後編

夜見よみ先輩……っ」

「ふうん。もう私の名前にたどり着いたのかい? 本当に君は面白い存在だ」


 相変わらず虚ろなのかそうなのか分らない目と意外に大きな口を、三日月のように曲げてスカートを穿く夜見先輩は上機嫌そうに笑う。


 身の危険を感じて逃げているのに、私はそれすらも忘れて夜見先輩の瞳に見とれて足を止めていた。


「けれど、君だけ名前を知っている、というのはフェアじゃあな――。おやおや、どうも君は私と戯れている状況ではなさそうだ」

「えっ、あっ、そ、そうなんですっ」


 ペタペタ、という足音が聞こえてきて、クツクツと笑い交じりで喋っていた夜見先輩は、そう言ってパチパチと瞬きをしてから真顔で私の手を掴んだ。


「えっ、あのっ」

「私が良いって言うまでは、後ろを振り返ってはいけないよ」


 夜見先輩はそのままグイッと私の手を引っ張って、教室棟の1番端にある昇降口へと向かって走る。


「夜見先輩ッ! 私の名前、式根しきねこずえ、ですッ!」


 多分、違う世界へ連れて行く何かから逃げているんだろうけど、


「この状況でそれを言うなんて、いやあ、君は本当に面白いねえ」


 私は全力疾走しているせいで息が切れそうなのに、夜見先輩はなんともなさそうに忍び笑いをこぼす。


「ここからが山場だ。落ちないように気を付けたまえ」


 端にある階段へたどり着くと先輩からそう注意を受けて、私は足元を見ながら多分いままでで1番速く足を動かした。


 すぐ後ろまで足音が迫っていたけど、なんとか外に出ることに成功した。


「疲れたかい? まだ足を止めたらダメだよ」


 私は安心して走るのを緩めようとしたけど、夜見先輩はペースを落とさないまま、学校の敷地の際を通って校門に繋がっている道を走る。


 距離は離れたけど、ペタペタという足音はまだ後ろから聞こえていた。


「まだ終わりじゃないの!?」

「校門が境界線なのさ。もう一踏ん張りだ」


 私はもう足がかなり重くなっていたけど、夜見先輩の表情には笑みすら浮かんでいて、かなり余裕がありそうだった。


 もう文化部員がボチボチ下校中な時間のはずなのに、視界の中に入る空は昼過ぎみたいな明るさで、何故か私達以外に誰も前にいない。


 右側にある外庭にいたと思ったらただの石像だったり――。あれ、あんな所にあったっけ……?


「浮気者」


 辺りを見回すと、見たことが無いものがチラホラとあって、頭の中がグチャグチャになりかけていた私に、夜見先輩が横目で私にむくれ顔を見せてそう言った。


「私に好意を抱いているなら、私だけを見ていて欲しいものだねえ」

「すいません……?」


 もしかして、やきもち焼いてる……?


 口調から考えても猛烈に不満そうだから、まあそうなんだろうけど、流石にそんな事を今言う必要はなさそうだから言いかけて黙った。


 脇腹が痛くなって限界寸前なところで校門から出ると、一瞬で空が元通りの半分が夜に塗りつぶされた空に戻った。


「もう大丈夫だよ。いやあ、ここまで走ったのは久しぶりだねぇ」

「うー……」


 私がドテッと倒れ込んで後ろを見ると、管理棟に電気が付いていて先生が歩いている様子が見えた。


「な、なん、だった、んで、すか、あれ……」

「あれは鬼ごっこがしたい子どもの霊が、怪異か何かと融合したものさ」

「え、じゃあなんで、あんなに影響力、とかがあるんですか……」

「霊と融合した相手がかなりの大物だった、ということなんだろうねえ。下手に低位霊と融合してしまったから、あの発動条件の幅の狭さになっているんだろうけれど」

「なるほど」


 なんだかやるせなさげに言う夜見先輩の話を聞いていると、自転車を引いて夜見先輩に見とれていた女子生徒に、変な目で見られたから私はとりあえず立ち上がった。


 夜見先輩は、ここじゃ落ち着かないねぇ、といって、私を外庭に生えている木の陰へと連れて行った。


 ちなみにそこは、真・七不思議の1つである、キスする女の子2人の声がする木だったけど、私は頭を左右に振って夢で見たあの劣情を振り払う。


「ここなら良いだろう。さて、さっき梢は何を言おうとしたんだい?」

「こず……。あっ、いや、その、やきもち焼いてるんですか、っていうので……」


 名前を呼ばれてふわふわした感じになりながら、私はさっきの夜見先輩の反応についての話をした。


「そうだね。私は私に関心を向けてくる君が好きでね。そんな君が私以外にそれを向けるのに妬けてしまったんだ」


 そう言った夜見先輩の、街灯に照らされた表情はいつもの余裕とかがなくて、頬を赤くして目線を泳がせていた。


「なるほど……。――え、あの、最初の方なんて?」

「君が好き、さ。何度も言わせないでくれたまえよ」


 さらっと聞き流したところを確認したら、夜見先輩はさっきよりももっと恥ずかしそうにそう言った。


「君はきっと、その猫をも殺す好奇心で私の全てを見てしまうんだろうね。そうするなら、君の人生をかけて丸裸にした責任をとってもらうよ?」


 私にはね、独占欲が人一倍あるんだ、と夜見先輩がまたあの目と口を三日月みたいにする、心底愉快そうな笑みを浮かべて言った。


「それが嫌なら、私を好きになるのはやめておくことをお勧めするよ」

「取りますよ。例えそれで、私の身が破滅する未来が見えたとしても」


 ――だってもう、いまさら手遅れだ。私の心の窓はとっくに割れて、夜見先輩の濃紺の瞳に吸いだされて奪われてしまったから。


「ああ。君のその意地でも探ってやろう、という目、身体が疼いて仕方が無いじゃないか」


 夜見先輩はゾクゾクした様子で身体を震わせて、私をうっとりと見て自分の身体をなで回した。


「それじゃあ、気を付けて帰るんだよ。いくら家が近くとはいえね」

「はい。……あれ、どうして近くに住んでいると?」

「入っていく所を見かけたんだよ。悪い事をしたね」

「大丈夫ですよ」

「そうかい」


 私がどう言うか全部分っているみたいに、夜見先輩の言葉には不安そうなものがなくて、私が多分思っていた通りに返すとクツクツと笑い声を漏らした。

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