第3話 分岐点(1)

 教室の開け放たれた窓の外から、生ぬるい風がセミの声を運んでくる。


「『橘の 匂ふあたりの うたた寝は 夢も昔の 袖の香ぞする』……えー、この歌なんですが、本歌取りといって――」


 教科書を手に歩き回るのは、担任の国語教師だ。


「――で、誰か説明できる人? いない? じゃあ……入山いりやまけん

「あ、はい」


 渋々と立ち上がったのは、廊下側の席の眼鏡を掛けた男子生徒だ。


(俺……でいいんだよな)


「どうした?」

「えっと……本歌っていう、元の……アレがあって、ただ、そのまま写すんじゃなくて、アレンジっていうか、その……」

「んー……そうだな。もっとわかりやすく言うと――」


 教師は微妙な面持ちのまま、教壇へと戻って行く。

 献慈も自覚はしている。お世辞にも勉強が得意とはいえないことぐらいは。


「さすがマッケンジー先輩。やっぱ二回目ともなると余裕だね」


 後ろの席の女子生徒が茶々を入れてくる。


「はいはーい。オレも二回目っすよ」


 便乗するように、彼女の隣の男子生徒が声を上げた。


「知ってるし。ヘッキーは目立つんだから、黙って座ってなよー」

(たしかに……お前は目立つよな)




 ホームルームが終わり、放課後を告げるチャイムが鳴った。


「じゃ、よろしくね。マッケンジー先輩」

「……あ、うん」


 足早に去って行くクラスメイトに、献慈は力なくうなずく。


(イリヤ・マッケンジー、ね……)


 そう呼ばれるのはべつに構わない。

 始業日の自己紹介で、それとなく仕向けたのは献慈自身だ。当時はクラスになじもうと必死だったし、結果として居場所は確保できたのだから。

 それはそれとして、同じ一年生にもかかわらず「先輩」と敬称付きで呼ばれるのには理由がある。


 留年したのだ。

 理由はごく単純で、赤点続きだったのが原因だ。そのうえ自棄を起こし補習からも逃げ続けていたのだから、まったくもって自業自得だ。


 半年ほどの休学を経て復学の道を選ぶまでに、さまざまな葛藤があった。大学生の従姉に家庭教師を頼んだりもしたし、自発的にアルバイトを始めたのもこの頃だ。

 後悔。反省。奮起。努力――内側でどんな過程を経たところで、周囲に映る評価には露ほども影響しない。

 落伍者の歩む人生など、所詮は他人事なのだ。


 付き合いの浅い友人はどんどん離れていった。両親からは呆れられ、姉は弟遣いが荒くなり、同学年となった妹――他校なのが救いかもしれない――はこちらから声をかけない限り話もしてくれなくなった。

 それが献慈の現状だった。


(……笑われ役でも、居場所があるだけマシだよな)


 ため息ひとつ残し席を立とうとする献慈を、


「おいおい、今日は何かと厄日みたいだなー? 献慈」


 あだ名ではなく、本名で呼ぶ人物がいる。

 切れ長の目をした、長身の男子生徒。ついさっき、授業中に目を引いていたお調子者その人だ。


「あぁ。授業はともかく、この後の雑用がね」

「出席番号順かー。つくづく運がねーなー、オレら」


 この男こそ献慈の親友にして悪友、名を宇野うのみや碧郎へきろうという。


「え、何? 『オレら』って?」

「え、じゃねーよ。オレたち留年ダブリ仲間だろ?」


 仲間。碧郎は事あるごとに、そう献慈に言うのだ。

 実際、同学年で留年している生徒は献慈と碧郎の二人だけだ。この男の言いたいこともわかる。


(お前はそう言ってくれるけど……俺とは全然違うだろ)


 サッカー部の有望株だった碧郎は、練習中のケガで長期離脱を余儀なくされた。快復後も元のポジションは別の選手に奪われたまま、引退を決意する。そうした中、心身の不調で休学が続いたことが留年の理由だった。


 悲劇のヒーロー。自分とは何もかもが違う。消そうにも消せない、浅ましい劣等感が、常に献慈の中には渦巻いている。

 だがそれでも、気さくに接してくれるこの男を無下にはできない。献慈もまた、碧郎のことを気に入っているのだ。


「……だよな。でも碧郎、今日は先帰っていいから。家の手伝いあるんだろ?」

「そーそー。運悪くってゆーか、運良くってゆーか?」


 碧郎は、実家の電器屋をたびたび手伝っていた。とくに今のような夏場は、エアコンの取り付け依頼が殺到する書き入れ時なのだ。


「そっか。バイト代出るもんな」

「おう。来月までにぜってーツインペダル買うわ」

「いいな。碧郎もついにメタルドラマーらしくなってきたな」

「オレの魂はずっと前からメタラーだっての。献慈だってそうだろ?」


 二人とも共通の趣味はいくつかあるが、中でもヘヴィメタルはとくに最も盛り上がる話題の一つだった。

 献慈は始業日の自己紹介で、碧郎もメタラーであることを知った。同じく留年組であることを差し置いても、きっと意気投合するまでに時間は要さなかったはずだ。


「当然だって。それより、こないだ言ってた新譜どうした?」

「とっくに買ったわ。献慈の言ってた曲、最後の。めっちゃテンション上がんね?」

「あー、アレね」

「♪~ぱ~ぅわぁ~」

「♪~ばわっ ぱわっ」

「ギャハハ!」


 つうかあで伝わるのは、同好の士であればこそだ。


 中学の頃、深夜ラジオをきっかけにメタルにはまってからというもの、献慈は小遣いのほとんどをメタルのアルバムへつぎ込んできた。お年玉でギターを手に入れてからメタル愛はさらに加速し、今やとどまることを知らない。

 留年という逆境から献慈が立ち直れたのもメタル、そしてギターの存在あってこそだ。


「っつーか献慈、ギターちゃんと練習してる?」

「もちろん。碧郎こそどうなん?」

「とりあえず完コピ目指す。そっから先はオレの解釈が乗るかもしんねーけど許せ」

「んだよそれ……普通にコピーしてくれよ」


 親友とともに目指すは、秋に開かれる文化祭のステージだ。

 それは献慈が再び歩み始めた学校生活での、ささやかな目標であった。

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