水彩の路線図

palomino4th

如月 梅花彷徨(ばいかほうこう)

  ▲


ガクンという感覚で、滝野は我に帰った。

車窓の風景は歳月をた住宅が続いている。

さっきまで梅の花の園を巡っていたけれど、勿論本物じゃない。

このバスに乗り込んでからは地域のありふれた風景……地元の住宅と個人商店、全国に広がるコンビニの店舗が続く風景を見るうちに、幻の梅のそのに思いを馳せていた、というところだろう。

疲れていたのか。

ガクンとしたけれど車体が跳ねたのではない。

半分眠りかけた瞬間、突然落ちるような感覚に見舞われ、目が冴える時がある。

肉体を離れ浮遊しかけた魂が落ちたかのように我に戻る。

目蓋まぶたを閉じていたつもりはないが、居眠りしかけたのだろうか。

滝野はしばらく車窓から外を見ていた。

鈍色にびいろ曇天どんてんの下、バスの走りは滑らかだ。

車内には運転手と初老の男・滝野たきのの他に、のんびりとした会話をしている二人連れの老婆の乗客。

滝野は外を見ながらこのバスに乗るまでを思い返した。


  ▲


この町には昼前に電車で到着し、駅から徒歩で梅の名所だった公園に向かった。

里山にも近い、のどかな……そして退屈な風景。

日本国内では初めて確認されたウィルス、「ウメ輪紋プラムポックスウィルス」が市内で確認され、根絶のために伐採を含めた防除を行わなければならなくなった。

他所よそへ広がるのを止めるために、長年育った思い入れのある成木せいぼく・老木を伐採する、地域の人々を感情をさいなむような犠牲的措置が取られた。

公共地の梅とその近隣種植物の樹を切った跡地には、清浄化後の梅の再植樹までの間、別種の花木が植えられた。

観光名所にもなっていた梅の溢れていた公園に季節には見れた筈の紅梅・白梅の花の姿は、今やまったくなかった。

滝野がカメラのファインダーを覗いても、その二色が見つからない。

代わりに、柔らかいクリーム色が見えた。

梅花の香りとは似て異なる正体は蝋梅ろうばいだった。

名に「梅」が付いているものの、バラ科の梅とは異なるロウバイ科のために伐採されることはない。

この地に梅の還るまでの留守番に植えられた花の数々。

二月の今日に開花しているのはこれも黄色の福寿草ふくじゅそうの花。

まだ寂しげで緩やかな斜面を写真に収めていたが、空模様がかげって風が強まってきた。

行きがけに買った和菓子の饅頭まんじゅうを一つを口にしてから念のため早めに公園を出た。

駅まで歩く時間、空模様は持ちこたえそうだったが、来た時をただ逆向きにして電車で帰るのに躊躇ためらいを覚えた。

し残したことがあるわけじゃない。

折角やって来たのに、このまま行きと同じ道で帰るというのはどこか詰まらなく感じた。

駅に向かう方向を垂直に横切る街道にまで出た時、この道に路線バスが走っていることに気がついた。

バス停を見つけたのでそこまで歩き、路線ルートを確かめた。

電車の路線と並行に走っているが、終点は幾つか先の駅前ロータリーに合流している。

少しばかり、馴染みのない風景に入りたくなって、滝野はバスを選んだ。

時刻表を確かめるとそれなりに本数がある、次は15分ほど後にやって来る……。

滝野はバス停からそれぞれの方向を眺め、翳ってゆく風景を眺めた。


  ▲


……そうして乗ったバスの中から道沿いの眺めを見ていたのだった。

山のすそ、人々の住む町をぼんやり見るうちに、半ばねむりかけたのだろうか。

さっきの振動で一応眼が冴えた。

彼は道路脇に現れて流れ去る、標識や看板の文字を眺めた。

町名が移り変わる中、一つの看板が目を引いた。

幹の形状の残った一枚板の木製看板に『東風』とある。

バスが通過してから何かが引っ掛かった。

どこかで見た、と彼は思った。

思い出すことがある、……何を?

芽生めばえた引っかかりはすぐに頭の中を占めた。

窓枠に取り付けられているオレンジの降車ボタンを見つめた。

……あなたならどうする?


