<終章>
<終章>
一匹の蛇が、路地裏から空を見ていた。
額縁に収まりそうな小さな青空には、小さな雲が浮かんでいる。ウサギのようにも、花のようにも見える雲だ。
遠い昔、蛇がまだ人だった頃の記憶が蘇る。浮かぶ雲を見て、神のようだと無知に思ったことを。
それは的を射ていた。
貧者の思い付きが、偶然にも賢者に迫ったのだ。
神は雲と変わらない。形は偶然に定まり、理由はあっても意味はない。
人が謳い、人が唱え、人が祈り、人が語り、人が募り、そして世界は神を見出す。
病を吸い鱗の朽ちた竜がいた。
人に屠られた最初の竜だ。
その骸に積もった雪を羽毛と思えば、曖昧に話を聞いた者たちは、ウサギと勘違いすることもあろう。長く語り継がれれば、別の形の神が現れる。しかし、それの本質は変わらない。
神はいる。
絶大な理由と意味を持つ稀な存在が、この世界には確かにいる。
きっとそれは、どのような形でも語り続けられる。
悪であれ、正義であれ、病であれ、英雄であれ、災厄であれ、形は変わっても語り続けられる。本質さえあれば、忘らるる者ですら在ることができる。
だから、蛇は曖昧なのだ。
嘘偽りで道を作り人生を歩んだ。
元の名を知る者もいない。いや、元より顔も名前もない存在だ。
そんな者なのに王を目指した。
王になろうとした理由も………ああ、そうだ。それだけは少しだけ覚えている。
嫉妬だ。
全てが羨ましかった。妬ましかった。欲しかった。
浅ましく強欲な冒険者の王になったのは、自然な流れだ。我こそが、冒険者の王に相応しいと自負していた。
何を利用しても玉座を手に入れた。
欲しいものは全て手に入れた………………手に入れたと思いたかった。
念願の王座に腰掛けたが、それは王の椅子ではなかった。
奴隷の椅子だ。
本物の王に媚びへつらう奴隷の長の椅子なのだ。
奴隷として歳を重ね、奴隷の子供たちを眺めながら、老いに老いて嫉妬の火も衰えて行く。
そのまま死ぬはずだった。
本物の王の死を見るまでは、奴隷のまま死ぬつもりだった。
火が点いてしまったのだ。消えたはずの嫉妬に、大きな野望の火が劫火のように。
ここからは馬鹿な話だ。
持てる全てを用意した。出し惜しみなど一切ない。最適で最善なものを用意した。ズラリと人生の財産を草原に整列させた。
その全てが、竜のひと吹きで全て灰になった。
唯一生かされた自分に竜は迫った。
服従か、死か。
当然、服従を選んだ。
そういう人生を歩んできたのだ。迷うはずがない。
だが、死を選ぶ者に負けた。
身も心も、魂すら捨てて襲ってくる獣に負けた。
体は砕け散り、魂は欠片も何も残さず消えた。残ったのは、民草が語る雲のような言葉。
これは誰なのだ?
今のこれは誰なのだ?
冒険者の王なのか?
ただの奴隷なのか?
誰でもない冒険者なのか?
蛇は、空と雲を見て我を思う。雲のように薄く消えてゆく我を思う。
「オールドキング」
誰かが蛇を呼び。曖昧だった蛇の輪郭が浮かび上がる。
「なんだ貴様か」
長耳の女がいた。
大きな杖を携え、魔法使いのローブを身に纏っている。
美しい肌と、人を惑わす金色の髪。小柄だが豊満な胸。愛らしい顔付だが、男をしゃぶり尽くして枯死されるような魔性が垣間見えた。
エルフとは、とかく女のエルフとはそういう生き物なのだ。
「何故、自分を犠牲にしたの? 神にでもなったつもり?」
「さあな。余にもわからん」
本当にわからない。
それこそ神の気まぐれだ。
「あの男から全てを奪って、世に顕現すると思っていた。そして、もう一度レムリアを混沌に落とすと。………私の計画が頓挫したわ」
「言わずともわかる。巨悪を屠り、英雄として祀り上げられたいのだろう。エルフらしい愚劣な考えじゃ」
「違うわよ。私は夫に表立った名声を上げたいの。彼は私に全てをくれた。だからこそ、子供以上のものをあげたい。忘らるるまま、消えてゆくなど許されないわ」
「やれやれ、独善じゃな。その夫とやらと話し合った結果か?」
「私は彼に愛されているのよ。私のやることを否定するはずないでしょ」
「貴様のような女を知っている」
「はぁ?」
「愛した男の気持ちが、一瞬揺れただけで病的に騒いでいた。あれもエルフだった。貴様らは種族的にそうなのか? それとも血か? 余は様々な女と関係を持ったが、エルフにだけは手を出さなかった。改めて、それが正解だったと思える」
「………………」
「どうせ、ガキが巣立った寂しさを紛らわしているだけじゃろ。くだらぬ暇潰し巻き込むのは、自分とその男だけにせよ。国を巻き込むな」
「元はといえば、あなたが混沌を残したせいでしょ」
「この土地は、元より混沌の土壌じゃ。ダンジョンがある時点でわかるであろうが。余は精一杯の治世でそれを鎮めた」
「………話しても無駄ね」
「そうじゃ。余はここで適当に朽ちて行く。巨悪が欲しいのなら、ダンジョンを破壊してみよ。あの中には、まだまだ世界の脅威が詰まっているぞ」
「考えておくわ。でもそうね。私の夫の国ではこんな考えがある。『悪でも呪いでもタタリでも、敬えば神となる』とね。あなたにはまだ、使い道がある」
神棚を作った。
地下にあった廃材で適当に。
一応、ヤスリで角やささくれを削り、蜜蠟を塗った。素人が初めて作ったにしては上出来だと思う。
どこに置くか悩んだが、調理場の上の収納を外して設置することにした。
高さ的に、拝むには丁度良い場所だ。
最近、一本角が生えた毛玉を抱えて神棚に置き………あれ? 入らない。採寸はやったつもりだが間違ったか? そも、バーンヴァーゲン様は毛量が多いだけで中身は細いはずなのだが、引っ掛かっている?
