第4章第9節「意志の在り処」
散乱した魔導器具や、今なお成長を続けていく草花。荒れ果てた研究所はもはや自然へと還されようとしていて、誰もここで死闘が繰り広げられたことを知れないだろう。
そんな廃墟と化した研究所で、桜井は取り落とした心を拾い立ち上がっていた。
彼の両手を拘束していたはずの魔法の手錠はない。澪の捨て身の攻撃のおかげで博士が倒れたせいで、魔法も効力を失ったのだろう。
桜井の表情は晴れやかではない。博士を打ち倒し自然の中に立つ姿は華々しいものだが、それは一人の犠牲によってもたらされた。
彼は草花の中に倒れていた澪のそばに腰を落とす。彼女は仰向けに倒れていて、細い手には緩やかに蔦が絡みつき、柔らかな頬を葉が撫でている。周囲には彼女を飾るかのように次々と小さな花が開き出す。あまりに穏やかな光景ではあるものの、それとは反して絶望的な状況だ。桜井は彼女の上体を起こして膝に抱きかかえた。
「……」
目覚める気配はなく、頭と口からは血液が静かに流れている。未だ淡い光を帯びた体も無事ではなく、傷だらけだ。意識を取り戻すかも分からず、桜井は自分の無力さに唇を噛む。
「……」
その時、彼はハッと前を見上げる。ドーナツ型の禁錮装置は博士と澪の間近から衝撃を受けたことで、二つに折れて崩れてしまっていた。装置の中央に浮いていた黄金の魔剣も、草花と瓦礫の山に刺さっている。超能力をオーバーヒートさせた澪による捨て身の攻撃で、博士の野望は潰えた──そう思った矢先。
空気中を漂っていた紅い光は微かながらも人影を作り出していた。それはレリーフと同じく人型となり、紅い粒子はフィラメント博士の姿を現す。
「ハハハ……まさか本当に魂さえあれば魔力に干渉できるとは。肉体はさして重要でない……そうか。やはりリュッツベル博士は正しかった。素晴らしい……」
魔法生命体として再誕した博士は最初こそ戸惑っていたが、すぐに興奮を隠しきれない様子で呟いた。
「暁烏澪……お前の肉体はあれほどの魔力にも耐えられるというのか」
肉声に、桜井は再び顔をあげた。甦る絶望を前に、彼は澪を抱き寄せて睨みを利かせる。
「超能力者は何人かこの目で見てきたが……やはり、お前こそ母胎となるに相応しい」
博士は不安定な体を揺らめかせ、澪へ近づこうとする。彼女を庇う桜井に語りかけながら。
「桜井結都。心臓も脳もいらなかったのだ。心はひとつのところに留まらないのだとようやく分かったよ。今から我が魂を暁烏澪の肉体に移し替え、仮説を実証してみせよう」
腕の中の澪に視線を落とすが、目覚めそうにない。身を挺してまで博士を止めようとした彼女のためにすべきことは分かる。桜井は意を決して顔を上げた。
「させるかよ。この体はお前のものじゃない」
抱えていた澪を草花の生えた地面へ寝かせ、後頭部に手を添えて優しく頭を置く。それから桜井はカラフルな火花と共に剣を喚び出して立ち上がる。しかし、桜井は博士の肩越しにその背後で信じられないものを見た。
崩れた禁錮装置。積み上がった瓦礫の上に刺さっていたはずの黄金の剣が震え出し宙へ浮いていたのだ。剣の周囲は空間が歪んでいるのか複雑にヒビ割れ、白黒の光が入り乱れている。突如として剣がひとりでに飛び出すと、博士の背中を貫かんと矢の如くスピードで進む。
博士は魔剣の存在を察知したのか、すぐさま体を翻して両腕で魔法陣の盾を作って防ぐ。神話に登場する魔剣の一撃すらも防いだことに感動した博士は笑うが、転じて焦りを滲ませる。
魔法の肉体を得た博士は魔力を意のままに操り、魔剣の一撃をも防いでいた。そのはずが、完全なる魔法陣の盾には徐々に亀裂が走り始め、魔剣は今にも食い破ろうとしていた。
