神有月 ワルツ

 夕暮れが西に始まり、東の空から闇がやってくる。バスの窓から、通り沿いに灯りが灯り始め、家路に向かうような人々の歩みが見える。

 無限にある他人の生活の一コマで二度とすれ違うこともない。

 最後部の座席で街の景色を眺めながら、僕はかつて暮らしていた頃の記憶と現在の姿を重ね合わせていた。二枚の写真のずれで両眼視りょうがんしに奥行きを見せるようなステレオグラムの仕掛けを、時間の流れに置き換えて頭の中に描く……。

 バスの中には前の方の座席に客が一人。高齢の男性で帽子にベストを着てカメラを持っているらしい。多分、この先の宵宮よいみやに向かうのだろう、だとしたら同じ停留所で降りることになりそうだ。

 路線バスは商店街に入った。

 扮装をした子供たちが歩道を歩いている。女の子たちは黒を基調に、オレンジと紫があしらわれた魔法使いの衣装を着て、男の子は漫画やアニメのヒーローの装いらしものが見える。


 数人の子供たちのグループがこのバスを指差し歓声をあげている。十月シーズンに合わせた、ハロウィン・デザインを車体にラッピングしたバスなのだ。子供から大人まで人気の猫のキャラクターがハロウィンの仮装をし、紫とオレンジと黒の背景に飛び回っている。ハロウィンらしく、死霊や妖精がこれから街に入り、仮装した子供らに紛れて夜に漂うのだろう。

 バスに追い越される仮装した子供一団の中に一人、作り物のカボチャを被り三角の目鼻に口を大きな三日月型にして笑うジャックオーランタンの仮面を被った子供がいた。

 何とは無しに見ていて、無意識にメロディを口ずさんでいた。何の曲かを思い出す前にフレーズが自然に出た。


Wo bist duぼぉ びすと どぅ?

Wo bist duぼぉ びすと どぅ , von gesternふぉん げすたん , duどぅ?


 ドイツ語の歌詞だ。何の歌だったか。

 ……武満徹の『ワルツ』。映画『他人の顔』の挿入歌だ。


  まなかいに見る 君のかんばせ

  だがもう君だとは 見分けられない

  君はどこに行ってしまった

  君はどこに 昨日までの君は


 事故で顔に火傷やけどを負い自分の顔を失った男が、医師に造られた架空の仮面を被り他人の顔を手に入れる。映画では「仮面を被った男」を仲代達矢が素顔で演じている。仮面を被らず特殊メイクもせずに仮面を演じる奇妙な逆説を面白く感じたものだった。

 バスが止まりトートバッグを抱えた女性が後部ドアから乗り込んでくる。車内を歩き僕のいる一番後ろの座席まで来る手前の席に腰をおろしかけ、互いに目が合った。『あ』と声が出た。お互いに誰なのかはその場で分かった。

 かつて、僕がこの街にいた頃、交際していた麻美あさみだった。

 少し戸惑った後、僕と同じ並びの最後部の座席に座り直した。それを待ったようにバスが発車した。


 麻美はこちらを見、何か言いかけて止まり、前方の席の客の方を伺った。

 そして口を閉じたまま、バックからスマホを出し、文字入力して画面をこちらに見せた。

『久しぶり』

 メモアプリを使っての筆談だった。こちらは持ってないので、声を落としながら言葉少なく表情交じりで答える。……

「本当に久しぶりだね」

『宵宮』『秋祭りに来たの』

「そう」

『わたしがわかった』

「うん わかった 面影がある」

『もうおばさんでびっくりしたでしょ』『結婚してね 娘が一人いたのが 大学で 一人暮らし』

「そうなのか 本当に良かった」

『ここも随分変わってしまったでしょう』

「どこもそんなものだけど 時間は経ってしまうものだからね 宵宮はどうだろう 昔一度 一緒に行ったけれどあの時と同じなのかな」


 麻美の表情が曇った。軽い思い出話のつもりだったが、今は別の男性と結婚もし家庭を持ってる相手に、こんなことは言うべきではなかったかと思い、びようとした。

『ごめんなさい』

 彼女の方が謝って来た。意味が分からない。麻美は入力を躊躇ためらっていたが、決意したように続けた。

『あなたに 言いたい事が』『あなたをだましていたこと』『ずっと謝りたかった』

 切れ切れに見せてくるが僕には彼女に何かされた事などまるで思い当たらない。そして続きに僕は言葉を失くした。

『私はあなたと宵宮に行ったことがない』


  □□□□□


 この街に住んでいた高校生の頃。僕は同じ高校に通っていた麻美から交際を申し込まれ付き合うことになった。


 彼女はこの街よりも奥の西に住み、バス通学で時折同じ車に乗り合わせた時もあったと思う。初めてのガールフレンドで、僕は他愛なく舞い上がったのを覚えている。あまり外交的じゃなかった十代、デートをしたい気持ちと顔見知りに見られたくないような気持ちもありつつ、進路に頭を悩ませ、思うほど限りのあるわけも無かった時間を費やしていた。


