9-2

 俺がニュートンを呪いながら図書館へ行くと、メルが待っていた。本じゃなくてケータイをいじっていたみたいだ。すぐに俺に気づいて顔をあげる。前だったら本に夢中で、声をかけられてあわてて飛び上がっていたのに。

「よかったのかよ、俺のせいでバス逃してさ」

 最後のスクールバスが出てしまったので、俺たちはバス停まで歩くことになった。

「うん、大丈夫。ディーンと一緒なら」

 俺は用心棒かなんかなんだろうか。まあ、それも悪くないな。ここらの治安はすごく悪いってわけじゃないけど、メルはちっこいし、おとなしいから、おかしな野郎に絡まれたりしたらマズいもんな。

「さっきはびっくりしたよ」

 小柄なメルの歩幅に合わせてゆっくり歩きながら俺は言った。

「さっきって?」

「みんなの前でアマンダの彼氏をフったこと。あいつに気があるのかと思ってたよ」

「ぜんぜん。これっぽっちも。わたしそんなことなにもしてないし――向こうが勝手にカン違いしただけでしょ」メルはつんと顎をそらせた。

「べつにあいつの肩もつわけじゃないけど、同じ男としてあれやられるとマジできついんだよ。打率が三割じゃバッターボックスにも立とうと思わないんだからさ。八割ぐらいあるって踏んでようやくいけるんだぜ」

 クリスみたいな顔と、あのオッサンくらいの金があればスタメン入り確実なんだろうけど……いけね、自分で言ってて情けなくなってきた。

「ねえ、でも、もしかして、嫉妬してくれたの? オセローみたいに?」

 からかうような声。

 オセロー? ああ、シェイクスピアね。

 そういうとこはメルなんだよなあ。

「だけど俺の目は緑じゃないぜ」

 おかげで俺もこういう切り返しができるようになったのにはほんと感謝だ。

 メルはくすくす笑った。

「わたし、ディーンのそういうところがすごく好きよ――目が何色でも」

 なななななんだって?!

 俺の貧弱なOSは急に、「冗談だろ?」以外の言葉を表示しなくなった。けどこれをそのまま口にしたらシステムがクラッシュするだろうぐらいの想像はつく。

「ディーンは誰にでもやさしいでしょ。女か男かで態度を変えたりしないし」

 やさしい? そんなこと言われたのはじめてだけど。男か女かで態度を変える必要がどこにあるのかもわかんねーし。

「でもね」二、三歩先を行っていたメルが急に立ち止まってふりむいたので、俺はその場でブレーキをかけた。

「さっき、同じ男として、って言ったでしょ。女だってそうだよ。みんなにやさしいんじゃ、ダメなの。好きな人には自分だけにやさしくしてほしいの」

 俺の脳内にでかい赤い警告灯ハザードランプがともった。「メルの好きなやつって誰」と聞くべきか、聞かざるべきか――俺は『ハムレット』みたいな状況に陥った。

 ノーアウト満塁ぐらいのチャンスではあるんだが、すでに大量得点をしていてこれ以上追加点をとると反発をくらって大乱闘になりそうな気配もするし、なにより俺はクリスのいう「結果として生じるもの」のことを考えると、どうしても踏み出す気になれなかった。なにしろ俺は……。

 メルが跳ねるような足取りで俺に一歩近づいた。上目遣いに小さく首をかしげて、

「……ディーン、わたしのこと嫌い?」

「いや……嫌いじゃない……けど……」

 うう……メガネのせいで小さく見えていた目もまつげが濃くて潤んでいるし、もともと子供っぽかった鼻は、今は先がつんと上を向いていてさらに可愛い。ぷっくりした唇は紅くて、リップクリームだと思うけど、ストロベリーと蜂蜜の匂いがする。くるくるふわふわした髪からはシャンプーなのか香水なのか、メルの体臭とは違う香りがして……俺は頭がくらくらしてきた。なにかべつのことを考えていないと、文字どおり狼に変身しそうだ。ひいきのチームが次のワールドシリーズで優勝するために必要なローテーションとか、それから……。

「……それともやっぱり、マクファーソン神父さんのことが好きなの?」

 ――どうしたらそんな話になるんだよ?!

 俺が目線を外していたのをカン違いしたのか、メルは潤んだ目で俺をじっと見た。そりゃ、クリスのことは好きだけど……そういう意味じゃない、はずだ。たぶん……。

 もごもご言っていると、

「じゃあどうしてわたしのほうを見てくれないの? わたし、そんなに魅力ない?」

 ふるふる揺れるまつげの端から今にも涙がこぼれそうだ。なんで俺、女の子泣かせてるんだろう……。

 メルのことは嫌いじゃない。可愛いと思う。守ってやりたいとも。でも……。

「今のメルも美人だと思うよ。俺だけじゃなくて、たいていの男はそう思うだろうな。だけど俺は……前のほうが好きだな」

 みるみるうちにメルの目に涙があふれて、頬を流れ落ちそう――まずい、と思った瞬間、メルはまなじりを吊り上げて、ものすごい怒りの表情になった。

「――あたしにそんなことを言うなんて許せない、このフ×××ン野郎! あんたのその小汚い体の中に釘を送り込んでやるからね!」

 そして、呆然としている俺を置いて、ぱっと走り去ってしまった。

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