第1章第3節「現実になりゆくあり得ない可能性」

 ラストリゾートのN2セクターに広がるホログラム街は、『魔胞侵食まほうしんしょく』によりロックダウンされた。区画全体がロックダウンされるほどの規模の侵食は前代未聞であり、メディアはこれを大々的に取り上げることになるだろう。ロックダウン中は関係者以外の立ち入りは禁止され、DSRによる『滅菌』が行われる際には完全な無人となる。『滅菌』は午前六時頃の明け方に行われる予定で、人々の活動が活発化する前に済まされる寸法だ。

 そんなもう間も無く滅菌が開始される時間帯。地上から伸びる蔦が絡まった十階建ての高層ビルの屋上で、とある女性がくつろいでいた。

 水溜りのできた屋上には車止めとして使われることの多い銀色のアーチ状ポールが等間隔に並んでいる。おそらくは滑落防止や区切りのための役割を持つのだろうが、彼女はそこに一人腰かけていた。イヤホンをして音楽を聞き缶コーヒーを飲みながら、屋上からの景色を眺めて。

 深夜に降っていた雨はすっかり上がり、青空は朝焼けに染まっている。輝く星々や揺蕩う星雲、虹色のオーロラは依然として空を彩っており、ラストリゾートらしい景観を鮮やかに彩る。これらの現象は全て魔力──魔導粒子ユレーナに由来するものであり、本来の星雲やオーロラとは本質的に異なる現象だ。厳密に言えば、空気中の魔力の塵の発光現象とされているが、ほとんどの人にとっては常識となっている。

 天は魔力の星々が輝き、地は魔力の花が芽吹く。魔法が一般化した文明において、自然環境もまた大きな影響を受けている。

 そうした光景に感嘆するとも憂るとも取れる表情を浮かべ、彼女──暁烏澪あけがらすみおは缶コーヒーの残りを飲み干した。続けてイヤホンを外すと、ガードポールからすっと立ち上がる。

 黒髪を肩にかかるほど伸ばし、胸元に黒い紐のリボンがついたブラウスは裾が燕尾服のように長く、ショートパンツを隠すようになっている。そのせいか、後ろからだとスカートのようにも見えた。

 彼女はイヤホンを外し、自然に侵された街を眺めながら背伸びをする。一息つくとポケットから携帯を取り出し、着信のあったメッセージを再生。

『DSRは間もなく滅菌を開始する。滅菌が完了するまでに、黄金の魔剣を回収してほしい。今回の魔胞侵食の原因を究明する為の唯一の手がかりだ』

 ちょうどその時、ホログラム街の端から火の手が上がり始めた。一見すると火災に見えるかもしれないが、あの炎は魔力由来の植物だけを燃焼させる特殊な効能を持つ。ゆえに、都市部を侵食する草木だけを燃やすことができるのだ。DSRはこの炎を用いた消毒作業を『滅菌』と呼んでいる。

 街に広がる炎を静観するみおだったが、街全体を滅菌することは未だかつてないこと。ここまで大規模な炎を見るのは初めてのことで、彼女も少しの間だけ目を奪われていた。

 しかし、滅菌が開始されたということは澪が立つ場所にも炎が迫ってくることを意味する。あの炎に触れても人間に害はないとされているが、進んで炎に飛び込むのは愚かだ。滅菌の炎が迫る前に彼女は彼女の目的を果たさねばならない。

 屋上の縁には地上から伸びてきたであろう蔦が顔を出し始める。澪はそれを見つけると、空き缶を持ったまま屋上の縁へ近づく。

 植物の蔦は澪が立つビル全体を包み込み、今まさに丸呑みにするところだ。屋上に触れ更なる広がりを見せる植物の蔦を掴むと、彼女は蔦を握って屋上から躊躇なく足を外す。

 蔦を握る彼女の手元が光り、するすると地上へ滑り落ちていく。十階もの高さを蔦で滑り降りた澪は、ごく自然に歩き出した。手元には傷ひとつなく、歩く彼女の足元には続々と花が開いていく。その様はまるで森に住むプリンセスのようだ。

