第4話 マリサの復帰と溝
1714年12月。
マリサは日常生活を送るには十分に回復していた。家事や育児は問題なく体を動かすことができる。だが、まだ体がしっくりこないとマリサは感じている。
銃はともかくサーベルや小刀を使うことは生活の中で全くなく、練習をしなければ不安だった。
部屋のドアに的を作り、小刀を手にする。久しぶりのことで深呼吸をしても緊張感が漂う。
(以前のあたしなら、考えることもなく投げていたんだけどな)
そうつぶやくと小刀を思い切り的めがけて投げつけた。
と、同時にドアが開き、小刀は的から外れたところに突き刺された。
「きゃあ!」
叫んだのは義母ハリエットだ。ドアを開けるなり目の前に小刀が飛んできて生きた心地がしなかったのだ。顔を引きつらせてマリサを見ている。
「ごめんなさい、狙ったわけじゃ……」
と慌てたマリサ。
「あなたの考えてることがわからないわけじゃないけど、場所を考えて頂戴!」
義母はハアハア息を切らせながらほっとした表情を見せる。ハリエットはマリサが船に乗る日は近いと感じていた。
「あなたが船へ乗る前にやらなきゃいけないことがあるわよ。エリカも1歳になったことだしね」
そう言ってハリエットはマリサの胸を指し示した。
エリカは順調に成長をし、先月1歳の誕生日を迎えたばかりだ。食事は大人と同じものを小さく刻んで食べさせているが、エリカはまだ乳を欲しがったのでマリサはその都度授乳していたのである。
「船に乗る覚悟があるなら断乳しなさい。エリカを連れて航海するわけじゃないでしょう?」
ハリエットの言葉にマリサはゆっくり頷く。いつかやらなければと思っていたが、もうその時期にきていたのだ。
そこへ昼寝をしていたエリカが泣き出す。二人がいないことに不安を持ったのだろう。エリカを籠から抱き起こし、落ち着かせようと授乳しかけたとき、ハリエットが止めた。
「我慢なさい。まずは抱っこをして外の景色でも見せてやって。当分乳を欲しがったら気を紛らわせるようにしたらいいわよ。そうそう、これをお友達からもらったから使ってみて」
ハリエットはそう言って何やら円すい形に組まれた籠のようなものをみせた。
「歩行器よ。いつまでもエリカをぐるぐる巻きにしてもむずかるだけだからね。もう立つこともできるし、少しなら移動もできるわ」
ハリエットはエリカをマリサから受け取ると歩行器に入れ、またがせる。木で円形に組まれた歩行器は下に向かって広がるスカートのような形をしており、ほどほど安定しているように思えた。エリカはぐるぐる巻きから解放されたからか、泣き止み、歩行器の中で立つという新しい感覚を喜んでいる。そして手をのばし、歩行器を引きずりながら一歩、二歩と小さな歩みを見せた。
「ここまでおいで、エリカ」
マリサが手を差し出すと笑顔を見せながら近づいてくる。
「まんま、まんま」
「お義母さん、やはりマンマだって。どうしたらいい?」
「そうね。乳でなく何か食べさせましょう」
ハリエットは笑ってエリカのために食べるものを準備する。相変わらずエリカは上機嫌だ。何とか工夫して断乳を乗り切らねばエリカを置いて航海は難しい。何より義母であるハリエットが困るだろう。
エリカのしぐさのどれをとってもかわいくて仕方がないマリサだが、断乳は思ったよりつらい。乳房が張り、熱を持つ。これは授乳することで収まるのだが、それを我慢しなければならない。水で濡らした布で冷やしながらしのいでいく。
エリカを見るたび、アーティガル号とエリカを天秤にかけている自分がいたのである。
フレッドは再び港勤務だ。平和になり、スパロウ号は港に停泊したままだ。士官や上級職の中には暇になり、カードゲームで賭け事に興じる者もいる。戦時中に比べ減った給料を取り戻そうとしているのである。稼げない者は手持ちのものを担保にお金を借りる。これはどこの世界でも同じようだ。
フレッドもそうした状況になり、スチーブンソン家の暮らし向きが苦しくなるはずだったが、マリサの出産にあたってマリサの後見人であり”青ザメ”の仲間でもあったオルソン伯爵が隠し金をこっそりくれたので、その蓄えを有り難く使いながら生活をしていた。このことが余計にフレッドの心に重くのしかかっている。働いて対価をもらうのは励みにもなるが、今の自分は養われている気分だ。そのため昇進を何としても実現させたかったのである。
