Day10 くらげ[image......]

 暗い夜の景色だった。と、思っていたのはその一瞬だけで。

 実際は照明が落とされた、薄暗い部屋の中だった。目が慣れれば、いくつかの水槽が立ち並んでいる様子や、周囲に人影があることが見て取れた。

 ふと気付くと、肩を叩かれていた。振り向くと、誰か知らない、背の高い人がいた。暗くてよく見えないが、きっと笑いかけているのだろうと思った。

(きっと、お母さんだ)

 そうぼんやりと思った感情と、実際に唇に浮かんだ笑みは釣り合わない。乖離した感情のまま、促されるがままに水槽の前に立った。

 わぁ……っ、と歓声が上がった。これも自分の唇から漏れる声だ。まるで他人事のように感じる。

 そして実際、他人事なのだろう。

 ふわふわとした意識のまま、ふわふわとしたその生き物を見た。

 黒い水槽の中で、ライトアップされたいくつもの膨らんだ帆。青白い光を受けてたわんでは、また萎み、ゆるやかな水流を受けて回転する。美しいくらげ達。

 私は跳ね上がるほどにはしゃぎながら、母や、遅れてきた父と共に、くらげ達のダンスをうっとりと眺める。

 水族館の涼しい空気を吸い込みながら、いつまでもこうしていたいな、と思いながら。


「…………」

 私は、開け放たれた部屋の前で、呆然と立っていた。強く吹く風が、真っ直ぐに私へと吹き荒び、髪がバサバサと耳のそばで鳴った。しかし、そんなことは全く気にもならない。ツィルミ博士の声だって、聞こえない。

 私はただ、その膨らんだ白いカーテンを見ていた。

「ああ、しまった。窓を閉め忘れていたんだな」

 博士は、小走りに窓辺に近づき、力を込めて窓を閉めようとした。しかし、風が強いせいか、ゴミでも詰まっているのか、手間取っている。そして私は彼を手伝いもしないで、その未だ風を受けて丸く膨らんだり、萎んだりを繰り返しているカーテンを棒立ちのまま、見ていた。

(夢で……いつか)

 あのようなものを、見た。そう、あれは。

「くらげ……」

 そう呟いた瞬間、薄暗い水槽と、燦めくような照明が脳裏を刺した。薄青い生き物が、宙を舞うように優雅に泳ぐ姿を思い出した。

 バタン、とようやく博士が窓を閉めて部屋が静かになった瞬間、がくん、と私はその場に座り込んでいた。

「スズシロ?」

 風のせいで床に散乱した書類の数々を拾おうとしていた博士の手が、ふと止まった。彼がこちらに走り寄ってくる足音が、どこか遠くに聞こえる。私は片手で頭を押さえようとして、そのまま突っ伏した。その胴体が、博士の腕に支えられた。

「……記憶と自我が……まだ、安定していないようだね」

 指の間から見える霞んだ視界。遠くで鳴る雷の音。

「あまり時間はないのかもしれないね。君にも、私にも――」

 言葉は最後まで聞き取ることができないまま、意識と共にプツンと途切れた。

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