 通りにある信号や車はやはり植物に絡め取られていて、数時間前まで人々が暮らしていたとは思えない風景が広がる。咲いている花に注目してみれば、黒いチューリップやオレンジに光る花など本来なら自然界に存在しないものであることが窺える。もちろん新種というよりも、魔力由来の未確認生物といった方が正しいだろう。

 澪は苔の生えた自動販売機を見つけると立ち寄り、横に設置されたゴミ箱へ空き缶を捨てていく。無秩序に繁栄する草木たちもいずれは滅菌の炎に焼き払われ、人々の日常が戻る。だからこそ、彼女は自然に還りつつある場所に身を置きながらも立ち振る舞いは日常のままだ。

 驚くべきことに、この超常現象は植物だけを生むわけではない。魔法生命体と呼ばれる存在が生み落とされることも、さして珍しいことではなかった。もっと言えば、それは魔法生命体レリーフに限ったものでもない。

 街の奥へ進むに連れて緑が深まっていき、未確認生物たちが姿を現す。

 低空を揺蕩うように浮遊していたのは透明なクラゲ。大きさは大小様々で、指の腹に乗るくらいに小さな個体もいる。さらに澪の前を横切ったのは三対のヒレを持つ軟体動物だ。空中を遊泳し草の生えたアスファルトを這う姿は、ナメクジやウミウシに近いだろうか。他にも澪の瞳と同じ虹色の翅を持った蝶が飛んでいたりと、魔法が築く新たな生態系が人類文明である街を支配していた。

 それらの未確認生物たちを横目に、澪はパラダイススクエアへと到着する。

 DSRがいた時よりも多くの植物が地面やホログラム看板、建物などの全てを緑に塗り潰してしまっていた。そんな繁華街の面影が残る交差点の中心には、大きな水溜まりができていた。雨上がりにできたものだろうが、その水面は不自然に脈を打っている。

 さざなみに気づいた澪は目を細め、水溜りの中へ足を踏み入れた。澪の足が生んださざなみと脈が重なり、大きく揺らぐ水面。その中に、黄金の魔剣が反射しているのを見つけた。

「…………見つけた」

 澪の視界における水溜りの上には、何も見えていない。しかし反射する水溜りの向こう側には確かに黄金の魔剣が突き刺さっている。

 それは孔雀の羽を思い起こさせる特徴的な意匠を持つ。柄の部分が孔雀の羽模様における目玉の部分とすれば、鍔から柄を覆うように伸びる複数のナックルガードは毛先のよう。

 彼女は反射する美しい魔剣のもとまで来ると、水溜りの中を見ながら手を伸ばした。本来なら黄金の魔剣がある空間、その柄を握ろうとして虚空を掴む。

 すると、澪の伸ばした右手を中心に白と黒の光が迸り、空間の色彩が一瞬にして失われる。白黒の空間は魔剣の形を浮き彫りにしたかと思うと、澪の右手へ虹色の光となって吸い込まれていった。

「…………」

 驚いた様子の彼女は自分の右手を左手で包み込む。足元の水溜まりには、既に魔剣は反射していない。ひとまず目的を果たせたことを確認したのか、踵を返してその場から立ち去った。彼女がパラダイススクエアの水溜りから出る、その時。

 魔剣を抜き去った水溜りから歪みが生じ、水面が不自然に膨れ上がった。水の膨らみは人一人分の大きさになると、複数の地点で同じ現象が連なった。まるで水溜まりそのものが意志を持ったかのように。

 膨張した水はついに紫色の光を放つ神経を内側に滲ませ、人型を形作っていく。

 この超自然的現象に気づいたのか、澪は歩みを止めた。決して後ろを振り返ったりはせず、彼女はただ起きている異常を敏感に感じ取る。

 そうしている間にも、水溜まりはすぐに魔法生命体レリーフとしての姿を持つ。魔法に由来する未確認生物たちの中には、当然レリーフもまた含まれている。特に、レリーフは人型で人間に危害を及ぼすことで知られていた。だからこそ、こうした事態は澪にとって想定内であった。

 背中を晒して立ち尽くす澪に対し、レリーフたちは水でできた手を刃状へ変貌させる。高い水圧を伴わない限り水が鋭利な刃になることはないが、彼らは魔力によってそれを可能にする。

