを内心喜んでいた。
「こちらこそ、お互いに元気でお会いできたことをうれしく思います。フレッドの様子がおかしいとベイカー艦長から伺い、取り急ぎ参りました。国王の恩赦の布告を受けてエズラ船長と仲間が同行しています。海軍か総督へつないでください」
マリサに紹介されてエズラ船長が進み出る。スミス艦長はその場で書類を書くと海兵隊員を呼ぶ。
「エズラ船長とその仲間が投降するとのことだ。紹介状を書いておいたから彼らを総督のもとへ案内してやってくれ」
スミス艦長の指示で海兵隊員たちはエズラ船長一行を連れ出していく。
「さて本題だ……ベイカー艦長から聞いたと思うが、スチーブンソン君の様子がおかしい。病気なのかどうかはわからないが飲ませる薬がないのは事実だ。ぜひ彼に会ってほしい」
グリーン副長はマリサに会えた喜びを隠しながらフレッドの様子を伝えた。そしてマリサとハーヴェーが部屋を出た際に衝撃の事実を伝える。
「マリサ、君にとって聞きたくないことを話す。いいか、スチーブンソン君は航海に出られない状態であったため療養させていたにもかかわらず何をどう間違ったのか娼館へ時々顔を出すようになってしまった。男なら娼館へ行くのはあり得ることだが、彼はあの状態で何かを忘れるように娼婦を求めているのだ。これは良くないことだ」
グリーン副長の言葉がマリサの体を貫いていく。
そんなマリサを気遣いながら彼はフレッドが療養しているはずの宿へ案内をする。そこでマリサが目にしたのは床に散らばる書物、無造作に投げ捨てられた衣類など几帳面なフレッドが済んでいるとは思えない状況だった。そして当人は不在である。
「娼館へ行っているのか……」
グリーン副長のつぶやきにマリサが反応する。
「こんなのは嫌だ!娼館へのりこんでやる」
マリサはグリーン副長の制止も聞かずに港町の酒場へ急ぐ。
人を殺しかねないマリサの様子にハーヴェーは慌ててアーティガル号に戻るとハミルトン船医に言った。
「ハミルトン先生、流血に備えてくれ。他の連中は一切かかわるな。これは事件だ、巻き込まれたくなかったら手や口を出すな!」
騒然とする連中。
「海賊と海軍の夫婦喧嘩……ああ、恐ろしい……」
マリサがどうでるか考えただけでも背筋が凍るのだ。
フレッドが顔を出すという娼館を探し当てて入ると店の男がマリサをじろじろ見てきた。生活に困って娼婦になると勘違いしたのだろう。マリサの前に進み出ると薄ら笑いを浮かべる。
「稼ぎたいのか?お前ならいくらでも稼ぐことができるぞ」
しかしマリサは頭が怒りと嫉妬で燃えている。
「ここに士官が来ているだろう。案内しろ!」
そう言ってピストルを男に向けた。
「な、なんだ、お前……」
男はうわずった声をだすとマリサを一室へ案内する。
「フレッド!」
マリサが扉を開けると驚いたソフィアが毛布で身を隠す。
「出ていけ!」
マリサの形相に恐れをなしたソフィアは慌てて服をとると、半身裸のまま飛び出していった。
それを確認するとマリサは小刀を取り出してフレッドに詰め寄る。
「この裏切り者!」
ナイフを振り上げてフレッドに切りつけかけたが、フレッドはとっさによける。
「ごめん……」
その声も届かないマリサはそのままナイフを布団に何度も突き刺す。目の前でボロボロになる枕をみてフレッドの体は震えが止まらない。
ナイフを何度も突き刺したかと思うとマリサは大粒の涙をこぼし、フレッドの胸に飛び込んだ。
「あたしはあんたのために掟を破った……あんたがあたしを嫌ったり避けたりしても……あたしが抱かれるのはフレッド、あんただけだ。この先ずっとあたしが抱かれるのはあんただけだ……。なのになぜこんな裏切りをする……」
泣きじゃくり、何度もフレッドの胸をたたく。
「ごめん……僕の心の弱さだ……。僕は君との身分差に負けてしまった……」
フレッドはそう言って目をつむり両手で顔を覆う。そしてその指の隙間から涙が零れ落ちた。フレッドも泣いていた。
「貴賤結婚なんてそんなものに?……ばかなことを……」
マリサは呼吸を整えて気持ちを落ち着けると、泣いているフレッドを抱きしめる。
