文月 夢寐の切窓(むびのきりまど)


  □


 誰かに起こされた。いつもの夢から引き戻されると、バスはもう僕の降りる停留所に差し掛かっているところだった。

 車内の前方にあるディスプレイ表示を確かめてから降車ボタンを押した。

 改めて周囲を見回す。運転手と自分、もう一人同じ高校の生徒らしき女子が後方に座っているのが見えるだけで、自分の座席の周辺には誰もいない。

 停車したバスから降り、夕刻の停留所から人の影がない住宅地を縫う道を自宅に向かい歩きながら、しばらく考え事に耽った。

 さっき、肩を叩かれたような気がした。

 このところ、学校の休み時間や下校時のバスの車中でも居眠りが多くなり、座りながらうつらうつらして夢の中に滑り込んでしまう。

 起きずに寝過ごして終点の車庫まで行くのは厄介だが、何かの目覚まし時計のように停留所の間際で起こされる。まるでそれまで隣に座っていた誰かが起こしてくれているかのようだった。しかし元々、一人で座りたいので、隣の席の無い一列の座席側を選んだのだから隣の人などいない。

 先程のように、軽く身体に触れられてくる感触があるのだが、目覚めても傍には誰もいない。身体が覚えて自動的に覚醒するようにでもなったものなのか。


  □■


「いつもの夢」。

 夜の眠りに見る夢ではなく、突然訪れる昼間の居眠りの間に見る夢が奇妙にも毎回同じものだった。

 その夢で僕は更に眠っていた。しかし夢の中で夢は見るわけじゃない。

 ただ眠った姿のまま、彫刻にでもされたかのように……遺体のように、ただ目を閉じて動かずにいる。

 眼が閉じられているのに、目蓋を透かしてなのか、何故か周りの様子は分かった。

 自分の顔の間近にだけ、四角く切り取られたかのような窓があり、そこから外の明かりが差し込んできているのが分かった。

 窓からの光に照らされたような、自分の顔付近以外は全て影よりも暗い闇で、果たしてそこに自分の身体全体があるのか、まるで分からない。

 時折、四角い窓の上から何者かが覗き込んでいるのが分かる。相手の顔を確かめようとしても、いつもはっきりとは見えない。

 そこでは本当に何も起こることがない。目覚めるまで、その夢はなんの変化も訪れずに続いている。


  □■□

 緩やかな坂道を登りきり、夏に盛りに繁る花が敷地からはみ出している細い道を抜け、小さな寺と隣接した霊園の脇を通りがかり、別の考えが頭に浮かんだ。

 迷信は信じない。ただ、何かの前兆であるかのようで、恐怖ではないが不気味に感じてはいた。

 

『自分が死に、』と、霊園の内側に整然と立つ暮石を見ながら、ふと夢の意味を思いあわせた。『僕が亡骸として棺に寝かされ蓋が置かれた時。閉じられた棺の、仏の容貌を覗かせる窓。仮に、棺の内側からあの窓を通して、見てみたらあんな感じなのだろうか。すると、繰り返し見るあの夢の意味は自分の死が間近であるとか、そんなことを意味しているのだろうか……』

