第5話 歩兵でいいです(2)

 村社の裏手に広がる林の中を、献慈は闊歩していた。

 日本にいた頃は真夏だったが、イムガイは今、新緑の季節を迎えている。献慈からすると二月ほど時が戻ったかのような感覚だ。


 午後の優しい木漏れ日。小鳥のさえずり。誘われるようにして、献慈の口からも歌が漏れ出てくる。


「♪~ヨーレネィンジョウィチ! ヨーウェン エィンジョゥ ウィチ!」


 長年慣れ親しんだメタル・ナンバーの数々は血液同然、献慈の魂の中に脈々と流れている。どれだけ異郷の地になじもうとも、最後まで心の拠りどころとして在り続けることだろう。


 林へ踏み込んでさほど進まぬうち、開けた場所へ出た。積み石の上に建てられた小さなほこらと、澄んだ泉とが視界に飛び込んでくる。

 その手前にある草地がちょうど献慈が目を覚ました場所だ。訪れるのはあの翌日、様子を確かめに戻って以来、三度目になる。


 澄みきった水面は陽を照り返し煌めき、間近で一心不乱に木刀を振るう、勇ましき乙女の姿を際立たせる。

 澪は一人、剣の稽古に励んでいた。道着に袴、長い髪をローポニーに結った格好だ。少し離れた場所には、手ぬぐいや竹製の水筒が入った手さげカゴが置かれている。


(これは……自主練ってところかな)


 いつか学校の体育館で目にした記憶が、ふと目の前の光景と重なった。

 一瞬――ほんの一瞬だ。

 竹刀と木刀の違い以前に、背格好だって似てはいない。単なる白昼夢にすぎないのはわかっている。


(……寝ぼけてる場合じゃないぞ、マッケンジー先輩)


 献慈が二の足を踏む最中、澪は木刀を鳥居に構える。切っ先が後ろ、柄頭が正面を向く形だ。


(この構えは――)


 河原でカッパに相対した構えと同じ。


「〈あれ〉――!」


 雄叫びにも似た声が澪の口から発せられた。裂帛れっぱくの気合とともに、振り抜かれた木刀が唸りを上げる。

 引き絞られた弓から放たれる矢のごとく、燐光を帯びた太刀風が疾走してゆく。それは地面そして水面を切り裂くよう水柱を上げながら突き進み、泉の中ほどまで差し掛かったところでようやく途切れた。


(この技だったのか、カッパたちを薙ぎ倒したのは)


 凄まじい剣気に当てられ献慈は立ちすくむ。だが直後、澪が窺っているのに気づいて、こちらから声をかける。


「ごめん。すごい技だなって、見入ってたんだ。今のは……魔法ともまた違う力みたいだけど」

「ちょっと霊気を飛ばしてみただけ。こういうのもやっぱりユードナシアむこうじゃ珍しい?」

(『ちょっと』とかいうノリで飛ばしたりできるもんなのか……)


 後日知ったところによると、武器や拳脚を通じて霊気を放つ技能を〈投射プロジェクション〉と呼ぶらしい。

 もっとも、今の献慈には霊気なるものが何を指すのかさえ把握できてはいない。


「うん。魔法とか、精霊だとか……トゥーラモンドこっちに来てから毎日驚きの連続だよ」


 トゥーラモンドでの日常は地球――ユードナシアの非日常である。それこそゲームや漫画、映画といった創作物の中でしかお目にかかれない代物なのだ。

 そして、逆もまた然り。


「そっかぁ。何か変な感じだよね。漫画とか活動なんかはこっちにもあるけど、そっちにある〝げぇむ〟とかいうのが私は気になるかなぁ。絵を動かして走り回ったり戦ったり、いろいろぶち壊したりできるんでしょ? 何だか楽しそう」

「そ、そうだね(……もっと平和なジャンルもあるんだけどな)……それはそうと、道場じゃなくてこんな場所で稽古とか、もしかして秘密特訓?」

「まさか。ここにはしょっちゅう来てるし、気分転換みたいな? いつもどおり何となく来てみただけで……」


 そう答えつつ、澪は袋へ仕舞った木刀をそばの木に立て掛けた。


「何となく?」

「そ。何となく。でも、その何となくに感謝かな。おかげであの日も献慈とここで会えたわけだし」

(ここで……か)