マリサ自身は周りの人々がどう見ようとも名義上の父親であるウオルター総督からは一切の金品をもらっていない。それよりも『恩赦』をもらって命をつないだ。それは大金よりも喉から手が出るほど欲しかったものだった。
ハリエットがエリカに柔らかなパンを食べさせている間、マリサは掃除をするため自分たちの部屋の窓を開けた。港に出入りする船が見えるこの部屋はマリサとフレッドのお気に入りだった。
窓からは冷たくそして潮の香りが入ってくる。どんよりとした空と陰のあるような海が、その向こうにいる自分の未来を感じさせていた。
そして停泊している船の中に心待ちにしているものがそこにあった。商船アーティガル号が港へ帰ってきたのである。
(アーティガル号!帰ったんだ)
「お義母さん、港へ行ってくる。アーティガル号が帰っている」
マリサが慌てて家を飛び出すのをハリエットは笑顔で見送る。武器を使うときはどうかわからないが、マリサは以前ほどではないが速く走ることもできるようになっていた。
ご近所やマリサを知るコーヒーハウスの客たちもマリサが全力で走る様子に何事かと驚いている。そんな視線もマリサは気づかないほど目はアーティガル号だけを捉えていた。
「お帰り!今回はどこかに立ち寄ったのか」
「おう、マリサ。帰ったぞ。今回はグリンクロス島だけでなくアメリカ植民地にも寄っていた。安心しな、荷は綿とサトウキビだ。奴隷じゃあない」
マリサをみてハーヴェーが答える。日焼けした連中の顔がとても懐かしい。そのハーヴェーの横からリトル・ジョンがマリサに呼びかける。
「マリサに話がある。ちょっと来てもらえないか」
リトル・ジョンはハーヴェーに目配せをする。何かある、マリサは不安を感じながらも桟橋を渡る。
リトル・ジョンは船長室へマリサを案内するとハーヴェーや乗り込み組を中心に連中を集めた。
「ちょっとの話にしては御大層な顔ぶれじゃないか。何かあったのか」
マリサが切り出すとハーヴェーは怪訝そうな顔つきで言った。
「マリサ、そろそろ船に乗ってくれないか。リトル・ジョンは小心者だからお前にこんなことを頼みにくいらしいから俺が言うんだが、アーティガル号は帰る途中、海賊に狙われた。荷を満載して船足が遅いところを狙われた。幸い乗り込み組が良く動いてくれて奴らを捉え、役人に引き渡したが、いつもこうなるとは限らない。アーティガル号は商船だ。人手の代わりに荷物を積んでいる。いくら艤装をしていると言っても人手が足らないとうまく活かせない。俺たちは統率を待っている」
そこへリトル・ジョンも口を開く。
「できればオルソンにも来てもらいたい。船を守らねば荷も守れない。マリサとオルソンの復帰は我々の切望だ。戦争が終わって仕事が無くなった私掠船が海賊に移行した話も聞く。海軍に護衛を頼まざるを得ない商船だっているんだ。アーティガル号がいくら特別艤装をしていても乗り込んでくる奴らの対応で手が回らない。何とか考えてくれないか」
ハーヴェーに話を切り出してもらったおかげで話しやすくなったリトル・ジョンがマリサを見つめて言った。
その後、リトル・ジョンに続いてその場の連中たちも口々に海賊に狙われたときの様子を話した。
「海賊との接触は避けられない。母として生きているマリサにこんな頼み事は無慈悲だと思われるかもしれないが、それでも船に乗ってもらいたい」
ハーヴェーは『家庭』という枷がマリサの心にあることに気付いている。
いつかは船に乗る、それがいきなり目の前にきているのだ。マリサは目をつぶった。
「……あたしもそれは覚悟をしていた。お義母さんも協力をしている。……1週間、1週間待ってくれ。航海までに断乳をしておかねばならない。オルソンにはこの件の手紙を出しておく。もうすぐクリスマスだ。出発はそれからでいいか」
マリサの言葉に連中は安堵した表情だ。
「十分だ。連中もクリスマスぐらいはゆっくりしたいだろうからな」
リトル・ジョンの言葉に頷く連中。
マリサが連中と話を終え、船を降りるときも荷降ろしは続いていた。そしてその様子を遠巻きに見ている男たちの存在があった。仕事を失った私掠船の連中である。
「俺たちは女王陛下のために戦い、国に尽くして私掠行為を行った。それなのに恩給が全くでない……人を馬鹿にした話だぜ」
薄汚れた服を着てたばこを吸っている男が言った。
