第73話 日米交渉

 舌戦と言うよりは、交渉から戦いは始まった。

 ただ両者が妥協するポイントというのは、かなりお互いにかけ離れていた。

 もっとも桜盛の方はアメリカの妥協ポイントを、最初から知っていたということが大きい。

 また現地の交渉人も知らない裏事情も、思いつく限りは調べておいた。


 交渉というのは、柔らかいところから始めるのか、硬いところから始めるのか。

 とりあえず圧倒的な暴力の保持者である能力者には、柔らかいところから始めるのか。

 ここはさすがに桜盛も、相手の出方は分からない。

 ただ穏便に済むならそれに越したことはない、という方針だけは分かっている。

「そちらから現れたということは、交渉の余地はあるということかね?」

「俺はただ平穏に生きたいだけなんだ。マフィアを殺したのも、テロリストも殺したのも、あの爆発事件にしても、被害者を出さないことが目的だっただけでな」

「基本的には君の善性を信じてはいるよ」

 桜盛は基本的に、私益や私怨のために、人を殺したり絶対的な力を行使したつもりはない。

 アメリカさんとしても、そのあたりを汲んでもらいたいものである。


 ただそう簡単に、信じてもらえるはずもない。

「なぜそこまで、国家やそれに準ずる機関に所属するのを嫌がる?」

「面倒だからな」

 国家からこうやって追われる面倒さを考えても、正体を隠していたい。

 このあたりが権力側には、分からないものであるのだろう。


 桜盛はその気になれば、アメリカを滅ぼすこともおそらく出来る。

 アメリカだけではない。世界のどこの国家であってもだ。

 あるいは一人で世界と戦っても、負けはしないかもしれない。

 負けるまでに世界の体制が崩壊する可能性の方が高い。

 だが世界を敵に回して、崩壊した世界の中で生きるつもりもないのだ。


 桜盛は理性的であるがゆえに、アメリカの覇権を脅かすつもりはない。

 特に政治家や財界人などは、何がどう影響して社会を変化させるか分からないので、一般の社会に任せる。

 ネットを漁れば公金の不正受給や、中抜きに関連した贈収賄など、自分に関係のないところで散々に、犯罪行為は起こっている。

 だがそれを自分の正義と混同したりすることはない。

 桜盛は自分の私怨は、私怨として人を殺す。

 あとは遵法精神は、さすがにないに等しい。

 自分の中の道徳律の方が優先されて、そしてそちらの方が一般的にも正しい感覚に近いだけだ。




 自由でありたい。

 桜盛の要求は極端に言えば、それだけである。

 自由と平等の国のはずのアメリカに、それを告げるのは皮肉であったが。

 実際には自由を強調するあまり、全く平等ではなくなってしまっているアメリカ。

 ただアメリカは国土が広いため、自分に適した部分に住める、というのがかろうじてこの二者を共存させる余裕となっているのだろう。


 他者の自由を侵害しない限りは、自分の自由も保障される。

 だが桜盛の力は強大すぎるため、この原則が適応されない。

 アメリカの引き抜きに応じるなら、アメリカは桜盛のために、様々な便宜を図るであろう。

 しかし桜盛が求めているのは、普通の生活なのだ。


 両者の間に、どうしても埋められない溝がある。

 アメリカは安全保障として、桜盛にせめて日本の組織に所属していてほしい。

 桜盛としては鉄山を通じて、日本の社会とはつながったつもりでいる。

 ただ突然に現れた桜盛は、アメリカから見れば日本人とは思えないのだ。

 仮想敵国として存在する中国。

 中国人と日本人は、外見的に共通するところが多い。

 アメリカにとって重要な同盟国ではあるはずの日本。

 そこに桜盛のような正体不明の人間がいることが、どれだけの脅威であることか。


 困ったことに桜盛も、相手側の事情は理解しているのだ。

 だが理解しているのは事情であって、感情ではない。

 なので話し合ってみて、お互いを理解すれば、敵対することはないのではないか。

 そんな甘い考えも、わずかながら持ってはいたのである。


 もっともそんな、交渉とも相互理解とも取れる時間は、交渉する二人にとってはともかく、ジェーンにとってはひたすらに待たされるだけの時間である。

「いい加減にしなよ。どれだけ時間をかけてるんだ」

 桜盛にはそんな英語は分からなかったが、ジェーンと交渉人の間に、激しい言葉が交わされたのは分かった。

 そして桜盛はあの、三人目の男が何をやっているか、そちらもある程度は気にしていたのだ。




 このビルの周辺に、工作員らしき者が集まってきている。

 その数はおおよそ20人ほどだが、能力者はいない。

 そしてその中の一人が、例の細菌兵器を持っているはずだ。

 質問権は今は使えないが、事前にはそういう手はずになっているのは確認している。


 桜盛としては一般人の戦力は、その兵器だけだと考えている。

 それにミレーヌによれば、それは本来の歴史であれば、桜盛の手によって奪われているはずなのだ。

 もっともその時、ジェーンとの戦いがあったのか、その結末がどうなったのか、それに関しては分かっていない。

 あるいはその時は、ジェーンとの対決はなかったのかもしれないのだ。


 そのジェーンが、かなりキレ気味になってきている。

 桜盛が言うのもあれであるが、優秀な能力者というのは、それだけ我が強い傾向にある。

 己の力だけで、おおかたのことは解決してしまえるからだ。

(結局、暴力が全てを解決するのかなあ)

 桜盛は諦観しながらも、どこか気楽な気分になってきてはいたのであった。

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