五章 勇者の日常
第80話 未来への帰還
平穏な日々が戻ってきた。
桜盛としては学校に行って、ダンス部で活動し、時折鉄山の邸宅を訪れて、ミレーヌから転移を習う。
ただこの転移というのも、習えるものなのだろうか、という気分にはなってくる。
もちろんこればかりをするわけではなく、普通に高校生らしい日常も送っている。
あとは家では、本格的に成美が受験勉強を開始した。
ミレーヌはのんびりと桜盛に教えているようにも見えるが、彼女は彼女で未来に戻ったときに、使える知識を蓄えている。
せめて本の一冊でも持って帰れるなら、かなり助かるのであるが。
「空間の転移はともかく時間の転移は、自分以外を持っていくのは無理ね」
「その自分っていうのはどれぐらいを指すんだ?」
桜盛はやや、そのあたりが疑問なのである。
ミレーヌが最初にこの時代にやってきた時、着ていた服でさえもなかったということは聞いている。
可能であったのは、データをわずかに運ぶこと。
それが写真のデータであったのだ。
ただデータは持っていけるのだとしたら、文字データを持って帰ることは出来るのではないか。
そのはずではあるのだが、たとえばミレーヌとうい人間は、どこまでがミレーヌであるのか。
たとえば胃腸などの消化器に何かが入っていれば、それは一緒にこちらの世界にも来ているのか。
少なくとも空間転移であれば、桜盛の場合は胃の内容物なども一緒に転移する。
服装だってそうであるし、おそらくは服の表面の埃などもそうである。
ミレーヌの空間転移も、この点では変わらない。
だが時間移動の場合は、これが変わるのであるらしい。
体内に何かを入れておいたら、それは自分の一部と認識されるのか。
少なくともミレーヌの場合、この時代に来た時には、疲れてはいたものの空腹などは感じなかった。
もっともそれは強烈な不快感があったので、本当に空腹でなかったどうかは微妙なのだが。
それから転移を上手く使って、身の回りのものを整え、色々と準備をした。
基本的に未来では、物々交換が主流であり、一応は金貨や銀貨は使っているが、紙幣などは存在しない。
ただもちろん昔のことは知っていたので、金銭もこっそりと手に入れたらしい。
事件が解決してやっと、そういった転移直後の苦労なども聞くことが出来た。
「個人的には公園で、普通に水が飲めただけで、充分にありがたかったんだけど」
未来の日本では、トイレすら紙で尻を拭くことは出来なかったのだとか。
じゃあどうしていたのかというと、乾燥した植物の葉っぱなどを使っていたそうな。
こちらでシャワートイレを使った時の衝撃は、かなり大きかったのだとか。
「あんまりこちらに長くいると、便利さで帰れなくなっちゃう」
ミレーヌの言葉は冗談めかしているが、半分ぐらいは本気であるのだろう。
やがて桜盛の転移距離が、ある程度伸びてきた。
そしてミレーヌとしても、未来に残った物資などでどうにかなりそうなことは、おおよそ憶えることが出来た。
季節は残暑から、完全な秋へと入ってきている。
桜盛としてはユージの姿になるのはほぼ鉄山のところだけで、夜の街に出かけるということもない。
一応は五十嵐などに対して、あの夜の変遷は伝えておいたが。
まったくもって困ったことをしてくれた、というのが五十嵐の感想であった。
ただ兵器の運搬容器の残骸は、結局日本側に渡してある。
完全に容器の外部分だけなので、中身をどう処理したかは分かっただろうが。
ひょっとしたら日本は、あれを少しは手に入れているのではないか、という疑問は当然ながらアメリカにもある。
だが日米間の交渉に関しては、五十嵐はさすがにアドバイザー的な立ち位置にしかならない。
秘密の政府間交渉で、この事件については語られている。
アメリカとしてはせめて同盟国という名のポチである日本に、しっかりと管理しろと言いたくもなる。
だが戦力としては最強レベルのジェーンが敗北したことで、アメリカでもそう簡単には手綱を握れないだろうな、とは分かっているらしい。
そして両国の間では、桜盛に関しては相互で、国内国外問わず、その動向を見極めることとなった。
五十嵐はそういったことを桜盛に教えてくれたが、桜盛はここしばらく、電話でしか政府側とは話していない。
さすがに政府内の防衛省関係者とは、会ってほしいという話は出ている。
桜盛もそれぐらいならいいかな、とは考えているのだが、タイミングが問題だ。
平日は学校があるため、上手く時間が取れない。
また閣僚と会うべきか、それとも官僚と会うべきか、そういったことも決まってはいない。
マスコミにも流せない、政府与党内の秘密。
ただこれは知られたとしても、絶対にマスコミは流せないものである。
桜盛にしても勇者世界に行くまでは、魔法だの超能力だのは、あったらいいがないものだ、と考えていた。
それがこの地球では、しっかりと守られている。
情報統制など難しい現代で、これがしっかりと成されているというのは、能力者自身がそういう、情報操作の手段を持っているのかもしれない。
どういったものであるのかは、さすがに桜盛にも見当がつかないが。
そしていよいよミレーヌの、未来に帰還する日。
桜盛は彼女から聞いた未来を変えるため、さすがに表の勢力とも、少しは協力する必要があるかな、とは思っている。
「出来れば、未来で会いたかったけど」
「ひょっとしたら未来の俺は、亜空間のどこかでまだ生きているかもしれないぞ。ただ崑崙なんかは行くのも大変かもしれないけど」
桜盛としては、自分が死んだというのは、いまいち信じられないのだ。
もっとも生きていたとしても、年齢がどうなったのかは微妙なところだ。
成長はしても老化はしない。
それを魔法で誤魔化すことが出来なくなったのなら、表面的には死亡という形を取っただろう。
そして安全に生活出来るのは、桜盛の知る限りでは崑崙ぐらいだ。
あそこは完全に、巨大な戦力を持ちながらも、下界の権力からは離れていた。
「それじゃあね」
「ああ、未来に俺がいたらよろしく」
そしてミレーヌは、時間を跳躍した。
そこに残っていたのは、ミレーヌが着ていた服が一式。
あとは、あれである。
肛門に突っ込んで、運べないかと苦心した、神様謹製のポーションである。
「駄目だったか」
ただ他の胃や腸の内容物は、やはり一緒に移動している。
不思議といえば不思議なことだろう。
遠い未来で、ミレーヌと出会うことはもうない。
ミレーヌである彼女は、彼女が桜盛と出会って未来を変えた時点で、もう存在しなくなったのだ。
だが、似たミレーヌとは出会うことがあるかもしれない。
(会えたらいいな)
そして桜盛は、また日常に埋没していく。
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