 一週間前の出来事がまざまざと思い起こされる。それは澪も同様であったらしく、どことなく気まずい空気がふたりを覆った。


「あ、えっと、あの時は……ごめんね、いきなりお顔の上にしゃがみ込んじゃったりして。びっくりしたよね?」


 澪が汗を拭う手ぬぐい――無論「あの」手ぬぐいとは別物であるが――を見て、献慈はますます慙愧の念に苛まれた。


「そんな。あれは事故みたいなもので……俺のほうこそ申し訳ない。あんな見苦しい格好晒して……」

「わ、私は気にしてないから! それより献慈、何か用があって来たんじゃないの?」

「そうだった。これを……届けに」


 献慈は作務衣の衣嚢ポケットに忍ばせた懐紙を広げ、その中身を澪に見せる。


「これ……」


 着物の帯に付ける小さな飾り――いわゆるつけであった。

 紐先にぶら下がった木彫りは春先に生えるつくしをかたどったもので、風変わりながらも愛らしい意匠となっている。


「洗濯桶の下で拾ったって。澪さん、こっちに探しに来たのかもしれないから渡しに行ってあげてって、お父さんが」

「そっか、洗濯物にまぎれて……。ありがとう、あとでお父さんにもお礼言っとく。取り出すの久しぶりだったから、失くしてたの気づかなかった」


 渡された根付を見つめながら、澪は力なげにつぶやいた。


「……大切なものなのに、ね」


 憂いを帯びた面差しが何事かを窺わせる。

 献慈は踏み込んでよいものか躊躇するも、思いがけずそれは本人の側から打ち明けられた。


「この飾りね、お母さんの形見なんだ。前に二人で旅をしてた時期があって……その時に私がねだって買ってもらったものなの」


 澪はそう話す傍ら、慣れた手つきで袴の帯につくしの根付の紐を巻きつける。


「お母さんさ、『お前がそれを付けたらみおつくしになるな』とか言って……あれが最後の冗談になるなんて、あの時は思ってもみなかったなぁ……」


 その後何があったのかまでは語られなかった。ただ、訥々とつとつと語る澪の様子からは、故人の人柄が垣間見えたように思えた。


「……って、よく考えたら形見っていうよりただのプレゼントだよね」


 あえて付け加えたのは、自身のつらさを隠そうとする強がりのためか、そうでないなら、湿っぽい空気にしてしまったことへの気遣いだろうか。


「澪さんにとって大切なものには違いないよ」


 気休めとわかっていても、言わずにはいられなかった。澪が自分を見てうなずいてくれたことに、献慈はほっとする。


「うん……あのね、献慈」

「何?」


 澪は近くにあった切り株に腰を下ろし、その隣の空いた場所を手でぽんぽんと叩く。

 呼ばれるまま、献慈は彼女のもとへ歩み寄ったまではよかったが、


(ち……近ぁい!)


 切り株の大きさはぎりぎり二人が座れる程度だ。このまま腰を掛けようものなら、密着状態になりかねない。


(澪さんはお尻が大きい分、面積を広く取ってしまっていることに気づいていない……だがその分、俺の体格は貧弱なのでバランスは取れるかもしれず――)

「あ、ごめん」


 澪はすぐに場所を少しずらした。


「…………。いえ、べつに……」


 そこはかとなく残念な思いを抱えつつ、献慈は澪の脇に腰を掛ける。隣り合わせとも、背中合わせともならない微妙な位置関係だ。密着とまではいかないが、それでいて温もりが感じられる距離でもある。

