第3話 分岐点(2)
「♪~ぶれっきんざろー、ぶれきんざろー(デッデーン)」
鼻歌を歌いながら、献慈は放課後の廊下を歩いていた。
実習棟には元から人気が少ない。この程度の歌声は、どのみち吹奏楽部の練習の音にかき消される。
右手に持つのは救急箱、クラスの誰かが教室に置き去りにしたものだ。保健委員の生徒が欠席のため、代わりに献慈が保健室まで返しに行かねばならなかった。
(面倒だけど、一人は気楽だな)
やるべきことさえやっていれば、クラスの連中に馬鹿にされるいわれはないのだ。
(……張り合いは薄いけどな)
一階へ降りる階段の前までやって来ると、
「おーい」
頭上から声がかかった。
見上げるまでもない。さっき別れたばかりの碧郎だ。
「何だ、急がなくていいのかよ」
「急いでるって。さっき返し忘れたんだよ、これ。『ホンマええケツでんな』」
碧郎のバッグから取り出された、四角い物体が献慈に差し出される。
「バ……ッ! タイトル口に出すなって!」
周囲を気にしながら献慈が受け取るのはほかでもない。「エ」で始まって「ロ」で終わる二文字のジャンルに属するビデオテープだ。
「今さら恥ずかしがんなって。へへ……献慈くんよ、アンタもいい趣味してんなー」
「いや、だからこれはバイト先の先輩にダビングしてもら……って、聞いてる?」
「ゴメンな、時間ねーんだよ。んじゃ、ごちそうさまでした!」
満面の笑みを残して、碧郎は風のように去って行った。
さて、困ったのは献慈のほうだ。
(まさか……このブツを手に持ったまま、校内をうろつけと?)
本校の制服は学ランなので冬場ならば隠しようがあったのだが、いかんせん今は夏服だ。シャツ一枚ではどうにも心許ない。
最悪と言っていいタイミングに、軽快な足音がこちらへ近づいてくる。
(やばっ! ど、どうする……!?)
身を隠そうにも場所はない。咄嗟に向けた背中に、
「――ひょっ!?」
吹きつけられる、冷たい感触。
「入山くんはリアクション薄いなぁ」
自分を本名で呼ぶもう一人の声が、献慈をそろりと振り返らせる。
一人の女子生徒が、冷却スプレーを手に悪戯っぽく微笑んでいた。サラサラのショートヘアと、体操着のハーフパンツから伸びるしなやかな脚は、スポーツ少女然とした雰囲気を醸し出すのに一役買っている。
「
献慈が目を泳がすこの女子――真田
「宇野宮くん見かけて走って来たんだけど、間に合わなかったから」
(俺は「宇野宮くん」の代わりかぁ……)
背中をさすりながら、献慈は視線を落とす。
宇野宮碧郎。去年、馨とは別のクラスだった献慈の代わりに、彼女のクラスメイトだった男。
「二人とも仲いいよね。羨ましいなぁ」
「ん……まぁね」
同意する――自分は碧郎が心底羨ましい。
献慈が中学一年の頃、馨は同じクラスに転校して来た。
目にした瞬間、彼女の周りが朝陽に煌めく水面のように輝いて見えた。
それまで自分を取り巻いていた景色すべてが変わってしまうほどの強烈な体験――紛れもない初恋であった。
それから何年もの間、献慈は馨に片想いを続けていた。本来ならワンランク上だったこの高校をダメ元で受験したのも、彼女を追いかけてのことである。
合格できたのは、はたして幸運だったのだろうか。別々のクラスとはいえ、再会すること自体は叶ったのだから。
しかし無理な背伸びをしたせいで、授業のレベルについていけなくなるとは、当時の献慈は考えもしなかった。
ならば不運といえるだろうか。碧郎という気の置けぬ友人を得られたきっかけが、留年という不名誉であったとしても。
「ところでさぁ」と、馨。「二人で楽しそうにしてたけど、何話してたの?」
(あー! いきなりそこ訊いちゃいますか!)
そうストレートにツッコめる相手であれば苦労はないのだ。
「いやぁ……話というか、男同士のなんちゃらいいますか……」
言うに事欠いてひねり出した言葉に、献慈は内心頭を抱えた。悪友の軽率なノリにすっかり毒されている。
「んー、意味わかんないってゆうか……それ、何持ってるの?」
馨が目ざとく発見したもの――それは献慈が左手に持つ直方体である。
「き、救急箱ォ!」残念ながらそっちは右手だ。「保健室に、と、届けよぅ――あっ」
慌てふためく献慈の手から、ビデオテープがするりと滑り落ちる。それは真っ直ぐに馨の足元へ、ラベルを上向きにして着地していた。
(あれっ……もしかして俺、終了した……?)
献慈が愕然として立ち尽くす中、馨は実に無駄のない所作でテープを拾い上げる。
「……ま、えーけつ、でん……?」
何と淀みなく、かつ品の良い
(うわあああァ――ッ!! 『ホンマええケツでんな』あああァ――ッ!! ってのはビデオのタイトルなので勘違いしないでくださいねえええェ――ッ!! 決してあなたに対する俺の心の声を代弁したものではございませんのでご理解くださあああァ――いッ!!)