 暮れた空の下で、影に溶け込む墓石の頂きと、それから黒ずんだ苑内にばらついて見える供花の色を見て考えた。

『納棺されたにしては、花には埋もれてはいなかったけど』


  □■□□


「文芸部」の部室で文庫本を開いていると後輩の女子・金子かねこが入ってきた。

 抱えてきたコピーした紙の重なりを室の中央を占めるテーブルにどさりと置いた。

根津ねず先輩、起きてますかー?」挨拶の言葉より前にそんな声をかけてくる。

「寝てません」

「文庫本のページが進んでませんよ」

「考え事です」

「先輩、座ったまま眠れますからね。心ここにあらず、というような」

「本の制作のことで頭がいっぱいで」

 文化祭向けに刊行する予定の冊子のことを出す。

「私はもう出せますよ、何ならあと2つか3つ」

「前途有望だね、相変わらず。次の部長は君で決定です」

「考えさせてつかあさい。はい、部長、お仕事です。これ半分に折ります。奇麗に折ってくださいね」

「君は先輩に命令するんですか」

「お願い事です」

 椅子から立ち、少しばかり何か言ってやろうと近付いたらそのまま金子に紙の束を渡された。

 ……なんとなく作業もノってきたタイミングでノックの音がした。

「失礼します」

 部外の、金子の友人の女子生徒が顔をのぞかせた。

「どうも」と挨拶すると慌てたように頭を下げて目をそらす。

「来たよ、ネコちゃん、何?」

「よく来てくれました、弥生やよいちゃん、お仕事です」そう言うと金子はまだ積まれている紙の束を渡した。

「金子さん、部員以外の部の仕事を手伝わすのは」

「あ、これ私の私物なので、大丈夫です」

 言われてよく見ると、ヤングアダルト小説についてのファンブックらしき内容なのが分かった。彼女の趣味である。

「……根津先輩、うっかり屋さんですね。折っていて、今まで気付かなかったんですか」

「一体、君は先輩を何だと思ってるんですか」僕はまだ残る紙を丁寧に折りつつ、一応苦言を呈した。「これはどこかで頒布するの?」

「漫画研究部の友達と参加するイベントで、売る予定です」

「手広いし凄い意欲だ」

「好きなんです、本作るの。人の本造り手伝うのも。先輩も何か作るんなら言って下さい」

「ああ、それはどうも」

「弥生ちゃんも何か作るなら言って」

「別にあたしは……無いかな」

「いいじゃん、愛しのヤマネ先輩の写真集とか作ってみるとか」

 弥生さんは無言で金子の二の腕を小突いた。

 渡された紙の山を折り終わり揃えて金子に渡すと、弥生さんの方も終ったようだった。

「じゃ、あたし行くから」

「有り難う、今度ご馳走するからね」

「じゃ、失礼します」

 挨拶すると、やはり眼を逸らされそそくさと退室していった。

「……何か、弥生さんには怖がられていたみたいですね」

「人見知りなんです。根津先輩を怖がる後輩なんてこの世界にいやしません」

「……君は少しはオレを怖がり人見知れ」

「妙な日本語使わないで下さい、文芸部なんだし……あ、一応、弥生ちゃん呼びはNGですよ。友達以外は」

「そうか、失礼」

「『宇佐美うさみ』って言います」

「うさみさん?」

「まあ、そうです」


  □■□□□


 夜、一通りの復習と予習を終えると、後は読みさしの本を開き読書に没頭するだけだ。

気が付くと随分と時間が押して、慌てて寝に入ることが多い。

 夜の間の夢はどれもとりとめなく起きたらすぐ忘れる夢ばかりだった。

 不意の寝落ちで訪れる、あの昼間の夢はどこか違っていた。

 四角い窓と、僕の寝顔を覗き込む遠い顔。


 読みさしの文庫本はイエイツの『ケルトの薄明』だった。

 僕たちの思う「妖精」とは異なる顔のケルトの妖精たちの伝承は、日本の妖怪の言い伝えに近く思えた。

「人さらい」の章。

 ある山の上方に位置するという石灰岩の方形があり、それは妖精の地との境目にある扉とされていたとある。

 真夜中にそこを通じて現われる妖精達の「百鬼夜行」は常人の眼に映らずに人の世界をうろつき廻り、時に赤子や花嫁などを連れ去るとも言われていたようだ。

 攫われた者たちは妖精の地で暮らすことになると言う……。


 ……だが最後の審判の日に、このような人間は、輝く気体になって溶ける運命にある。霊魂というものは、悲しみなしには生きられないからだ。

(井村君江 訳)


 夢で見る四角い窓は、例えば現世と妖精の国と繋がってる僅かの部分ではないか、と考えてみる。

 自分の全身は、その時、妖精の国の中に在り、僅かに開けられたあの四角い窓を通して誰かが覗き込んでいるのかと。


  □■□□□□


 放課後、停留所でバスに乗った。乗車時は大抵、数人同じ高校の制服の者がいる。

 席に座ると、車中では読書しずらいので窓外の景色を見るばかりだ。

 日没までまだ時間のある街に、夏の花が溢れる。

 走り始めは市街地で建物の並んでいた町並みが、まばらな住宅に変わった。

 数度、降車ブザーが鳴り、少しずつ乗客が降りていく。

 次第にまぶたが重くなり、僕の意識は夢の中に滑り降りていった。


  □■□□□□■


 夢の中で、まるで標本のように自分は眠っていた。

 考えるまでもなく、これはおかしい。

 現実の肉体が眠り、魂が夢を見る時、その夢の中で眠るのは起きていることになるのか、それとも夢のさらに深い奥底にいることになるのか。

 だがこの夢では……僕は実際には眠っていない。夢の中で肉体は眠っている姿だけれども、心は起きたままでいる。そして方形の枠の向う側の光景を見ようとしている。

 向う側にいる誰かは何かを伝えようとしてるかのようだ。

 ここは静かだ、向う側の音が届かない。向う側でどれだけ叫んでも、ここの僕の耳はそれを聴き取ることはない。

 ふと、窓に滴がかかったように見えた。

 向う側の誰かは泣いているようだ。


  □■□□□□■□


 誰かに肩を叩かれて目を覚ました。

 前方の席に老婆の背中が見える。だが近くの席には誰もいない。

 やはりいつもの停留所の直前だった。

 降車ボタンを押す。


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 居眠りから目覚めると目前にマジックペンのペン先が迫っていた。級友の初田はったが顔の付近に近付けていた。