そして、魔剣からは白黒の火花が飛び散り、桜井結都と同じ姿をしたユレーラが現れる。彼は魔剣をゆっくりと握り込み、憔悴しきった博士を見やる。
「まさか魂だけで我が究極の魔法を超えようというのか……!」
博士は澪の力であればユレーラをもコントロールできると語った。今、博士は超能力者の力そのものの肉体を得たが、その結果はどうだろうか。
ユレーラをコントロールするどころか、博士の力は削り取られていく。博士の顔色は生気を失い、ついには骸骨だけになってしまった。それでなお立ち続け魔法の盾で抵抗する博士を見て、ユレーラはわずかに微笑んだ。
「科学は必然を引き起こすが、意志は奇跡を引き起こす。奇跡は科学では起こせないものだろう?」
白骨化した腕や脚はとうとう耐えきれずに塵へ還り、博士は顎の骨を落とす。そして最後には、ぽっかりと虚しく空いた暗い眼窩さえも塵となって消えた。
黄金の魔剣デスペナルティを取り返したユレーラは、服についた博士の塵を手で払いつつ踵を返す。
「お、おい! どこへ行くつもりだ?」
桜井の呼びかけに、ユレーラは足を止める。そしてこちらを振り向かずに伝えた。
「世界の可能性が眠る場所。そこで全てを現実に変えてやろう」
言うと、ユレーラは割れたガラスのように歪んだ空間の中へと消えてしまった。直後、空間の亀裂は結び付けられてしまい、後を追うことは叶わなかった。
全てが終わったと思っていた桜井の前に再び姿を現したユレーラ。彼を追いかけなくてはならない。まだ、何も終わってはいないのだ。
問題は言い残した場所がどこを指しているのか。桜井が考えようとしたその時、
「……世界魔法史博物館のことね。あそこは、世界中のありとあらゆる魔具を集めた場所……」
言いながら起き上がっていたのは、足元で倒れていた澪だ。意識を取り戻して会話を聞いていたらしく、彼女は腹部を押さえて立ち上がろうとしている。
「大丈夫なのか?」
「平気よ」
支えようと屈んだ桜井に大丈夫だと言い張る澪。だが、彼女はフラつき今にも倒れそうだ。
「あなたも無事みたいね。よかっ……」
ようやく立ち上がった直後、澪は内股でこらえていた足を崩し倒れてしまう。
「おっと。……大丈夫?」
「えぇ」
桜井に受け止められた澪は気まずそうに視線を逸らしつつも相槌を打つ。
彼の腕に寄りかかって床に膝をつく澪は、俯きながらも深呼吸をする。立ち上がることもままならない状態だが、彼女も無理に立ちあがろうとせずに座り込む。ひとまず意識が戻ったことに桜井は胸を撫で下ろした。
「もう目を覚まさないんじゃないかと思ったよ」
澪自身も、自分がまだ生きていることには驚いていた。今も彼女の手や顔の血管には淡い光が鈍く焼き付き、文字通り命を削ったのだ。
「博士を止めるためなら私の体がどうなろうと構わないわ。ここまで力を使い果たしたのは初めてだけど、きっと無意識に限界の一歩手前でセーブをかけちゃったみたいね」
自分で息を止めても意識を失うまでに耐えきれないことと同じように、生存本能が働いていたのだろう。それでも彼女の覚悟は本物であったし、桜井は改めてそのことに気づかされた。
「……そうか」
桜井は自分の胸と腕に寄りかかる澪に視線をおろす。彼女は支えがなければ満足に座れもしないほど衰弱しきっている。そこまでの代価を払った彼女に、桜井は自分にできることがないか考えを巡らす。
「犠牲を払うことを咎める資格は俺にはない。他に手段があったかどうかも分からない。だけどいくら君が超能力者でも、君にとっては理不尽な選択だったはずだ。だからこうして君が生きててくれて、本当によかった」