「さあ、どうにかして稼がねばならん。あの商船は元海賊や私掠の連中が乗っている。まっとうな生き方を望んで荷を運んで対価をもらうだけの仕事だ。……どうだ、ここにいるお前たちもあのようになりたいか」
「俺たちを誘う気があるなら真っ先にきているよ。……あいつらは俺たちをさげすみ、お高く留まっているんだ。こっちから願い下げだぜ」
「そうさ……俺たちは自由に生きていく。戦争が終わった今、敵は俺たちを捨てたイギリスだ……。見かえしてやろうぜ」
アーティガル号を睨みながら私掠船の連中は吐き捨てるように言った。そしてこの連中は後に自分たちの船を国のために使うことはやめ、自分たちのために使うこととし、一路カリブ海へ向かったのである。
マリサは帰宅するなり、急いでオルソンに手紙を書いた。そして相当の手当てを出し、早馬で届けてもらうことにした。
「お義母さん、今度の出帆であたしも船に乗ることとなった。アーティガル号が海賊に狙われたそうだ。オルソンにも要請を出した。本当に急で……」
とマリサが言いかけると、ハリエットはマリサを抱きしめた。
「言いたいことはわかっているつもりよ。あなたは今、家庭よりも仕事を優先しなければならないときだからね。出帆までに断乳を済ませ、あのタペストリーと完成させましょう」
そう言うハリエットのぬくもりは、以前グリンクロス島で一緒にホットパイを作ったときにマリサを心配して抱きしめたあのぬくもりと同じだ。
「……大丈夫。危ない橋はわたらないつもりです」
マリサがそう言ったそばでエリカが何やら声を上げる。
「あー、あー。あーたん……」
「……母さんって呼んでいるのよ。言葉の吸収が早いわね」
ハリエットは嬉しそうだ。スチーブンソン家の血を濃く受け継いだエリカの顔立ちはハリエットのお気に入りだ。
「大好きだよ、エリカ。航海がすんだらあたしの顔を忘れてしまうんだろうな……」
エリカに会えない長い時間は『母』という存在をも忘れるだろうか。そのことに寂しさを感じるマリサは歩行器からエリカを出すと抱き上げる。
「あーたん、まんま……」
「あらあら、さっきパンを一口食べたばかりなのに?」
ハリエットはエリカの手を握り締める。
「お腹がすいたのではなくて言葉を楽しんでいるみたいだね」
マリサもエリカのしぐさがかわいくて仕方がない。マリサ自身も言語の習得が早い子どもだった。もっともマリサ自身はそんなことは知らないが。
マリサの復帰の話は港勤務から帰ったフレッドにも伝えられる。
昇進試験に不合格となり、社会からの有用観がないのではという気にかられるフレッドはマリサの復帰に複雑な思いを持っていた。
マリサを超える必要はない。そうグリーン副長は自分に言った。だが、やはりマリサを意識してしまう。彼女は連中に望まれて、家庭よりも仕事を優先し、船に乗るのだ。自分はどうだろう。次の昇進試験のために再び勉強をしているが、相変わらず港勤務だ。戦争で戦果を挙げたい思いもあるが戦争は終わってしまった。しかも周りの若い士官たちが生活苦から質屋に通う者がいるなかで自分はオルソンの隠し金でしのいでいる。これもマリサの出産に合わせてもらったものだ。グリーン副長が言うように『危機感がない』のは事実だった。
こうしてフレッドとマリサにかすかな溝ができつつあったのである。
その後マリサは断乳を済ませるために何度もエリカを泣かせる羽目になった。かわいそうに思っても我慢しなければエリカも留守を預かるハリエットも困るだろう。
そしてやらねばならないことはまだあった。海軍に拘束され処刑を待つ身となってからこれまでサーベルや銃を持つことはなかった。小刀でさえあの状況だ。マリサが家事と育児に勤しんでいる間にそれらは置物に代わっていた。
(1週間で元に戻るかどうかは自信はないが、やらなきゃならないんだ)
マリサは銃とサーベルと手にすると、船に通ってギルバートやオオヤマから復帰のために練習の相手をしてもらうことにした。体力は戻ったが敏捷な動きを取り戻すにはこれからだ。
そんなマリサを見つめるフレッドはやはり笑顔がない。その理由に気付かないハリエットではなかった。息子のためにできることは何でもしようとあれこれ考えていたのである。
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