 最後の年の十月だったか。麻美の方から秋祭りの宵宮に一緒に行きたいと言って来た。普段は積極的な性格ではないのに、時々強引にも思えるそぶりを見せたりしてきたのだけど、何故かこの時は特に強い要望で驚かされた。こちらの方は地元の祭りで顔見知りに見られたら……と思え乗り気では無かったが、熱心さに折れて了解した。


 あの宵宮の夕方。待ち合わせ場所にやって来た彼女の表情はどこまでも明るかった。


 僕の袖の先をつまみ引っ張りながら、自分から行きたい場所を言い出し、街中で流される囃子はやしの音の中、暗くなる空と反対に輝きが強みを増す道路沿いの露店の屋台を覗き、そして所々で父親から借りたというカメラを取り出し自分を撮って欲しいと僕に頼んできた。

 現実感が薄れる光と空気の中、カメラのファインダーを通して彼女を見、そのイメージは僕の中で宵宮の記憶に完全に溶け込んでいった。

 歩き回り、……もともと自分から体が弱いと言っていたのだが……彼女にかなり疲れが見えて来て、どこかで休むか帰るかと言おうかという頃合いだった。彼女はフィルムの残り枚数を見、あと僅かなのを確かめると何ごとかを決意した顔になった。暫く周りを見回してひと組の夫婦づれに声をかけた。「すみません、写真を撮っていただけますか」快諾かいだくした男性にカメラを渡すと、彼女は僕の袖を引っ張り隣に並ばせた。何を言う間も無く二人の写真が撮られ、カメラを受け取り礼を言った。同時に気力が途切れたかのように彼女の目から力が消えた。


 少しだけ通りの外れ、枝道のふちの石垣に腰を預け休憩し、物も言わず薄暗い場所から宵宮の燈火ともしびを二人で眺めていた。頭上から降りる闇が通りの並びの露店の電球に縁取られて熾火おきびのように見える。じゃあもう帰ろうかと声をかけ、先に立ち上がり彼女の手を握って立たせた。

 祭の最中の交通規制区間の端まで行き、臨時コースで運行する路線バスの停留所まで手を繋いで歩いた。

 気がかりで自宅近くまで送ろうか、と言ったけれど彼女は首を振った。どちらからも話すこともなく並んでバスを待った。到着したバスに乗り込む寸前、彼女は「今日は本当にありがとう」と言って笑いかけた後、車内に入り僕から去った。

 それが彼女との最後のデートだったと思う。

 学生時代、進路に頭を悩ませ連絡が減り、電話をかけても繋がらないことが多くなった。自分が何か失敗をしたのか、何かを謝るべきだったのか分からない。


 登下校時のバス……校舎の廊下……たまに見かけ目が合っても気づかなかったかのような顔をしてうつむき、近づくことはない。季節が変わったかのように、交際は自然消滅をしてしまった。

 卒業後、僕は別の街で就職をし、そこでの生活が始まり仕事にかかりきりになっていった。考えても答えに辿り着けなかった謎は謎のまま、現実の生活に向き合うことが自分に出した処方箋だったのだ。


  □□□□□


「……間違いなく君と宵宮に行った筈だ なんでそんな事を言うの」

『本当』『私じゃなく』『有美ゆみ』『私の妹』

 妹と聞いて記憶が開いた。彼女と疎遠になった後に、人伝えに聞いた話で麻美の一学年下の妹さんが亡くなったという噂があった。沈んだ表情の理由なのは理解できたが、それが僕らが別れたことの理由とは結びつかなかった。