  ▲


滝野は考えるよりも先に降車ボタンを押していた。

黒い小窓の中に「とまります」の文字が浮かび上がった。

彼は自分で押したことに驚いていた。

バスは路肩に停車し、扉を開けた。

そこから乗り込む者はいない、ボタンを押した滝野が降りなければならない、そういう場面だ。

降車すると扉は閉まり、巨大な車体はゆったりと走って行った。

だまされたような気分だが、ボタンを押したのは間違いなく自分自身なのだ、誰をとがめようもない。

通り過ぎたあの看板の地点まで歩くことにした。

街道には車が走るが、やはり歩く人の姿が見当たらない。

誰とも合わないまま車窓から見つけた看板にたどり着いた。

道路脇に建つ、古い一戸建て住宅が部分的に改修され食事処になっている店。

その店先に掛かっていた看板だった。

『東風』。

「とんぷう」ではなく、ここは「こち」だろう、と滝野は見立てた。

和食らしい店構えだ。

入口はりガラスになっていて中が見えない。

道路から敷地を隠すように板塀が囲み、家屋の先が見えない。

時刻の頃合いとしては昼食も終わるあたりだろうけれど、そもそもここは今やっているのだろうか。

看板と似たような木片に「営業中」の筆文字がある。

引き戸に手をかけて開け入ると、薄暗い店内に人影は無かったが、音が聞こえたのか奥から男の声がした。

「いらっしゃい」

調理白衣を着た老人がのっそりと出てきた。

他に店のものはいないようだ。

「まだご飯ありますか?」

「どこでもどうぞ」

会話になってないが間違いなく営業中なのは分かった。

そうすると途端に腹がいてきた、とにかく先に注文しよう……。

奥の方、窓際のテーブルまで進み、その席に腰をかけた。

白紙にワープロで印字されただけのものをアクリルのスタンドに差し込んだ品書きを手に取り一通り読んだ。

蕎麦そばやうどんの麺類もあるけれど、丼ものの方が前に来ている。

やや高級そうな店構えだが、庶民的なところだ。

親子丼、牛丼、カツ丼……並ぶ名前を読んでいると、店主の老人が冷水のコップをテーブルに置きにきた。

気になった品がある。

「木の葉丼」、とある。

聞いたことがない、「たぬき」や「きつね」と関連したものなのか?

「すみません、この、これって……なんですか、丼……」

「はい、木の葉丼ね」

「あ、いえこれって」

正体をくつもりが店主はそのまま注文として受け厨房に入ってしまった。

滝野は呼び止めようとしてやめた。

何が出るのか分からないけれどせっかくの旅なのだから、こんな出来事もたのしんでやろう、と心に決めた。

カップの水を煽り窓の外を見た。

綺麗に晴れた空の下、店の裏手の敷地に梅の樹が植わり、白梅と紅梅が豊かに咲いていた。

樹の数は無数にあり、見える範囲でちょっとした梅林ばいりんになっている。

道路からだと建てられた塀にさえぎられて見えなくなっているが、先刻の公園が伐採されていた分、こちらの方で梅の花をたっぷり見ることが出来るというのは偶然にもついていた。