澪は自らを犠牲にすることを選んだが、桜井はそれを尊重した。彼女とて容易く決断を下せたわけではない。桜井は彼女の過去を知らないなりに、支えた体から伝わる重さに彼女の決断を感じ取っていた。そしてその決断を下して、生きていられるのは奇跡に近いと言って過言ではないだろう。
ゆっくりと息を継いでいき、段々と苦しさが軽くなっていく。奇跡的に拾うことができた命を抱え込むように体を丸めていた澪は、ようやく桜井から少し離れた。
博士の息の根を止めることを決意した時には、こうして生き残ることができるとは思っていなかった。彼女は自分の手で床に手をつき、なんとか自分だけで上体を起こす。まだ両手で踏ん張っているが、上目気味に桜井を見る。
「その、……ありがとう。こんな私を助けてくれて」
これまでの澪に比べれば、桜井が彼女にしたことは助けの内にも入らないだろう。実際、桜井は大きな役に立っていたとは言えない。それは彼自身がよく分かっていた。
「いや、あんまり役に立てなかった気がする」
「でも、さっき私を庇ってくれたじゃない」
実際に助けたかどうかはともかくとして、彼は澪を守ろうとした。あの時の澪は声しか聞こえていなかったが、その姿勢は確かに伝わっていた。
「だとしても、当然のことをしただけさ」
意図してかそうでないか、桜井は澪の言葉を借りた。そこに、彼女にとっては少なくとも大きな意味があった。
「……超能力者なのに情けないわね」
申し訳なさそうに呟く澪は、地面についていた指で自身が生み出した草花を撫でた。それを見た桜井は彼女が自分を責めているのではないかと直感的に思う。
博士を倒してなお、彼女の気持ちは晴れていない。それどころか一層曇るばかり。つまりその根本的原因は博士ではなく、彼女自身にある。もちろん、桜井がそう思ったのは単なる勘であり、なんと言葉をかけるべきかも分からない。
ただ分かるのは、責任を持つべきは彼女ではないということだけ。
「……こっちこそ、すまなかった」
もっと言えば、桜井自身が責任を負う──彼はそうすべきだと考えていた。
「君が戦っている間、俺は何もできずただ見ているしかできなかった」
フィラメント博士が桜井を魔法の手錠で拘束してから、彼は一切の身動きを封じられていた。澪が博士と戦っている時も彼女を手助けすることさえできなかったのだ。
不甲斐なさを恥じる桜井だったが、澪は変わらず責任を背負おうとした。
「…………自分で始めたことは自分で終わらせるべきよ。あなたが謝ることじゃないわ」
「そうかもしれない」
確かに澪とフィラメント博士の間には、桜井が介入する余地のない問題が積まれている。だが奇しくも、二人は桜井に似たレリーフであるユレーラを研究し、桜井は博士と対峙することになった。とはいえ澪は自らの宿命を果たすべく、自分を犠牲にして博士を倒した。桜井の見ている目の前で、だ。
自らの宿命を果たしたことは間違いではないし、桜井が否定できる道理もない。澪の言う通り、責任は彼女だけが背負えばよかっただろう。
「けど、もし君が目を覚まさなかったら、俺は君のことを一生後悔すると思う」
そう。桜井は宿命を果たした澪の隣にいて、彼女の虹色の瞳を見つめている。彼女が胸の内に抱えている責任を見透かし、そっと触れるようにして。
「君は良い人だ。超能力者としての責務があったとしても、自分を犠牲にするなんて到底できない。それでもそうすることができたのは、君が超能力者だからじゃない。暁烏だからできたんだ」
超能力者としての責務。それは澪の人生に常に付きまとうものであり、原動力である。だがそれを背負っているのは他でもない暁烏澪であり、超能力者ゆえに押し殺した本当の自分。
澪は自分を犠牲にした。フィラメント博士を倒すため。それ以前には、超能力者であるために本当の自分を犠牲に払っていたのだ。