 澪は水筒の水を一口あおった後、語り出した。


「私、実は子どもの頃ね、神官になりたかったんだ。お父さんみたいに皆を守る仕事がしたくて……でも魔法の才能自体あんまりなかったみたいで、結局断念しちゃった」


 魔法の素質それ自体は、この世界の住人誰しもが先天的に有しているものだ。そうでなければ、キャンドルをはじめ身の回りの魔導器を扱うのさえままならないであろう。

 だが実際に魔術を行使する段階となると、その難度は格段に上がる。ボールを転がせる人間が全員サッカー選手でないのと同じ理屈だ。


「それでさ、すねてる私にお母さんが言ってくれたの。『お前はどうせ元気が有り余ってるんだから、剣術をやれ。剣で人を守ってみろ』って。それが……私がお母さんから剣を習い始めたきっかけ」

「お母さんから?」

「あ、言ってなかったっけ。お母さん、私が生まれる前はれっをしてて、わりと有名だったみたいなの」


 烈士とは、ここトゥーラモンドにおいて遺跡探索や魔物討伐などを生業とする人々のことだ。ファンタジー世界によくある冒険者のような職業だと、献慈は理解している。


「初めて聞いた」

「そっか。たまに二人でここに来て稽古したなーって。教わったこと、ぜんぶ身体に染みついてる。だからこれも……ある意味、形見って言えるかも」

「素敵な話だね」

「そう思ってくれるんだ。嬉しいな」


 姿勢はそのままに、澪の顔がこちらを向く。

 献慈は正面を向いたまま、視線だけを泳がせた。

 距離が、女子との距離が、女子との物理的な距離が、近すぎるのだ。


(う、動けない……っていうか喋れない……)

「献慈ったら聞き上手だから、いっぱいお話しちゃった。……さっきからずっとおとなしいけど、もしかしてお腹すいてる?」

「え? あ、べつにそういうわけでは……」


 とんだ勘違いである。言葉を詰まらせる献慈を尻目に、澪はカゴの中の巾着を探り、小さな包みを取り出す。


「無理しなくていいよ? 私も……ちょっろおあはふいひゃっらし」


 澪は酢こんぶを唇に咥えながらもう一つ、油紙に包まれたそれを献慈にも手渡した。


「あ、ありがとう」


 受け取る間際、ふと献慈の中に過去の思い出がよみがえる。

 中学校の行事で出かけた、河原での芋煮会――ちなみに豚肉入りの味噌味だ――での出来事だった。


 同じ班になったさなかおるが、何かの拍子にガムを一枚、自分にくれた。まるで宝物のように感じられたそれを、献慈はその場では食べず、家まで持ち帰ったのだ。


(引き出しに仕舞ったまま、半年ぐらい取ってあったっけ……今考えるとちょっとキモいな。でも――)


 こんぶの欠片を一口含むと、甘酸っぱさが胸の奥にまでじんわりと広がるような錯覚を覚える。


(――もう戻れないんだよな、あの場所には)


 感傷が献慈の心を満たした、そのわずかな気の緩みがしくじりを生む。


「危ない、そこ!」

「えっ――」


 何気なく下ろそうとした手を、澪が素早く振り払う。


「いつっ……」


 見れば、切り株の端に小さくとげが突き出ている。はずみで引っ掛けてしまった澪の手には、血がにじんでいた。


「澪……さん、ご、ごめん……」

「気にしないで。これくらいどうってことないよ」


 狼狽うろたえる献慈をなだめすかすよう、澪は一笑してみせた。事実、それほど深い傷ではない。強がりで言っているのでもないだろう。

 だとしても、献慈の気が済まなかった。


(お父さんみたいな治癒魔法が俺にも使えたら、治してあげられるのに――)


 その想いが、予想もしない事態をもたらそうとは考えもしなかった。


「これ……献慈が……?」


 澪が示したのは、彼女の手に付いた擦過傷――


「はい、俺のせいで…………えっ?」


 ではなく、傷の周囲に煌めき漂う陽炎のような光であった。それはまさに一週間前、大曽根が献慈を手当てした際、目にした輝きと酷似していた。


「いや、違――」反射的に否定するも、「俺……なのか……?」


 改めて思い直す。飛躍は承知のうえで、澪の傷を癒したいという衝動が、この現象の引き金になっていたとしたら。

 さらにはこの感覚、身に憶えがある。初めてメロウキャンドルを使った時に感じた、あの第六感だ。


「澪さん、手を……貸してみて」

「……うん」


 寄せられた信頼を感じる。不思議とプレッシャーはない。献慈は澪の負った傷の上へ、そっと手のひらをかざす。


(何とかなる。俺が……治してみせる――)