「ヴァッ!」
無理やり詰めると、我が神は震え出す。
これ吐くやつだ。また変なものを食べたのだろう。
「丁度いいとこに」
「なんだ?」
餌を漁りに来た猫を見付け、手に取る。
「何だ? 僕は奴の隠した酒とつまみを探しているだけだが」
「俺は、雑巾を探していた」
「ヴェッヴェッ」
えずく神の前に、猫を受け皿のようにして差し出す。
「イヤな予感がする!」
「安心しろ。汚れたら捨ててやる」
「僕は洗っても使えるが!? 物を大事にせよ!」
「ヴォッエ!」
毛玉が、なんだか長いモノを吐き出した。
べちゃりと猫で受け止め、嫌悪感で床に捨てる。
「うぉおおおおお汚いぞおおおおお! ベタベタしてるぅぅぅうう!」
「失礼な奴じゃな!」
それは蛇だった。
喋る蛇が、猫に絡み付いていた。
「貴様で拭いてやるわッ!」
「ぐおおおお!」
この蛇に見覚えは全くない。不自然なほどない。だが、このやり取りは知っている。
頭の中の空白が露になった。
蛇が何かはわからないが、ここ数日の違和感の理由を見つけることができた。
こいつだ。
猫が生み出したと思っていた槍も、こいつが出した物と考えれば合点がいく。今までの戦いで使った武器の数々もだ。
殴られたような頭痛と共に記憶が蘇り、光と共に槍が現れた。
巻いた青い布が半分捲れている。
ひとりでに蛇を貫こうとするそれを、俺は掴んで止めた。とんでもない力で手の皮が捲れ血が流れる。長くは止めていられない。
「ふむ、やはり邪魔者を殺しに来たか」
「落ち着いてないで僕を離せ! この槍は危険なのだ!」
「当たり前じゃ。余が神殺しを成した槍だからな」
「おまっ、僕も巻き込むつもりか!?」
「余も貴様と共に消えたくはないが、これも運命じゃ」
「ぐごごごごご!」
蛇に締め上げられた猫がジタバタと動く。
槍が更に蛇に迫る。
「お前らどっかいけ! もう止められないぞ!」
血で滑った槍の穂先が、蛇と猫の鼻先に近付く。
「仕方ない! アリステールの子供にやるつもりだったが! 使え!」
どこからか剣が落ちてきた。
細身の美しい剣身、短い鍔と柄も同じ銀色の材質だ。
「獣を殺す銀の剣だ。その槍を破壊できる!」
槍を脇で挟み、剣を足で拾い片手で振り上げる。
「止めよ、フィロ。その槍があれば、貴様は英雄で在り続けられる。失えば、ただの顔のない冒険者に逆戻りじゃ」
蛇は止めるが、思ったよりも大したことない犠牲で笑う。
「俺は、英雄の中の英雄になる男だ。ただの英雄で終わらねぇよ」
槍を斬った。
歪んだVの字の火を浮かばせ、槍は跡形もなく消える。
「馬鹿者めッ。神殺しの武器でもあったのだぞ。貴様の悲願はどうするのだ」
「やるさ。お前ができて、俺にできない理由はない」
「自惚れるな」
「自惚れるさ。お前が力を貸した男だぞ?」
「………もう一度、最初から血の道を歩むのか?」
必要なら何度でも。
それに、最初からってことはない。槍を失っても多くが手に残っている。
女とか、血肉とか、神とか、こいつらとか。
景色が変わらなくても、人は進めば進むのだ。
10年同じ景色で足掻いた俺なのだから、ちょっと戻るくらいの手間がなんだ。
「行くぞ、付いてこいオールドキング」
「馬鹿な男じゃ。やれやれ………………付き合ってやろう」
<了>
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