第107話 聖剣

 邪神の瘴気は、生命に憑依することなく、実体を作った。

 上半身は頭のない、腕が六本と無数の触手を持った、かろうじて人型と言える構造。

 そして下半身は、蛇のように地を這いずる。

 狭い通路を進む眷族よりも早く、桜盛は有希の下を目指す。

 器を手に入れてしまえば、おそらく眷属はより強大な力を振るう。

 まだ桜盛の方が強いだろうが、周囲への被害なくしては、もう倒せない程度には。


 防火扉を破壊しようとする直前に、桜盛は追いついた。

 そして眷属の背中を踏み壊しながら、本来なら首であろう部分にかかとを埋め込む。

(やっぱり中枢神経らしいものはないのか)

 勇者世界では、時折見た魔法生物。

 核を潰すか、活動が不可になるぐらい切り刻まないと倒すことが出来ない。

 簡単なのは熱量の魔法で蒸発させてしまうことだが、建物の中でそれを使ってしまえば、施設自体が崩壊する可能性が高い。


 避難してきたはずの有希たちは、控え室の中に入ってしまっていた。

 つまりこれ以上は逃げられないのである。

 通路をそのまま進めば、非常口から出られたはずだ。

 しかし他の群集に混ざってしまうことを恐れたのか。

 最初はこんな状況になるとは思っていなかったであろうから、その判断も仕方がないのか。


 ただ警備の人間の、判断ミスではある。

 そして桜盛もまた、相手の脅威度を低く見てしまっていた。

 それは優奈の予知を、自分に都合よく解釈してしまったというのもあるだろう。

 彼女は桜盛と、そして聖女の器を重要視している、というものだ。

 優奈自身は、そんなことは明言していないのに。


 桜盛のモチベーションを上げるために、誰かを犠牲にする。

 そんな極端な思考すら、彼女はしているのかもしれない。

(後ろを守りながら削る隙がないぞ!)

 警備の人間には、能力者もいたはずだ。

 この事態を見て、さらに戦力を投下してくるかもしれない。

 だがそれまで、守りきることが出来るのか。

 単純に戦闘をするよりも、ずっと桜盛の精神的な消耗が激しい。

 

 まだ今は余裕がある。

 しかしこのまま、援軍が来るのを待っているのか。

 嫌な思考であるが、桜盛が消耗して対処できるまで弱らせてから、援軍を出してくる。

 そして桜盛を拘束する、というようなことまで考えなくてはいけない。

(そこまで馬鹿じゃないとは思いたいが)

 馬鹿ではない人間であっても、利益の基準が自分にとって有利であれば、そういった選択はしかねない。




 思考は悲観的である。

 どの時点で防御から攻撃に変化するかは、考えておかないといけない。

 優先順位をしっかりと考えておくこと。

 第一は自分のことであるが、単純に命を優先するというわけではない。

 戦闘能力の継続と、戦闘体制を維持することにある。

 誰かの都合で動かされることを、許容してはいけない。


 防火壁と普通の壁を一枚通せば、そこに有希の他、数人の反応がある。

 正直なところ桜盛は、ここで有希を見捨てるという選択肢も、普通に取れる人間である。

 以前にも会ったことはあるが、向こうはこちらを認識してもいないだろう。

 浅い関係性の人間を相手に、命を張るような生き方は、勇者世界に捨ててきた。


 とにかく厄介なのは、眷属が殴ったり限定的な魔法を使っても、とても削れ切れないことだ。

 どうもこの混乱の中、周囲の人間の負の感情を、餌にして回復しているらしい。

 それに対して桜盛は、まだまだ限界までには余裕があるが、回復手段などはない。

 少しは傷を負っても大丈夫だが、この瘴気の塊を相手に傷を負うと、その程度よりも深刻なダメージとなってくる。

 やはり誰か、援軍に来てほしい。


 玉蘭は確か、ドーム近くに待機していたはずである。

 しかし彼女は桜盛以上に、日本の警察からはマークされている。

 自分の安全が確保できなければ、身を晒すことは難しい。

 それに桜盛の力を知っている彼女からすれば、まだこの段階では危機とは思わないだろう。

 ただ状況の変化を、完全に把握しているわけでもない。

 完全に理解していたとして、桜盛が逆の立場であれば、まだ動かないであろうが。


 ただ、ある瞬間に、桜盛は強大な力の接近を感じた。

(なんだこれは?)

 その力は単純に、強大というだけではない。

 桜盛の知っているような、この異質な気配。

 普通の能力者とは違う。いや、能力者はそもそも普通ではないのかもしれないが。


 眷属の後方から接近してきた、その邪神とは正反対の性質を持つ力。

 桜盛からは見えなかったが、魔力の動きで分かる。

 眷属の下半身部分を、かなりの大きさで切断したのだ。

(神聖系の能力に近いが、精霊系なのか? 都市部でそんな力が使えるのか?)

 眷属が下半身の再生に力を使ったので、桜盛も少し楽に攻撃を捌けるようになった。

 そしてわずかに出来た空間から、彼女は飛び出してきた。


 金色の髪は編みこまれ、淡く光る甲冑はそれだけでも芸術品。

 女性特有の華奢さを持ってはいるが、手にしたその剣は大剣。

 そして特徴的なのは、その先端の尖った耳。

 サークレットからの力場によって、視認性を確保しつつ、頭部も守っている。

(なぜ、ここにいる?)

 衝撃と言うよりは、まずその当惑。

 わずかながらも戦闘中に、桜盛は呆然としてしまった。


 勇者世界において、神々が強く作りすぎたという、半神の種族。

 桜盛は勝手にエルフ扱いしていたが、あちらでは古代人と呼ばれていて、そして魔王軍を相手に共に戦った仲間。

『言葉が通じるか分からないが、下がっていろ人間。こいつは私が倒す』

 勇者世界において使われていた、共通語で彼女は告げる。

(聖剣……)

 古い……いや、桜盛的にはちょっと昔の見知りと、彼女の携えている武器。

 世界の事態は、新たなフェーズに入ってきたのであった。

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