第6章第3節「奇跡と不条理の選り好み」
「それじゃ、あたしはまだ仕事が残ってるから」
言って、コレットはソファーから立ち上がった。
「また後でね」
二人に手を振り、コレットはサロンから出ていってしまった。
「悪いやつじゃないんだ。ただちょっと馴れ馴れしいだけで」
「あ、大丈夫よ。……桜井くんこそ忙しかったわよね?」
後ろに回した両手の指を組み、澪は桜井に問いかける。
桜井は持っていたタブレット端末をテーブルに置いて両手を広げた。
「いや全然? まぁ、とりあえず座って話そう。な?」
座るように促され、澪は桜井の対面のソファーに座る。少し緊張しているのか座り方は浅い。
「体の方は大丈夫なのか?」
いきなりではあるが、桜井が一番気にかけていたことを聞く。彼女は超能力をオーバーヒートさせ、その後休みを入れずに博物館の戦いに身を投じた。自己犠牲の精神は桜井から見ても目に余るほどで、とても放っておけるものではない。
「おかげさまでね。まだ万全とは言えないけど、力も戻ってきたみたい」
忘れてはいけないことだが、彼女は超能力者だ。それゆえに力に大きな責任を感じていて、彼女の行動力の源にもなっている。
「よかった」
澪に元気が戻ってきたのは何よりだ。幾分か、表情も柔らかい気がする。
「そういうあなたは大丈夫なの?」
黒い太陽に呑み込まれた後だ。心配をかけてしまったことについては十分に理解している。
「俺は平気だよ。とりあえず、仕事も終わったし」
一連の事件は終わった。まだ復興できていない部分もあるが、当面の脅威は去ったと言っていいだろう。もちろん、彼一人の力ではなく澪を含めた仲間たちのおかげだ。
彼らはお互いに借りを作ったが、中でも桜井と澪の間にできたものは特別だった。
「無事にって言っていいか分からないけど、あなたも私も生き延びることができてよかったわ。あなたに言わせれば、私は博物館であなたを犠牲にしたようなものよ」
「それはお互い様、だろ?」
澪の言い分は尤もで桜井としても反論できないが、彼はうまい具合にかわしてみせた。かわしたと言っても二人は共に穏やかで、この時間を迎えられたことに安心を感じている。
テラスで話した時はお互いに警戒していたが、研究所や博物館を経た今はその壁は感じられない。あの時よりも、桜井は澪のことを知ったし、澪は桜井のそばで彼を見てきた。桜井は澪の告白と犠牲を受けてから、彼女を支えるように努めている。そのことについて、彼女は桜井に感謝の気持ちを抱いていた。
「その……、今回のことはありがとう。色々と面倒なことに巻き込んじゃったわよね」
改めてその気持ちを伝える。とはいえ、そこには反省の念も見て取れた。
「こちらこそ。君には何回も助けられたよ、ありがとう」
彼と向き合おうと目を合わせていたが、少し逸らしてしまう。以前までなら当然のことと否定していたところだがすぐに否定しなかったのは、おそらく澪なりに気持ちと向き合おうとしているのだろう。彼女の反応を伺いつつ、桜井は続ける。
「もし、今後何かあったとしても、俺じゃなくてもいいから頼ってくれ。さっきのコレットやあそこにいる蓮美も、きっと力になってくれるから」
澪は優しく自立した女性だ。たとえ自らの意思で抱えたわけではなくとも、一度抱えた責務は必ず果たすだけの覚悟がある。それも彼女の性格ゆえだが、それが悪いわけではない。誰かが彼女を支えてあげなくてはいけないのだ。彼女は超能力者だから助けはいらないとか、超能力者の力になりたいなんて烏滸がましい、そんなものは関係なく。
「……えぇ。頼りにしてるわ」
でも、と澪は付け加える。
「知っての通り、私は超能力者よ。これからは私も力になりたいの。あなたが私の力になってくれたみたいに、私もあなたの力になるわ」
全てが片付いた今でも、彼女は超能力者であることの責任を重く受け止めている。加えて言えば、科学の為に生きてきた数年はそう簡単に捨て去れるものではない。博士がいなくなったとはいっても、因縁がすぐに断ち切れるわけでもない。桜井もそのことは重々承知している。
さらには、責任を庇い受けた桜井に対しても恩義を持つ。博物館で彼女は桜井を犠牲に払うことを良しとした。彼女の言い分は桜井の意志に沿ったものでもある。
「あの時は大口を叩いたけど、やっぱり君には敵わないな」
「あなたのおかげよ、桜井くん」
研究所や博物館でも垣間見た通り、澪は芯が強い女性だ。その小さな肩には重い宿命がかかっており、桜井はその内のほんの一部分を支えている。彼にはそれが精一杯だったが、澪にとってはかなり楽に感じていた。それまで一人で背負っていた重荷を二人で持てば、少なからず楽になるものだ。
「これまでは超能力者として科学の為に生きてきて、命を捧げるつもりでいたわ。でもあなたが自分を大切にしろって、言ってくれたでしょ? だから、もう科学の為に生きるのはやめようって思うの。これからは自分らしく生きてみたいから」