『本当は双子だったけれど 有美は身体が弱く』『一年療養で入院して 学年がずれた』

『高校には頑張って入れたけれど 有美は検査で成人を迎えられないと分かった』

『彼氏をつくるチャンスもなくていつ起き上がれなくなるのか分からない有美が』『男の人とデートなんてもう出来ないだろう』『そう思っていた頃 あなたと出会った』

『本当の私には自分から声をかけたりなんてできなかったけれど』『有美のことが頭にあると 機会があるのに何もしないでいるのを』『我慢することができなかった』

『もし有美が 身体が丈夫で 時間があったら 色んなことが出来ていたんじゃないか と』

『あなたと過ごす時間が楽しいほど』『同じような思い出を作ることが出来ない有美のことが頭に浮かんで』『だからある時私の方から』『有美に私の身代わりでデートをしてみないかと』『提案した』

『具合の良い時期に 約束したデートに』『私の代わりに有美が行った』『その日だけ入れ替わって私のかわりに有美が』


『帰ってきた有美はとても幸せそうだった』『もうあきらめていた人生の楽しいことを』『あなたのおかげで体験することが出来た』

『その後 有美の具合が良さそうな時にはデートをしていたのは彼女だった』『彼女のタイムリミットが分からない分 彼女がしておきたい事を』『してもらいたかった』

「僕は有美さんと 会っていたのか」

『おかしいと思った?』

「初めてのガールフレンドだった あの頃は女の子の考えてることなんてまるで分からなかった 一日毎に変わって見えた」

『ごめんなさい』

「謝らないで とても楽しかった 僕も良い思い出をもらってた」

『有美はあなたのことに感謝してた とっても優しかったって』

 僕はなんと言ったらいいのか分からなくなっていた。表情にも出ていたのか麻美が続けた。

『誰でも良いわけじゃないかった』『あの頃の私はあなたを見つけて』『私の心があなたを選んだ』


「ありがとう」と少し苦笑しながら答えた。

『有美が旅立って その後 私はあなたとどんな顔してお付き合いしていいのか 分からなくなってしまった』『妹の彼氏と並んで歩くようで辛くなって』

 少し間を置いて文字が現れた。

『あの日 この宵宮で あなたと一緒に歩いたのは有美』

 僕の恋人は有美だったのか……それとも麻美か。彼女達は素顔でいながら仮面を被り演じていた。有美は麻美を。麻美は麻美自身を。

 目的の停留所の名前がアナウンスされ先の男性が降車ボタンを押した。

 宵宮の祭りに合流するには僕もここで降りるわけだ。

「見に行く?」と麻美に聞いた。

『わたしは帰らないと お母さんが待っている すっかりと物忘れも多くなって』 少し考えてから『白状する と 辛くって宵宮には行ったことがない』『宵宮 楽しんでいって 有美によろしくね』

「そうか じゃあね」


 うなずいて運転席の真横の前ドアに立つ。麻美は目元に優しい笑みを浮かべてこちらを見ていたがそっと視線がれた。

 僕のすぐ背後に初老の男が立った。近すぎて、開いたばかりのドアから慌てて降りて道を開けた。

 男性は清算の器機にカードを接触させそのままするりと降り、こちらに一瞥いちべつもせず祭りの方へ。

 自動でドアが閉じた瞬間、僕は料金を払っていなかったことに気付いた。運転手を呼び止めようとしたが、僕を無視して構わずにバスは発車した。バスは、ハロウィン・ラッピングのカボチャ頭の笑いと、窓に悲しげな麻美の顔を残して走り去っていった。


 紫色の宵に沈んでいく通りには、オレンジの燈火のうるんだ光。宵宮の露店が遠近法の構図で道路の行く先まで並んでいる。建物の移り変わりがあっても、あの日に似た宵宮だ。

 しかし僕は違和感を感じる。行き交う人々の影絵の、所々にとおった人影が入り交じる。


 そして、誰の目もここにいる筈の僕を映していない。いや、ただ一人の眼……透き通った姿の少女がこちらを見ている

 光り輝くような恐怖と暗く深いよろこびがそこにあった。僕の頭の中に『ワルツ』の一節がらめき上がる。


   君は僕の好きな君だったが

   それでいてどこか違うのだった


 あの時の姿のままの有美は不思議な表情をして『会いに来たのね』と僕に告げる……


[2022年(令和04)10月27日(木)]


——作中の詩——

岩淵達治「ワルツ(『他人の顔』より)」 歌詞 及び 日本語訳

  (石川セリ『翼〜武満徹ポップ・ソングス』(1995 COCY-78624)ライナーより)


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