<第二章:泥と修羅> 【01】


【01】


 その女は、男に仕えるのが至上の幸福だと教え込まれた。

 いずれ誰ぞに嫁ぎ、新たな血を家に迎えるのが使命なのだと。この家に産まれた女の死命なのだと。

 女の生きる世界は、男の世界なのだ。

 戦争はもとより政治も経済も。

 女の英雄や為政者や統治者はいても、それは時代や神に押し付けられた業に過ぎない。女の覇王は、今はまだ存在していない。支配とは男の業で、男とは支配欲の権化なのだ。

 そんな男が決めた家の習わし。

『逆らうのは無駄か』

 その女は、幼いながらも察していた。

 どうせ他に行く当ても夢もない。身内が嫌いというわけでもない。ならば、他の女がそうだったように家の悪習に倣うだけ。

 女を磨けば、運が良ければ、財産があり、父のように気まぐれに女を殴らず、腕っぷしが良く、健康で長生きする男を逃がさないはず。

 後、酒。

 酒に弱い男が良い。

 一杯で朝まで眠るような男なら、夜の静謐を邪魔されない。

 望みは、その程度。

 こんな家の女として産まれた時点で、その程度の望みも贅沢なのは理解している。けれども望む。祈る。祈る神などいなくとも、ただ祈る。闇に向かって、静かに祈る。


 応えるように、猫の声を聞いた。


「猫?」

 目覚めると、いつもの地下室のベッドの上。

 天井近くにある小さい窓から朝日が射していた。

 夢を見ていたような気がする。よくわからない夢を。最後に猫が出てきたような気がする。他は、何も思い出せん。ただ、楽しい夢でなかったのは確か。

「痛っ」

 傷が痛む。胸と腹の包帯に触れた。

 治療術師の診断では、全治10日。これでも、ルミル鋼に付けられた傷ではかなり早く治るのだと聞いた。

 冒険者の神と謳われる6人。その内の2人【荒れ狂うルミル】と【法魔ガルヴィング】。

 ルミルは言わずもがな。ガルヴィングは、この国の冒険者全てが加護を受けている再生点を創り出した大魔法使い。

 してこの二人、滅茶苦茶仲が悪かったと記されている。

 口喧嘩は挨拶、素手の喧嘩は日常茶飯事、本気で殺し合ったことも一度や二度じゃない。ルミルの死因もガルヴィングとの決闘が原因だ。

 当然、名を冠する鋼と魔法の相性は悪く。ルミル鋼は再生点をごっそり削るのだ。上級冒険者が、こぞってルミル鋼を手にする理由がよくわかった。高みに登れば、最大の敵は同業者ということだ。

 しかし、俺のように時間を空けてからの大量出血は珍しい症状なのだと。

 ルミル鋼の他に原因があるのでは? と言われた。あるいは、使い手の腕が良すぎたのか。大体は、蛇のせいだろうなぁ。

 それとも剣のせいか? いや、手にした武具のどれかが原因か? 心当たりが多すぎてわからん。

 傷は痛むが、痛くないフリに切り替えて上に。

 パンの焼ける良い匂いがした。

「おはよう」

「おはようございます! 朝ご飯できていますわよ!」

 朝でも元気が良い。

 居間では、聖女様が朝食を食卓に並べていた。

 本日のメニューも、お茶と大皿に積まれた平焼きパン。

 フライパンで焼く平べったく白いパンだ。材料は、小麦粉と水と油に聖女様の特性パン種。これに塩やバターを付けて食べる。

 聖女様の地元の味だそうな。

 後、彼女は普段のエロい恰好の上にエプロンをつけている。隠すことで余計エロスを感じた。その心は、俺が欲求不満なだけである。

 しかしなんだ。

 朝起きると朝飯が用意されている。これが一番、生活の向上を感じた瞬間だな。

 席に着いてお茶を一口。薬草茶である。爽やかな苦味の後に甘みが広がる。蜂蜜がたっぷり入っている。

 パンもいただく。

「どうですか? 今日の焼き加減は?」

「うん、美味しい」

 外側がサクっとしていて、中はモチっとしている。薄いナンのような食感だ。1枚目はそのまま素朴な味わいを楽しみ、2枚はバターを塗って食べた。3枚目は【冒険の暇亭】で買った香草とスパイスを混ぜた岩塩をふりかけて食べる。