「今回は奇跡的に助かったからといって、君がしたことをなかったことにはできない。君はもっと自分を大切にした方がいい」
「……え?」
二度の犠牲に伴う責任は、一つしか命のない人間が背負うにはあまりに重い。仮に奇跡的に犠牲を払わずに済んだとしても、犠牲を払おうとしたことに変わりはない。
「暁烏、君は自分を犠牲にしたんじゃない」
しかし偶然にも、桜井は犠牲を看過した。つまり、
「一緒にいた俺が君を犠牲にした。世界に九人しかいない超能力者をじゃない。世界にたった一人しかいない、君をだ」
慰めを求めていたわけではない。自分が払うべき犠牲は当然だと考えていた。そうした考えを否定することなく、桜井はただ都合だけを変えた。
都合のいい見方では現実は変わらないものの、見える可能性は異なる。その可能性は少なくとも、澪にとって救いになっていた。
「その責任は俺に取らせてくれ。もう君だけが責任を負う必要はない」
澪は自分自身が超能力者であることにはプライドも責任も持っている。だからこそ、本当の自分自身については蔑ろにする節があった。なぜなら、自分は超能力者だから。超能力者である限り、認めてもらえる。超能力者でない自分に、価値なんてない。そう思い込んでいたから。
そんな時、桜井は押し殺していた澪自身を揺り起こしてくれた。ひとり犠牲を払い続けていた彼女を支え、その責任を手伝おうとしてくれたのだ。
「悪い……ちょっと言い過ぎたな」
ううん、と澪は首を横に振る。いつしか、命の危険に晒されていたはずの心臓も、トクン、トクンと確かな脈を打ち始めていた。温かで、心地の良い鼓動を。
「少しびっくりしただけ。ただ、そんなふうに言ってくれるなんて思ってもみなかったから」
超能力者として長い時を生きてきた澪にとって、本当の自分に触れられるのは久しぶりのこと。その感覚は懐かしく心が穏やかに落ち着くような気がした。
「……しつこいかもしれないけど、君は悪くない。だからこそ、君の力を悪用させるわけにもいかない。その間違いを正すためなら、俺も協力するよ」
言って、桜井は澪の肩に優しく触れた。
「さて、とりあえず本部に戻ろう。ここにいてもしょうがないしな」
本部へ戻って準備を整える。満身創痍の状態ではレリーフを追うこともままならないだろう。
言って、彼はしゃがんで澪へ背中を向ける。いわゆる、背中に誰かを担ごうとする格好で。
「何してるの?」
桜井の様子にもしやと思いながら問いかけると、予想通りの返事が返ってきた。
「何って、車まで運んでやるって。そんなんじゃロクに歩けないだろ」
澪は超能力をオーバーヒートさせたことで限界まで体力を消耗している。生命があるだけ幸運とも言える状態だ。とはいえ動悸も落ち着き、歩くことくらいはできると思っていた。
「一人で歩けるってば」
内心に、恥ずかしいからという理由は隠す。歩けることを証明するために、澪はゆっくりと立ち上がる。しかし、足に思ったように力が入らずすぐに地べたへ座り込んでしまった。
「ほらな」
言わんこっちゃない。そんなため息を吐く桜井の顔を見ることもできなかった。困り眉でむすっと口元を締めていると、より驚くべきことが起きた。
「まったく」
桜井は小さく呟くと、澪の足を起こして膝裏へ手を入れてから背中を支えて抱き上げたのだ。
「ちょ、ちょっと!?」
突然のことにあわあわとする澪だったが、桜井はお構いなしに彼女を抱えて連れて行く。
「助けてくれてありがとな。これはそのお礼」
「…………調子のいい人」
先ほどまでの意気地はどこへやら。桜井の腕の中でほんのりと顔を赤らめた澪は、素直に背中に乗ればよかったと後悔する。
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