「身分なんて人間が作り出したものだ……。あたしは海賊だ……自由社会の海賊だ……そんなものに縛られるわけがないのに……だからスチーブンソン家に嫁いだ。自分で料理をして……縫物をして……子育てもやった……。それでも貴賤結婚だというのか?フレッド、あたしとシャーロットは婚外子だ。このことは限られた人しか知らされていない。本当なら差別されてもおかしくなかったのにウオルター総督はそうしなかった。自分の子として育ててくれたし、あたしがさらわれた後はイライザ母さんとデイヴィスが本当の子の様に育ててくれた。身分なんて関係ない……あたしは今ではスチーブンソン家の家族、そうじゃないのか?だからこれからもフレッドのそばにいたい。あんたがあたしを避けようともスチーブンソン家の人間として家族を守り、家を守っていく。……愛しているよ、フレッド。それは変わらない。これからもずっとずっとあたしを抱くのはフレッド、あんただけだ……」
久しぶりに会ったフレッドは痩せていた。ディヴィージョーンズ号に乗り、ともに海賊として働いていた頃の面影はない。
マリサは静かにフレッドの体に触れる。そこには大小無数の傷跡があり、大きな傷となっているものもあった。あの"光の船"の収容所で受けた傷だ。
彼もまた、仲間を守るために人よりも多く傷を負わされたのだ。
傷跡を指でたどりながらマリサは胸にこみあげてくる感情を抑えられない。
「あたしのほうこそ、あんたの気持ちを理解しているようでできなかったのかも……。フレッド、ごめん……」
そう呟くとフレッドの胸に身を寄せた。
「もしもあんたがまだあたしを愛しているなら……離婚はないというなら……やりなおしたい……あんたとやりなおしたい」
マリサの言葉に何度も頷くフレッド。
「……やりなおしたい……ぼくも。やりなおそう。僕はもう貴賤結婚を言い訳にしない。僕が妻として迎えたのは貴族のマリサじゃない、海賊の頭目をしていたマリサだ」
すれ違っていた2人はようやく思いをひとつにする。
アーティガル号からハミルトン船医がよばれ、ハーヴェーやグリーン副長ほか何人かの連中がことの成り行きを心配し、じっと店でマリサが部屋から出てくるのを待っている。
1時間はたっただろうか。マリサとフレッドが連れ立って部屋から出て、一階の飲み屋へ現れたときの緊張が解けた連中の顔はまるで天国へ行ったかのようだった。
「旦那、娼婦はともかく部屋を使ったなら部屋代いただきますぜ」
マリサはこの言葉に苛立ち、お金を男の胸元へ落とし込む。
「それ以上言ったらあんたのアソコを切り落としてやる。あたしはマリサだ。これでも海賊
マリサが冷笑すると男は震え上がって黙り込んだ。
フレッドはグリーン副長に謝罪をし、宿にこもっていても進まないから船に乗り、学びたいと話す。
「まあ、それが君の薬なら私は反対しない。フレッド、仲間たちと一緒にスパロウ号を取り戻そう」
そう言ってグリーン副長は手を差し伸べた。
ジャマイカの一夜はフレッドとマリサの結びつきを強めた。
「あんたのおかげで俺たちは恩赦を受け入れ、無事に投降することができた。これで逮捕されることがなくなり、連中の表情もいい。これからのことは連中と話し合って決めることにした。船長として最後の仕事だからな。お前たちはどうする?」
荷積みを一通り終えたアーティガル号をみてエズラがマリサに尋ねる。
「あたしたちは海軍の用件を済ませた。ここで積んだ荷をグリンクロス島に降ろして商売をする。それが商船アーティガル号の仕事だからな」
マリサはすでに航海のためにズボン姿へ変えている。
「そうか……グリンクロス島へ行くのか……。船乗りになりたての頃に何度か行ったことがある。あの島はゆったりとした時間が流れている。いい島だよな……」
エズラはそれ以上何も言わなかった。
マリサは彼と別れるとアーティガル号へ乗り込む。いよいよ出帆だ。
彼らはどのように生きていくのだろうか。それはマリサにわかるものでなかった。
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