 水でできた眼窩に紫色の光を灯し、澪の背中を見据えて駆け出す。水飛沫をあげて距離を詰めたレリーフが、刃で彼女の背中を引き裂かんと振りかぶる。

 その時、澪は颯爽と振り返り吐き捨てるように言った。


「目障りだわ」


 彼女の手に呼び寄せられていた光は、レリーフの肉体を構成するものと同じ魔力。そのより強い魔力を集約させたまま、彼女は裏拳を振るう。自身を狙う刃を弾くようにして。

 普通なら、澪の細い腕ごと斬り伏せられてしまうところだがそうはならない。裏拳はレリーフの刃と化した腕に衝突すると激しい火花を散らして弾き返して見せた。大きく怯まされて退くレリーフに対し、澪はただ右手をかざす。すると彼女の手と水溜りから現れた複数のレリーフたちとの間に光の糸が引かれる。赤と青の光が絡み合った糸はレリーフたちの体内にある紫色の神経と繋がり、一切の抵抗ができない。

 レリーフが発する光とは異なり、澪が発する光は虹色に輝いている。レリーフたちの体内に通う紫色の光に干渉したそれは、彼女の魔力が持つ虹色に染め抜く。

 そうして澪が手のひらを返すと、繋げられた光の糸を通してレリーフたちが吸い込まれていった。肉体を作っていた水は光る水飛沫となって澪の手元へ吸い寄せられる。

 やがて全てのレリーフたちが澪の手元へ集まると、彼女は右手を握り込む。そのまま左手を添えると口元へ持っていき、手のひらを開いてそっと息を吹きかけた。その仕草はさながらたんぽぽの綿毛を飛ばすかのようだった。

 実際には、手の中で圧縮されたレリーフが霧となって散らされ、虹の橋をかける。彼女の瞳と同じ、美しい七色を持つ虹を。

 あっという間にレリーフを片付けた彼女は、今度こそ立ち去ろうとする。だが数歩歩いた後に、右手に異変があることに気づいた。

 見ると、彼女の右手からは白黒の火花が出ており、彼女の意志とは何ら関係のないもの。不思議に思った彼女が首を傾げると、次第に火花の勢いが強まっていく。

「……!」

 突如として制御のできない現象に見舞われ、澪は勢いのまま右手を伸ばした。

 噴き出し花火の如く勢いとなった白黒の火花は、何かを生み出す。澪の右手からは腕の骨が現れ、白黒の火花は骸骨を織りなした。彼女と手を繋ぐ形で現れた骸骨は次いで、全身を再び白黒の霧で覆っていく。それは肉体と皮膚、そして服までも再現。剥き出しの骨格に粘土で肉体を張り付けるような現象に、澪は目を丸くすることしか出来ずにいた。

 目の前で起きる超常現象の末、澪の手を握る人物が男性であることが分かった。レリーフが人型を真似るのは言うまでもないが、目の前の男は人間そっくりだ。ここまで純粋な人間に近い姿を取ること自体が驚きだが、このレリーフはいったい何者なのか。皆目見当もつかずにいると、目の前のレリーフ──と目が合った。

「失礼」

 澪と繋いだ手を離しながら、彼はあくまで紳士的に言う。

「君がいなければどうなっていたことか、助かったよ」

 あろうことか、彼は言葉を発した。喋れることが当然であるかのように、知能を持つのが当然であるかのように。

「言葉が分かるの?」

 戸惑う澪の問いかけに、彼は「もちろん」とだけ答えて周囲を見回す。

 彼がただのレリーフでないことは間違いない。ワイシャツの上に着用するジャケットはDSR製のものだが、DSRとの関連性を認めるのは些か性急だ。この場にいた可能性の高いDSRエージェントを真似たというのも考えられるだろう。

 そうこう考えていると、彼は背を向けて周囲を見ながら口を開いた。

「しばらく見ない間に、この世界にも随分と魔力が浸透したようだな」

 彼の口ぶりは世界の行く末を嘆かわしく感じさせるもの。

 パラダイススクエアを中心とするホログラム街は、魔胞侵食による緑化が進んでいる。二人の周囲の廃墟的な景観は決して一般的でないとはいえ、この異常な環境だからこそ目の前の男の存在が成り立ってもいた。