と、滝野は強烈な違和感を感じた。

いやおかしいだろう、「ウメ輪紋ウィルス」をなくすために市内の梅の伐採がされていた筈だ、ここに見える梅の樹は何だ、とじっと見た。

間違いなく梅の樹が陽に照らされて紅白の花を咲かせている。

……数十年の樹齢はありそうな節張ふしばった幹の梅を見て考えた。

公共施設の敷地などではほぼ全て伐採されたのは確かだが、私有地などの樹木は必ずしも伐採されていたわけではない、という話は滝野も聞いていた。

すると伐採を免れた樹なのか。

かなりの数があるので、防疫としては無視ができない規模とは思うが、自治体が見落とす筈はない。

何らかの解決策があって許されたと見るべきか。

じっと見ていると梅林の間に人影があった。

樹に近寄り、梅花に顔を近づけて香りを楽しんでいるようだ。

顔は見えないが、若い青年に思える。

滝野はカメラを用意しようとした。

「はい、木の葉丼」

店主がふたを閉じたどんぶりと汁碗しるわん、お新香しんこの小皿の載った盆を置き、ゆっくりと厨房へ去っていった。

滝野は向き直り、ゆっくりと蓋を取った。

卵とじにとじられていたのは切られた蒲鉾かまぼこ椎茸しいたけらしい。

名付けに狐狸こりからんでいるものかは分からないが、これら散らされた具を木の葉に見立てた、というところなのだろうか。

滝野は出しかけていたカメラを構え、湯気の立つ丼を撮影し、箸をとって「いただきます」と一言口にして遅い昼食を始めた。


  ▲


満足のいく食事が済むと、再び窓の外を見た。

日光に照らされて鮮明な梅花の下、少し離れたところに今度は子供……少年らしき人影が見えた。

窓ガラス越しに写真に収めようとしてカメラを向けたが、少年は樹の影に入ってしまった。

被写体の人には逃げられたが梅の樹は逃げやしない、とファインダーに梅林をとらえてシャッターを切った。

公園の方では空振りだった感があるけれど、ここで取り戻せたかな、と滝野は思った。

「木の葉丼……」

ムジナに化かされる、という可能性もありかな、などと思いつつ、その命名にあれこれ考察をしておいて、ふと思い出した。

あの看板。

「東風」を見た時のひっかかりは何だのだろう。

……梅林を見てふと思い合わせた。


東風こち吹かば にほひをこせよ 梅の花

 あるじなしとて春を忘るな


梅にうたった道真みちざね公の歌。

店名は敷地内の見事な梅林と、菅原道真すがわらみちざね公のこの歌を絡ませたものなのか。

滝野は荷物を持ち席を立った。


  ▲


「ごちそうさまでした」と声を開けると店主が出てきて「ありがとうございました」と言った。

精算した後、ついでに聞いてみた。

「お店の名前……天神てんじん様、菅原道真からですか?」

「はい?」

老人は聞き返してきた。

「あ、つまり、このお店の名前ですが、」

「はい?」

老人はやっぱり聞き返してきた。

「いえ、何でもありません」


  ▲


店を出ると相変わらずの曇りだった。

滝田はバス停に向けて歩きかけたがそこで立ち止まった。

違和感は梅の樹じゃあない。

天気だ。

店の外は一面に雲が広がり空は蓋を閉じられているのに、店内から窓の外を見た時は鮮やかな青空と陽射しが落ちていた。

振り向いて「東風」を見た。

滝野はもう一度店の前に戻り引き戸を開けた。

「すみません」

店主に声をかけたが何も返答がない。

「すみません」

店内に足を踏み入れ、もう一度声をかけたが店主は出てこない。

さっき座った席のあるテーブルに近づき、その窓から見ると、向こう側は晴れた空から陽が降り注いでいる。

周りを見ると、梅林のある敷地に通じていそうなドアを見つけた。

店主は現れない。

ドアノブを握ると鍵は掛かっていない。

滝野はドアを開け、向こう側へと入って行った。


  ▲


柔らかい陽射しが降り注いで、梅花の香りが滝野を包んだ。

窓から見えなかった辺りまで見ると、山の上から降りてくる斜面に幾つもの梅の樹が立ち、個人宅の敷地とは考えられないほどの広がりを持っていた。

この規模で梅の樹が残されているのはさすがにおかしい。

滝野は怪訝けげんに思いながらも梅の樹の一つに近づき、枝に咲いている白梅の花に顔を寄せた。

ひんの良い芳香が鼻腔びくうに流れ込んでくる。

隣の紅梅に移りそちらの花の香りも嗅ぐと不思議な気持ちになっていった。

斜面の上の方、どこまでこの梅林は続いているのだろう、と思いながら手を探った。

彼はいつの間にか手ぶらでいるのに気がついた。

持っていたはずのカメラが無い。

視線を落とし手脚を見、いつの間にか自分の着衣が変わっているのに気がついた。

今朝、自宅を出た時の服装じゃあない、これは……。

滝野はそれだけではなく自分の肉体の調子が良くなっていることにも気がついた。

これは二十代頃の自分じゃないか、どうなっているんだ?

それでも彼は導かれるように次の梅の樹に近づいていった。

ここは現実の世界と違う、特別な世界だ、と直感した。

彼は梅の幹に触れながらじっと花を見た。

ウイルスのわざわいに見舞われ、伐採されてしまった不幸で不運な梅の樹たちが安らいで根を下ろし花を咲かせる場所なのだ、と思った。

だいぶ歩いてきた、と思い「東風」のある方を見ると、店の窓の中から誰かがカメラのレンズを向けているのが分かった。

見られてはいけないような気がして、すぐそばの樹に隠れた。

彼はあれ、と思い、さっきとはまた服装が違っていて、しかも周りの樹々が大きくなっていることに気がついた。

二十代から十代以前になっている。

「若返り」どころではなく、このままだと赤子にまで、それどころかもっと先の方にまでなるんじゃないか。

そう気付くと滝野はゾッとして登るのを中断し降り始めた。

戻るつもりで「東風」を探したが、梅林が果てしなく続くのが見えるだけだ、見当けんとうをつけた方角にいくら走っても店の姿は見えてこない。

同時に空が翳って冷たい風が吹き始めた。

雨の降る匂いが微かにしてきた。

滝野はとにかく下へ駆け下りながら梅林を抜け出そうとした。

梅林の途切れる境目……板塀が見えた。

見た限りでは塀の向こう側には、普通の街があった。

塀に沿って街道が走っている。

だが奇妙なものが見えた。

街道を走る車が、ちょうどフィルムを逆回しするかのようにすべて勢いをつけてバックで走行していた。

そして彼は遠くからバックで走ってくる大きなシルエットの車体……一台のバスが近づいてくるのが分かった。

あのバスに乗らないと、と子供の姿の滝野は思った。

持てる力を絞り出し斜面を駆け下りる助走をつけ、バスが横切る瞬間を狙い、塀によじ登り猫のように飛び越えて車体の側面に全身を叩きつけ……


  ▲


ガクンという感覚で、滝野は我に帰った。

車窓の風景は時間を経た住宅が続いている。

さっきまで梅の花の園を巡っていたけれど、勿論本物じゃない。

このバスに乗り込んでからは地域のありふれた風景……地元の住宅と個人商店、全国に広がるコンビニの店舗が続く風景を見るうちに、幻の梅の園に思いを馳せていた、というところだろう。

疲れていたのだろうか。

彼は標識や看板の文字を眺めた。

町名が移り変わる中、一つの看板が目を引いた。

幹の形状の残った一枚板の木製看板に『東風』とある。

バスが通過してから何かが引っ掛かった。

どこかで見た、と彼は思った。

思い出すことがある、……何を?

芽生えた引っかかりはすぐに頭の中を占めた。

窓枠に取り付けられているオレンジの降車ボタンを見つめた。

……あなたならどうする?


(2024年(令和06)02月29日(木))

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る