 幸せだ。

「今日も美味しいですわ~。お水が良い土地だとパンは全然違いますわね」

 パクパク食べる聖女様。

 彼女は、大体10枚くらいこのパンを食べる。水と小麦粉であんな体ができるとは、異世界の不思議だ。

 食卓に蛇が登ってきた。

「なんじゃ、またこれか」

「文句あるならネズミでも獲ってろ」

 蛇の癖に生意気な。

「貧乏食じゃな~」

 文句を言いながら、蛇は平焼きパンを齧った。

「聖女たるもの、清貧に努めなくてはなりません」

 その体で清貧は無理だろ、と蛇みたいな言葉をパンと共に飲み込む。

「その体で清貧は無理じゃろ」

 蛇は平気で言う。

「体は対象外ですわ! 気にしているのに! じゃあ何ですか? パンを残せと? こんなに美味しく焼けたパンを残せと!? それこそ神や大地に対する冒涜ですわよ! 農家さんや商人に謝りなさい!」

「作る量を少なくすればいいじゃろ」

「っはぁぁぁぁぁぁ!? 水も小麦粉も沢山あるのですわよ? 日持ちがするといっても、年月を重ねれば味は落ちるのです! だから早く食べてあげないと小麦粉に失礼ですわ!」

「いや、買う量を抑えればよいじゃろ」

「蛇さん。あなたには、小麦粉の声が聞こえませんか? 美味しくなるよぉ~早く焼いて~という声が。私には聞こえますわ!」

「………もうよい」

 蛇は勢いに敗けた。

 黙ってパン食う。

 俺も食う。

 聖女様は更に食う。13枚と記録を更新した。俺は、5枚でお腹一杯である。

「ハティ、今日の予定は?」

 さらっと名前を呼んでしまった。

 微妙にまだ緊張する。

「今日から、年代記の執筆を始めますわ。夕方まで自室で執筆です。申し訳ありませんが、お昼はフィロさん1人でお願いしますね」

「了解した」

 つまり、今日も護衛の仕事はなし。

 これで給料は貰えるのだから、なんだかヒモのようである。

 聖女様は、皿を片付けると上の自室に戻った。

 俺は、お茶を飲みながら窓から見える庭を眺めた。並べた的のせいで景観が台無しである。

「おい、蛇」

「なんじゃ?」

 時間ができたので蛇に報告アンド愚痴を吐く。

「以上だ。勝ったが辛勝だ。死にかけた。お前が教えてくれた技、欠片も通じなかったぞ。アレ、意味あったのか?」

「簡単に成果を求めるな。止めなければ必ず結果は付いてくる。気付かぬとも、血肉となっておるわ」

「そういうもんかなぁ」

 疑わしい。

「問題があるとするのなら、貴様が勝ってしまったことじゃ」

「喜べよ、そこは」

 偶然の勝利だが、勝ちは勝ちだぞ。

「強者に負けておくのも成長の燃料じゃ。危機的な状況を読んで、逃げる判断を付けるのに役に立つ。大事であるぞ」

「殺されたらどうすんだよ」

 実際、死にかけた。

「冒険者組合の目があるところでは殺さんと予想していた。後から傷が開くとは、達人の技かのう? それとも余のせいか? うーむ、ルミル鋼に嫌われるような理由は………あったような。なかったような………………」

「済んだことグダグダ言うつもりはねぇよ。次だ次。ライガンの次の手をどう対策する?」

 蛇を責めたところで、意味がないことは理解している。

 問題は次だ。次も馬鹿やってくれる人間とは限らない。あの男と似たような強さでこられたら、今度こそ手も足もでない。

「相手が手札を見せるまでわからん。それまでは――――――」

「また短剣投げか?」

「違う。差し迫ってやらねばいかんことがある。貴様、弱くなっとるぞ」

「はぁ?」

 そんな馬鹿な。

 今回は相手が悪かっただけで、前の俺と比べたら今の俺は破格に強くなっている。

「技術や膂力の問題ではない。精神性の問題じゃ。余と出会った時の貴様は雑魚冒険者であったが、擦れて尖った精神は何者にも負けない強さを持っていた。それが今ではなんじゃ。姿が見えない? 違うな。貴様はビビリ散らして目を閉じたのじゃ」

「閉じてねぇよ。敵の動きが本当に速かった」

 動体視力を超えた動きだった。

「違う。貴様は恐れた。恐れて敵から目を背けた。格上を恐れてパニックになり敵を見失った。小心者がよくやることじゃ」

「違うって、本当の本当に敵が速くて」

 言い訳がましいが、本当なのだ。

「“恐れた者は敵を見失う。”昔の冒険者に伝わる有名な格言じゃ。考えてもみよ。目の前にいる人間が消えるわけないであろうが。無意識下で恐れているとなれば、重症であるぞ」

「いや、仮に本当にそうなら………」

 なんで恐れるようになった?

 生活水準が上がったからか?

 聖女様との生活が楽しいからか?

 失って困るものを手にしたからか?

 わからん。

 俺にはさっぱりわからん。

「どうすりゃいいんだ?」

「簡単じゃ。女を抱け」

 だからさぁ、お前。

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