「えぇそうね。あなたみたいに言葉を話せるレリーフまで現れるなんて」

 人類は魔法を科学的に解明し有益なことのために利用してきたが、不利益を被ることも少なくない。特に、都市を侵食する植物や魔法生命体レリーフの出現は危害の及ぶもの。その上、目の前の男はレリーフでありながら対話できる。

 そんな状況で聞くことといえば、一つしかない。

「何が目的?」

 警戒の姿勢を緩めず、澪は刺々しく問う。相手は魔法生命体レリーフであり、根本的に人間とは異なる。彼らの目的や意志が何であれ、気を許していい相手ではない。

 しかし、男は澪の警戒を気取るでもなく、背を向けたままで重く呟いた。

「この世界には魔力が満ち溢れている。あってはならないことだ。私は君たちにそれを伝えに来た」

 何やら己の使命めいたものを語っているらしい。もし彼の言葉が本当ならば、魔法そのものが人類に警告をしにきたと言うのだろうか。魔法を使ってはいけない、と。

 まだ彼の言葉を信じることはできない。澪はあくまで、魔法は既に人類の科学技術であることを前提にして、次のように反発した。

「大きなお世話ね。私たちはもうとっくに魔法を科学的に解明してコントロールする術を見つけているの。このラストリゾートだって、魔法がなければここまで発展することはできなかったわ」

 そう。大前提として、人類文明は魔法を科学的に解明した。その証拠に魔法産業革命が起き、魔法のライフラインに頼った都市ラストリゾートが開発されたのだ。もはや魔法と人類は切っても切り離せない。詰まるところ、人類は魔法の便利さも危険さも知り尽くしているといえるだろう。

「私はこの身を以ってその力の便利さと恐ろしさを知っている。そして、魔法がもたらす被害を食い止める方法もね」

 言い終わると、パラダイススクエアにも滅菌の炎が迫りつつあった。建物に絡んでいた植物の蔦や、アスファルトを引き裂いて咲く草花が悉く焼き払われていく。魔法による悪影響も、DSRのような専門機関の存在によって確実に対処されている。魔法生命体レリーフの出現も、魔胞侵食による緑化のような手に負えない事象も解決できるのだ。

 周囲の様子に目線を取られていた澪だったが、滅菌の炎を見ていたのは目の前のレリーフも同じ。そのことに気づいた彼女は、彼の顔色を窺いつつ言葉を投げかけた。

「見れば分かるでしょ? 魔法を食い止める手段なんてとっくに持ってるの。それでももし誰かが過ちを犯すようなら、私がこの手で制裁するわ。手遅れになる前に」

 もしも、本当の意味で手に負えないことが起きたら、彼女自らがケリをつける。そう言い切る彼女には、絶対的な自信とそれを実現できる実力も備わっていた。

「いいや」

 だが、目の前のレリーフは説得されない。彼は燃え盛る滅菌の炎を眺めて言う。

 そして、改めて澪と目線を合わせてから理解し難い事実を告げた。

 言葉に面食らう澪だったが、二人には時間が残されていない。

「もうすぐあなたはこの場所もろとも滅菌されるわ。何ができるっていうの?」

 滅菌の炎は徐々にその勢いを増していき、二人のすぐそばまで燃え広がっている。人間である澪はともかく純粋な魔法生命体である彼が炎に晒されれば無事では済まない。そのことを知ってか知らずか、男は澪へ手を差し伸べた。

「過ちを正す。君も、手伝ってくれるかな?」

 受け入れ難いことに、彼は澪に助けを求めてきた。彼の言葉こそ彼の言う使命を全うしようとする断固とした志が垣間見えるが、差し出された手はそういうことだ。おそらく、澪が手を拒めば彼は滅菌を逃れることができない。

 そう。澪には助けを拒み、終わりにすることができた。

「誰かが過ちを犯せば、君が制裁するのだろう?」

 しばらく逡巡していた澪の背中を押すような声。迫り来る滅菌の炎に照らされ、存亡を危ぶまれてなおも毅然とした男の横顔。

 気がついた時には、彼女は彼の差し出された手を握っていた。瞬く間に男の肉体は白と黒の火花となって澪の右手へ収束。黄金の魔剣の姿へと戻った。

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