こんなことならラベルの偽装工作ぐらいはしておくべきだった。後悔先に立たず。献慈の脳裏を、四年間の片想いの記憶が、走馬灯となって駆け抜けてゆく。
青春の日々は今、最低最悪の形で終わりを告げようとしていたかに思われた。
「あー、これ面白いよね。私もこないだ観たよー」
「…………へ?」
献慈は自分の耳を疑った。
テープを差し出す馨の態度は、いたって平然としている。
震える左手を力ずくで御しながら、献慈はそれを受け取り、ラベルに目をやる。
(『
即座に理解した。碧郎は、テープを取り違えて渡してきたのだ。
「そっか、入山くんもカンフー映画とか好きなんだ? 意外かも」
「そ……そうかもね! 思いっきりイぅ、インドラ派だし」
「それ言うならインドア派でしょ。インドラって何だよ! 雷神かよっ!」
予想しない流れだった。可愛らしいツッコミが献慈の緊張をいくらか解きほぐす。
「あはは、か、噛んじゃった……でも真田さんこそ意外だね。神話とか詳しいの?」
「んー、私がってゆうか、お兄ちゃんがいろいろゲームとかやってて――」
馨は興が乗ったのか、嬉々として自分や家族のことについて語り出した。ときに身振り手振りも交えながら――それは献慈が知り合ってからこれまで目にすることのなかった、彼女の自然で生き生きとした姿だった。
ほんの数分の雑談。取り越し苦労で疲弊した献慈の心が立ち直るに従って、ふとした疑問が湧き起こる。
「そういえば真田さん、今から部活じゃないの?」
それは、本当に何気ない質問のつもりだった。
「ん? 行くよ……これから」
思いのほか微妙な反応が返ってくる。
一瞬前まで淡い光の中にあった馨の微笑みが、心なしか
「ケガしてる、とか?」冷却スプレーの缶を見つつ。
「あっ、違うよ?」
「どこか調子悪い?」顔色は悪くない気がするが。
「んー……正直たいぎい……」
「えっ?」
「あ、うそうそ。気にせ……しないでいいから」
それは無理な相談だ。かといって、軽はずみな発言をして嫌われたくもない。
「何か……あった?」
献慈はそう訊くのがやっとだった。
「……剣道」馨はうつむいたまま、
「……それは……」
「あっ、べつに今すぐどうこうって話じゃないんだけど。進路だってまだ全然だし……ごめんね、急に愚痴っちゃって。こんなの、みんなの前じゃ言えないよー、あははー」
取って付けたような作り笑いが痛々しく感じられる。
だが同時に、献慈は嬉しくもあった。友だちや部活の仲間の前では言えないことを、馨は自分だけに話してくれているのだ。
「……いや、いいよ。俺は気にしないから」
二人の関係を思えば、これ以上の言葉など献慈には望むべくもない。
それでも会話が打ち切られずにいたのは、馨がわずかでも心を開いてくれたからに違いない。
そう思いたかった。
「たまーに……さ。これを続けた先に何があるんだろ、とか。いろいろ」
「もしかして……悩んでる?」
「んー……ん。今だけ」
「そっか。すぐには結論が出せないぐらい、真田さんにとって大切なことだもんね」
「……そう……なのかも。うん、そうだね。きっとそう」
心なしか、馨の声につやが戻ったように感じられた。
馨は顔を上げ、献慈に尋ね返す。
「入山くんは復学する時、悩んだり迷ったりした?」
「俺? 俺は、迷ったというか……正直言うと留年してまで残ってる理由って、高卒資格ぐらい取っておこう程度の気持ちだったりもするんだけど」
献慈は本心を打ち明けるべきか、
ここで話を切ってしまっては、単に打算的な印象のままで終わってしまうだろう。
決断まで時間はかからなかった。
「でも復学決めたおかげで、こうやって真田さんとも会えるし、悪くないかなって」
本当は――学校を去り、馨との接点が何も無くなってしまうのが嫌だったのだ。
けれど、それそのものを伝える勇気など、献慈にはありもしない。
精一杯の強がりに自嘲を浮かべた、その時だった。
「それってもしかして、告白?」
不意打ちともいえる馨の一言で、献慈の頭は真っ白になる。
「あ!? ……あ、ま、まさかぁ! そ……そんな、わけ、ないし! う、うん!」
もしこの時――馨の茶目っ気に乗っかって想いを肯定していたら、どうなっていただろう。
それは、あらゆる意味での分岐点だったのかもしれない。
いずれにせよ〝すでに選択してしまった献慈〟にとっては詮無いことだ。
「……はー、やっぱリアクション下手すぎ。それじゃジョークになんないじゃん」
「あ、あはは……ご、ごめん。碧郎だったらもっと上手く返せたんだろうけど」
「フフッ……そんなん言えるわけないし」
言えるわけがない。
「でもさ、考えてみれば私たち中学から一緒なのに、こんな長く話したこと今までなかった気がするね」
私たち――馨の発した何気ない単語が、献慈の心に尾を引いた。
「そう……かもね」
中学三年間同じクラスだっただけの、親しいとも言い切れない微妙な間柄だ。今だって知り合いのひとり、あるいは「宇野宮くん」の友だちに過ぎないのかもしれない。
だがそれでも、彼女の歴史の一部として記憶されていたことは、献慈にとって少しだけ救いになっていた。
いつしか吹奏楽部の練習の音も聞こえなくなっていた。思いがけず長い立ち話になっていたのを実感する。
どのぐらいの時が過ぎていたのだろう。
「……それじゃ、私そろそろ行くね」
「うん……俺も」
どちらからともなく――献慈は保健室へ、馨は体育館へ――同じ下り階段に足を踏み出す。
触れ合いそうになる肩から、かすかにベルガモットの香りが漂っていた。
「私、こっち……」
「……俺も」
ついつい顔を見合わせる。
「…………」
「…………」
「……一緒行こっか」
「…………うん」
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