「あ、根津……お早う」

 バスじゃない、教室で眠り込んでしまっていた。昼間の教室、幸いな事に授業中ではなかった。

 机から身を起こし自分の顔を撫で、スマホのカメラで自分を写し、顔に異変が無いのを確かめた。

「小学生じゃあるまいし、何てことしやがるんだ……危ねえな」

「お前、気持良さそうに居眠りしてるから、つい、な。夏なのに冬眠してるみたいによく寝てたぞ。転がしても起きない眠り鼠、ヒゲを描いてやりたくなってさ」

「人をケモノ呼ばわりとは失礼な。ホント、二度とやるんじゃないぞ」

 返事代わりにへへへと笑って初田は自分の席に戻った。

 歴史の授業が始まり教科書をを開いていると、史上の人物の肖像写真に目が行き、しばらく見た。

『仮にこれらの肖像に意識があって』じっと見つつ『向こう側からこちらを見ていたらどんなふうに見えるのだろう。きっとあの夢のように、切り取られた四角の中以外は自分の身体のないまま、こちら側を見返していることになるんだろうか』


  □■□□□□■□□□


 部室でじっと本を読んでいるとドアがノックされた。

「失礼します」と入ってきた相手は宇佐美さんだった。

 部室を見て一瞬目が合ったが慌ててらされた。

「あ……金子は」

「まだ来てないけど」

「おかしいな、何してんだろ」

「座って待っててもいいですよ」

「ありがとうございます」

 本の中のケルトの伝承世界を覗いている間に再び夢の中に入ってしまっていた。


「根津先輩、夕方ですよ」

 金子に起こされた。

「……遅かったな」部室を見ると彼女以外に誰もいない。「宇佐美さん来てたぞ、さっき」

「弥生ちゃんね、それはもういいんです。何か言ってました?」

「いや特に。怖がられてるみたいなんで本を読んでた」

「怖がられてませんてば。……それで寝ちゃったんですか」

「みたいですね」

 金子はあきれたようにふうんと声にして言った。「先輩、ナルコレプシーですか、阿佐田哲也あさだてつやですか」

「凄い名前を出してくるな……」

「夜、何をやってるんですか、本当。いつも眠そうですけど」

「ま、色々……勉学にいそしみ」

「寝不足はいけませんね。寿命を縮めます。改善しないなら、お医者さんに診てもらった方がいいです。これは冗談ではなく。」

「あ、ああ。ありがと」

「まったく。もうじき夏休みだってのに」

 妙な言葉で何か責められたようだ。


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 いつもの停留所からバスに乗り、席に座っていると程なく夢に滑り込んでいた。

 何かの兆しなのかまるで分からない、この夢を見るのはいつまで続くのか。向こう側で僕の顔を見ているのは何者なのか。

 ふと初田の言葉が引っかかった。

「転がしても起きない眠り鼠」。

『不思議の国のアリス』の気狂いお茶会には「いつも眠り込んでるdormouse」……「ねむり鼠」がいるが、あれはただの鼠じゃない。いわゆる「ヤマネ」であって……

 突然、車体がガタンと音がして目が覚めた。

急ブレーキだったようだ……

『失礼しました』車内アナウンスが詫びた後、次の停留所の名前が告げられた。ここが過ぎればいつもの停留所だった。

 降車ボタンは押されず、通過された。

 僕はそのまま目を開けず……。

 忍ばせた足音が後ろから近づいてくるのの気配が分かった。

 小さな音が……スマホのシャッター音が顔の近くでした。

 それから僕の肩を軽く叩き再び足音を忍ばせてその主は後方に戻っていった。

 ……起こされたふりをしてゆっくりと降車ブザーを押した。

 バスは停留所に停まり僕が降るとドアが閉じた。

 不意打ちで、振り返ってバスを見ると、車中の、いつも離れた後方の席にいた最後の乗客と目が合った。

 ……その時初めて僕は宇佐美さんの顔を見た気がする。


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 スマホの画面の中で僕は眠り続けている。

 四角い向こう側の光の中で覗き込んでいる顔は、今ようやくはっきりと像が結ばれた。

 宇佐美さんの口は何かを伝えたがっているようだけれども、こちらに声は届かない。

 彼女の目が涙を湛えているのが見えるけれど、一枚の画像にすぎない僕は眠った顔のままだ。

 僕は眠ったまま、夢の中で彼女の指先が近づいてくるのを、頬に触れてくる瞬間を待っている。


(2022年(令和04)08月01日(月))

(2022年(令和04)08月01日(月))加筆修正

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