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  •  背筋の伸びる真っ直ぐな作品でした。その理由は間違いなく私が書き手であり、何らかの“作り手”(生み出す側の人)であるから。上手い下手は関係なくです。まず主人公である古崎の心の動きがスランプであることも含めてとても滑らかに伝わってきました。自作品の思想に言及してもらえない辺りはひしひしと。彼が誰を/何を見ているのか、何が気になって何が譲れなくて何に躓いているのか、十分に質感をもって描かれていたからだと思います。桃原さん津堅さんらとのやり取りでもその辺りの描写がとても丁寧でした。琉球ガラスのことはお恥ずかしながら今回知ったのですが、ガラス公房の様子や制作の行程は取材に行かれたのかもと思うくらいに細部まで書かれていて感心しました。桃原さんの熟練の職人らしい人柄もいかにも実際にいらっしゃるような感じがします。体験こそしなかったものの以前どこかのガラス公房を訪れた時のことを思い出しながら読んでいました。
     次に印象的だったのは津堅さんの背負うものというか、対面してきちんと受け止めたもの。即ち歴史の重みの表現でした。琉球ガラスのルーツは無知なまま惚れ込むには少々失礼なもの。趣向品として輝く琉球ガラス、手土産なら、現代人なら、確かに知らなくてもいい側面かもしれない。けれどそれでは“真の厚み”が出ない。私も津堅さんに教わった感覚でした。作品に厚みを持たせようと作り手の誰もがあがくはずです。それにはただ我武者羅に挑むことも他人の作品を知ることも一つの手なのですが、琉球ガラスそのものの背景、歴史を知ることは実に真摯なアプローチ。だから背筋が伸びたのだと思います。津堅さんの物腰は柔らかく線は細そうなのに芯が通っているように感じたのは気のせいではないですね。彼女が名付けた温故知新な意味合いのリノウ、重みのある作品名です。
     最後のシーンでガジュマルの陰と影が混じる中で、古崎に電撃的に創作の灯が再点火するところは素敵でした。冒頭とは打って変わってキャンパスを走る鉛筆の躍動感。作中何度か表現を変えて登場した海と、霊木とまでは行かないまでも長い歴史を生きてきたであろうガジュマル。(沖縄の自然そのもの?)はガラスのリノウ(=人工物)とは対比されつつも共鳴しているような感じがしました。語らないけれど確かに歴史を含んでいて、今も生きている。ガラスの方は歴史に向き合おうと決意した人間が過去を模倣し再現したもので、手を触れれば微かにでも歴史を語る。そして、どれも今を生きる古崎を導いた。一皮むけた古崎はきっと素晴らしい作品を生み出してくれるのだと思います。

     大変遅くなり申し訳ありません。この度は自主企画にご参加いただきありがとうございました。
     (やっと読み手としてご挨拶できました……。)

    作者からの返信

    大変遅くなりましたが、コメントありがとうございます!

    私が伝えたいと考えて書いたもの、そして、無意識のうちのこめられていたものも、全て掬い取っていただき、どうしようもないほどに感激しています。頑張って書いてよかったと、掬われた気持ちになれました。

    創作は、非常に難儀だなと思います。身を削って、血反吐を吐くような思いで作っても、全て伝わるとは限らない。それは、技術的な部分と、それとはまた別の何かがあるんじゃないかなとも感じます。
    だから、古崎のスランプは、大分自分の気持ちそのものですね。伝わらないからと諦める前にと、何か、自分にしか伝えられないものがあるはずだと、もがき続けています。

    琉球ガラスの作り方ですが、あるホームページを大分参考にしていますね。とはいえ、小学生の修学旅行で、一度見学しました。ガラスを扱う場所だったので、とても熱かったです。
    また、琉球ガラスの歴史のことを調べようと、本を図書館から借りました。それは、県外の作者が沖縄の工芸を紹介する内容だったのですが、琉球ガラスは、米軍のガラス瓶を利用した「おおらかな」沖縄らしい工芸だと書かれていて、正直、ちょっと待てと言いたくなりました。
    こちらから何もかも奪い取っておいて、「おおらか」とは何事かと。こうするしかなかっただけなのに、勝手に肯定されてしまい、怒りを感じましたね。
    そんな気持ちが、津堅さんの作品に込めた思いや、古崎に対する表情にも出ています。沖縄は、観光を産業にしている県なのですが、その歴史にあるもの、そして今も残ってしまっているものを、ちょっとでも知ってほしい、意識してほしいとは思っています。

    最後に改めて登場したガジュマルの木も、そんな沖縄の歴史を背負い込んだものとして描きました。人工物としての琉球ガラスとの対になっているのは、言われて気が付きましたが、確かに面白い呼応になっています。
    そして、何かを知る、理解するということは、もう元の自分には戻れないということを示しています。古崎は、この先の創作活動で、沖縄と向き合いながら、きっとたくさん傷つくことでしょう。でも、それと同時に、彼にしか伝えられないメッセージの混めた作品を、生み出していくのだと、私も信じています。

    こちらこそ、同題異話を主催していただき、そしてこんなにも創作意欲を掻き立てるタイトルを提供していただき、誠にありがとうございました!