澪は実際に科学の為に自らを犠牲にした。だが彼女の表情は前向きで、科学というしがらみから解き放たれたかのよう。それは彼女が自らの手でケリをつけたからこそであり、桜井からの言葉を受けたからでもあった。
澪の心には安らかな余裕が生まれ、長い間押し殺してきた本当の自分に寄り添おうとしている。穏やかな口調で、柔らかな微笑みを浮かべて、自らの心を慈しむ。
そんな彼女を、桜井は初めて見た。だがこれこそ、本来の彼女のあるべき姿ともいえるだろう。
「そうすると良い。ちょっとでも役に立てたんならよかった。俺なんかが超能力者の力になりたいなんて、烏滸がましいくらいなのに」
へりくだる桜井に対し、澪はすぐに肩を取り持とうとはしなかった。ただ、彼を見つめる眼差しには以前までの疑惑の曇りはない。
「正直に言うとね、研究所ではあなたのことを信じきれなかった。けど今ならあなたが言ってくれたことを信じられる気がするわ」
何せ、桜井は博物館で自らを犠牲に払って黒い太陽へ向かったのだ。新垣と澪が見ている目の前で、だ。彼は奇しくも澪と同じ行為を躊躇いもなくやってのけた。その事実は、彼が上辺だけで澪を支えようとしたわけではないことを証明した。自分を犠牲にすることを躊躇わないからこそ、澪の行為にも理解を示すことができたのだろう。
「すぐに信じられなくても仕方ないさ。俺たちはまだ出会ったばかりだし」
桜井結都。彼についてまだ多くを知らないが、澪にとっては特別な人である。なぜなら、桜井と出会うよりも前に彼と出会っていたから。
「それにしても、なんだか不思議な感じね」
「ん?」
「あなたに出会うよりも前、ユレーラと何度か話したことがあるの。でも今はこうして、あなたと話してる。不思議と、出会ったばかりっていう気はしないの」
感慨深そうに桜井を見つめる澪。彼女の目には桜井とユレーラの面影が重なっていた。
桜井は少し驚いた表情を浮かべる。澪がユレーラと面識を持つというのは、彼女とフィラメント博士が協力していたことを考えれば自然だ。だがその事実が澪の口から語られたのは今が初めて。
いったいユレーラが澪に何を話したのか。澪はユレーラについて何か知っているのか。聞きたいことはあるが、ここはDSRのサロンである。周囲の職員に聞かれないよう、桜井は声を落として言う。
「あいつが俺の分身だっていうのは、多分本当だ」
黒い太陽の前で、桜井は澪と浅垣には真実を告白した。澪はそれを聞いて問い詰めたり反論したりもせず、彼を信じた。というより、フィラメント博士の推測があった以上信じざるを得なかった。だからこそ、彼女は桜井が犠牲になるのを止められなかった。
もちろん、桜井の言葉には証拠がない。フィラメント博士も推測しか立てられなかったように、桜井の分身が生まれる理由も分かっていない。それでも桜井が言うことなら確かなことなのだろうと、澪は納得していた。
「でもみんなには内緒にしておいてほしい。レリーフが俺の分身だったなんて教えれば、混乱させるだろうからさ」
事の真偽はともかくとして、それが広まるのが好ましいとは言い切れない。桜井が懸念する通りに様々な憶測が立ってしまうだろう。であるなら、しっかりとした証拠が見つかるまで秘密にしておくべきだ。
「分かったわ。約束する」
澪も桜井の考えに同調する。
「ありがとう。……本当に色々とな。君のおかげで助かったよ」
と、桜井は澪の方へ手を差し出した。彼女にはこれまで多くのことで助けられ、彼女がいなければ事を収束させられたかも分からない。桜井にとって、感謝してもしきれないだろう。
握手を求められた澪は少し驚くも、その気持ちに応えるべく彼の手を取った。
「こちらこそ」
改めて感謝と握手を交わす二人。これからは良好な関係を築いていけるだろう。レリーフの追跡で緊迫した状況下で話をすることもままならなかったが、今ならゆっくり話せるはずだ。超能力者としての荷を下ろして人と話をする。そんな日が来るとは、お互いが奇跡のように思えた。
「さてと」
そして、桜井はテーブルに置いていたタブレット端末を拾って立ち上がる。
「どこか行くの?」
「悪い、ちょっと用事を思い出した」
短く返事をして、桜井はサロンから出ていく。と、彼はその寸前で足を止めて言った。
「蓮美のカレー、食べてってくれよ。味は保証する」
今度こそ、桜井はどこかへ行ってしまう。澪は今になって魔剣デスペナルティのことを聞きそびれたのを思い出す。とはいえ今後はいつでも会えるのだから、結論を急ぐ必要もないだろう。
彼から意識を外し、澪が最初に感じたのはカレーの匂い。サロンの奥はキッチンになっていて、エプロンをした蓮美が料理をしている。話したことはないが、初めて見た時から彼女の印象は強いものだった。なぜなら、桜井を含めて成人した職員がほとんどの中、蓮美だけは高校生くらいの見た目だったのだ。
カレーの匂いに釣られるようにキッチンへ向かう澪。彼女はカウンターから覗き込んで、蓮美に声をかける。
「ねぇ、蓮美ちゃん、だよね。何か手伝おうか?」
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