Day06 筆

 ツィルミ博士は、見た目以上に足が速い。白衣の下は長く黒いスカート状の長衣で、あまりスッサスッサと歩けるようには思えないのだが、とんでもない。嵐の前兆を前にして、慌ただしく館内を走り回る修道士達をそれとなく避けながら、彼は二階への階段に足を掛けようとしていた。

「……うわっ」

「うん?」

 私が可愛くもない悲鳴を上げたのを聞いて、博士は足を止めてこちらに引き返した。私は逆に博士の傍に後ずさった。

「私を盾にしてもあまり役には立たないと思うよ」

 白衣の後ろに隠れた私に向かって、博士は温度の無い声で言う。

「あの、あの人……は」

「どの人? みんな忙しそうだね」

 他人を手伝うということを一秒も考えたことのない男のセリフだ。

「いや、そこの、壁際で……何か、筆みたいなの持ってる人」

「うん……ああ。彼は患者だよ」

 患者? と、博士の後ろから顔を覗かせる。

 背の高い男だった。手足が棒のように細長く、その両手の伸ばすシルエットが蜘蛛のようで、ことさらに不気味だった。彼は片手に、細い筆を握っていた。毛先は黒く濡れて光っていた。

 その筆先が、壁に円を描いている。その外周に、何から言葉とも、記号ともつかないものを描いている。こうして立ち止まって静かにしていると、彼の口からブツブツと祝詞のようなものが聞こえてきて、ゾッとした。もう一度博士の後ろに隠れた。

「あの、職員さんに知らせた方がいいんじゃないですか?」

「うん……まぁ、そっとしておいてもいいさ。彼はいつもそうだから」

 博士は、彼の左隣、階段の影となっている壁の方を指差した。私が影だ、と思っていたものは、全て彼がそうして筆で書き尽くした、黒い細かい模様だった。オイルランプの揺らめく光に照らされた、気の遠くなるようなその作業の痕跡に目眩を覚える。

「彼は元々魔法使いだったのだけれどね。もう、呪文の唱え方も正しい魔方陣の描き方も、分からなくなってしまった。彼の頭の中では複数の情報が同時に噴出し、それらを正確に出力する機能を失ったまま、ただ手だけは動かすことを止められない」

 気づくと、博士の視線はその元魔法使いだという男ではなくて、私の方を見ていた。訝しげに見上げると、博士は目元だけの笑みを浮かべた。

「君の元々の体の持ち主……スズナちゃん、だったか。彼女は戦場となった後に取り残された廃墟での廃品拾い、遺品回収の仕事をしていたね。彼も、同じ戦場で戦っていた元戦闘員だった。戦士が体の傷によって倒れるならば、魔法使いの傷痍は頭脳に現われる……ということだよ」

 さあ、先を急ごう。嵐が来る前に。

 何ものからも興味を失ったかのように、博士はスッと踵を返して、階段を登り始めた。しかし私は、その頭脳を駄目にしてしまったという元魔法使いの背中から、どうしても目が離せないでいた。

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