第二話
筆
絵の具のパレットをすんすん嗅いでいた夜墨が、のろのろと歩き去った。網戸にした窓辺で長くなって、腹を舐めながら私を見下ろしている。
水彩絵の具なんて使ったことなかったけど、こんなに難しいものなのだろうか。使い方が間違っているとか?
紙が水分でへにゃへにゃになって線の一本もまともに引けやしない。液晶画面をなぞって絵を描くのは得意なのに。やり直しがきかないうえに、そうそう失敗ばかりもできない。画用紙が貴重だから。
夜墨を描こうとして黒を使ったのが失敗だった。薄くろい水が画用紙の上で水溜りになって、ほかの色をどんどん吸い込みどぶ色に変えていく。
夜墨のきいろい眼と、線香花火の火花をいい感じに描きたかったんだけど。この案は諦めたほうがいい。よく考えれば、どんな絵になるのかどんな絵にしたらいいのかてんでわからない。
突如出された課題をクリアするためにはどうしたらいいだろう。
電気保安技術者を養成する課程に、こんな夏休みの宿題は必要ないと思う。夏の思い出を水彩絵の具で描けだなんて。
夏の思い出。やっぱり印象深いのはこの街に来られたこと、夜墨と出会ったこと。あと、小さい頃は、そう、海だ。海をよく見に行った。今まさにどぶ色の水に飲み込まれようとしている水色を見て思い出した。山の上から見下ろすことができる海は、浅いところは青に見えなくはないけれど大体が黒だ。そして波はたいてい緑色をしている。くらい色の表面だけは太陽で白くぴかぴか光って、真っ白い巨大な風車も白くひかっていた。風を受けてぶうんぶうん回る低い音が聞こえてくるんじゃないかと思うくらい、回る大きな羽を柱が懸命に支えていた。
私が小さい頃には洋上風力発電機は一基しかなかった。今はもっとあるはずだ。そしてこの街に電力を送っている。
とても小さいころ、一基だけの風車を描いた記憶がある。新品のにおいのするパレット、絵の具、画板に筆。授業で使うから買ったのに、買ってもらったのが嬉しくて、学校に持っていく前にこっそり絵を描いたんだ。黒い絵の具で風車を描いて、海をあおぐろく塗って、赤い屋根の家を描いた。私の家。山と海の間で、古びたケーブルと腐食する金属に四苦八苦して暮らしていた。
でももう今大丈夫だ。これから先も、この街のために洋上風力発電機は整備されたし送電施設も立派になった。
私はすっかりべちゃべちゃになった画用紙の水たまりをバケツに注いだ。ドライヤーでしつこく乾かす。ドライヤーの使い過ぎで強制オフをくらったから、数日壁に吊るして乾かした。
ボールペンで描けるくらいに乾いてから、私はボールペンで風車を書き加えた。今あの海にはいくつの風車が立っているんだっけ。そんなに数えられないほどだった? 夜墨に聞いてみても、猫はこっちを振り向きもしない。
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