 今ならばわかる。魔法の本質とは、霊体の運動そのものだ。物体を動かすのに必要なのが筋力とすれば、魔法を実現させるのは意志の力にほかならない。

 澪が、息を呑んで見つめる。


「献慈……いつの間にこんな力……」


 揺らめく光焔が、献慈の求めに応じて次第に輝きを増していく。

 献慈にはえていた――もうひとつの眼が捉えた、澪の手。


 因果を遡った元の状態と、現在の状態との間に、あるべき「かたち」が浮かび上がってくる。理想たるその「かたち」に近づくよう、注意深く「いま」を導いてゆく。

 その先に献慈は、パズルのピースがはまり込むかのような手応えを確かに感じ取った。


「……ふぅ。上手くいったかな」


 ゆっくりと手をどける。光がもやとなって辺りに散っていく下から、傷一つ無い綺麗な柔肌が現れた。


「……うん! もうちっとも痛くない! ちゃんと治ってるよ! ありがとう! 献慈、本当にすごいね!」


 澪は瞳を輝かせ、しきりに献慈を褒めそやす。

 誇らしい気持ちが献慈の心を満たしていた。癒しの力に目覚めたことよりも、恩人に喜んでもらえたのが何より嬉しい。


「よかった。魔法を使うなんて初めてだったから……ってか今の魔法? 魔術? ってことでいいんだよね?」

「んー、どうだろ。魂振たまふりとはちょっと違うみたいだけど」


 魂振というのは、カムナヤの神官が使用する、主に治癒や支援を行う術の総称である。氏神の力を借り受けるため、術者が即興で祝詞を詠むのが特徴だ。


「神様の力を借りる術だっけ。俺に縁のある神様といっても思いつかないな……強いて言えばメタル界は何かと〝神〟が多かったりもするけどね」


 献慈はついついメタルジョークを口にするも、澪相手に通じるはずもなく。


「〝めたる〟って、献慈がいつも歌ってるお歌のことだよね?」

「そうだけ……ん? 歌?」


 その時、献慈の中で一つのひらめきが頭をもたげた。


(まさか……俺の尽きせぬメタル愛が歌を通じて鋼鉄神メタルゴッドのもとへ届き、異能の力を授けてくれたのではあるまいかッ!?)

「どうかした?」

「あの、ひょっとすると俺……鋼鉄神の啓示を受けしメタル・ウォリアーなの、かもし、しれない……です」


 実際口にしてみて、献慈は自分の仮説に違和感しかないことに気づく。


「何? ごめん、もっかい言って?」


 全力で首を傾げる澪のリアクションが、献慈の心に追い討ちをかける。


「あ、その……メタルゴッドの恩寵を賜りし……や、やっぱり俺は歩兵でいいです……」

「んー、よくわかんない」


 残念そうに口を尖らせる澪。しかし献慈にはこれ以上、妄言を繰り続けるだけの気力はない。


「ちょっとした勘違いってことで、どうか納得していただけると……」

「いいけど、その代わり私の言うこと聞いてくれる?」


 思わぬ切り返しが、献慈を身構えさせる。


「澪さんの頼みを?」

「そう! それ! 『澪さん』っていうの、ちょっとよそよそしくない? もう一週間も一緒に暮らしてるのに」

「と言われましても、どう呼んだらいいか……」

「お父さんのことはずっと『お父さん』呼びじゃない? だから、お……『お姉ちゃん』とか」

「…………」

「あ、あと『姉さん』なんかもいいかなぁ……うん、何かそっちのほうが献慈っぽい感じがする!」

「……あのぅ……澪さん?」

「私の話、聞いてた?」


 にこやかな表情に反して圧迫感を増してゆく澪の語勢に、献慈は抗うすべを知らない。


「そ、それじゃ、み…………澪、姉さん……」

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