6-3

「……あの、よくニュースとかで、感情のもつれから家庭内暴力が起きたり……ええと、情痴事件、っていうんですか、そういうことが発生したって聞きますけど、その……ディーンと、わたしが、ふたりで勉強していても、それで……変に誤解して怒るような人はいないですよね?」

(あああ……我ながらなんて下手くそな聞きかた! 穴があったら入りたい……もう神父さん絶対呆れてる)

 将を射んと欲すればまず馬を射よイングランドを得たいならアイルランドから始めよ――というわけで、必死に知恵を絞った末思いついたのが、当人ではなく、同居している後見人にそれとなく尋ねてみるという方法だった。たとえ馬鹿な質問をしたとしても、神父なら本人に言ったりはしないだろうと見越した上でのことだ。

 カウンセリングルームのテーブルの向こうで、マクファーソン神父はちょっと首をかしげていたが、やがて微笑んで、

「あなたとディーンの関係を邪推するような相手と、彼が親しく友達づきあいをしているとは、私には思えないけれどね」

 と言った。

「それとも、誰かになにか言われたのかい?」

「えっ、いえ違うんです、ただちょっとその……心配になっただけで!」

 それだけです、突然いきなり変なこと聞いてごめんなさい、ありがとうございましたと早口で言って、急いでカウンセリングルームを出た。頬が火照っているのが自分でもわかる。

(で……でも、たぶんあれで神父さんには通じたんだわ、少なくとも神父さんが知っている範囲では、彼にはその……ほかに特別に親しくしてる女友達はいないって……)

 それがわかっただけでも収穫と思おう。

 短い休み時間のあいだに次の授業の準備をしながら、緊張と妙な多幸感で胸の高鳴りがおさまらない。

(だけどそうすると、邪魔する人っていうのは、学校にいる人じゃないのかも……たとえば『ロミオとジュリエット』みたいに、家の人だったり……?)

 家の人といえば自分には両親しかいないが、ふたりが反対するとは考えにくい。

(あとはディーンのおうちの人とか? 会ったこともないのに? まさか神父さんが反対してるなんて思えないし……教会にお邪魔したときもあんなにやさしくしてくれて、さっきだって……)

 カウンセリングルームでの様子を思い出して、一瞬心臓のあたりにちくりと痛みが走った。

 陽の光みたいなやわらかな金髪に、地中海を思わせる瞳。秀でた額や鼻筋を構成する輪郭は、その静謐な雰囲気とあいまって、神話の神々の大理石像のようだ。シャープな顎のラインやすっきりした喉仏からは明らかに女性ではないとわかるのだが、彼女にはそれがよく言われるような天使というより、両親がいくつもレプリカを置いている、アポロンかヘルメスの像を思わせた。

(……世の中に、っていうかこんななんの変哲もない街にあんなきれいな人がふたりもいるの、世界って不条理だわ……)

 相手は男性でおまけに神父なのだから、嫉妬なんかするのはおかしいと思うのに、想像が止まらない。

(そりゃ、あんなに近くで神父さんを見慣れていたら、そのへんの女の子なんて……ましてわたしのことなんてなおさら目に入らなくなるよね……って、やだ、わたしなに考えてるんだろう……)

 そんな具合だったから、机の前に同級生がやってきて、不安そうに、

「……ねえ、メル、十年生が呼んでる」

 と言われたときも、ディーンだろうと思ってすぐ教室を出たのだった。



「あ。あんたがメル――えーと、なんだっけ、名前」

 教室の外に立っていたのは、ディーンではなく、ほとんど話したこともない上級生の女子三人だった。英語のクラスで見た覚えはある。

 小柄だが、美しい金髪ヴェネチア・ブロンドに目鼻立ちがくっきりとして華やかなのがアマンダ・ラヴレース。彼女が所属しているチアリーディング部の内外でもファンは多いから、スポーツにうといメルでも名前と顔は知っている。

「……エーデルスタインです」

 メルはうつむき加減に答えた。そんな人が下級生になんの用だろう。

「そうそう、ミス・エーデルスタイン。ちょっと用があるんだけど。つきあってもらえる?」

 すらりとして背が高い、ポーラ・ディヴィスが有無を言わせぬ声音で言った。

 もともと初対面の相手は苦手なうえ、雰囲気からして友好的な話でないのはすぐにわかった。のこのこ出てきてしまった自分を呪いたい気持ちで、メルは声をかけた友人の姿を探した――が、ガラス越しに見えた顔は怯えていて、すぐに目を逸らされた。

 屠殺場に曳かれてゆく羊のように、ふたりのあとをついていく。うしろには、これまたエリザベスリズ・シンプソンがぴったりくっついている。前のふたりに比べると際立った特徴はないが、ストレートの亜麻色の髪の典型的なアングロサクソン系で、一番ディーンにちょっかいをかけている女子だ。

 連れていかれた先は女子トイレだった。

 授業のない教室にはカギがかかっているし、さすがに図書室では目立ちすぎる。女子トイレなら、いくらなんでも男子生徒は止めに入れまい。

「さっきあんたがカウンセリングルームから出てくるのを見たんだけど。成績優秀なあんたになんか悩みでもあるわけ?」

 アマンダがトゲのある口調で訊いた。

「な……悩みなんて……」

 この人たちはなにが聞きたいのだろう。悩みがある、といえばそれをネタに脅されるだろうし、ない、といえば、じゃあなんで行ったんだと詰められるのは目に見えている。厳格な教師が生徒に説教するときによく使う手だ。

 ただ、手口を知っているからといってうまい言い訳ができるわけではない。メルが黙っていると、

「どーゆーつもりか知らないけど、ディーンなんかを使ってマクファーソン神父に近づこうなんてズルいよねえ?」

 下を向いたメルをアマンダがのぞきこむようにする。

「そうそう。アンタじゃ神父を誘惑するなんて全然ムリだから!」とリズ。

「ねえでも、意外とさあ、ふたりとも狙ってるんじゃないの?」ポーラの口調も明らかに嘲笑を含んでいた。

「ディーンを?」

「ありえないよ~!」アマンダとリズが唱和する。

 一方ですぐにリズがフォローするように、

「えーでもさあ、最近ちょっと変わってきてない? 前はチビだったけど、背も伸びたし!」

 勝手なおしゃべりを始めた上級生の前で、早く解放してもらえないかと、メルはそれだけを願っていた。中学校ジュニアハイスクールでもこうした経験がないわけではなかったが、たかだか二年間だったし、その理由も、ちょっとおどおどしているからひどくからかわれた程度で、こんなふうに責められるほど自分が目立つ行動をとったなんて思ってもみなかった。

「――それで、どうなの?」アマンダは苛立ったように、「あんたはなにがしたいわけ? どういうつもりなの? 黙ってないでなにか言ったら? それとも口がきけないの?」

「……わ、わたし、べつにそんな……そんな……つもりじゃ……」

 矢継ぎ早にまくしたてられて思考回路が麻痺する。舌は喉の奥に貼りついているのに、涙のほうは自然ににじむ。

「あーあ、泣いちゃった。――ねえ、泣けば許してもらえるってものじゃないのはわかるよねえ? あの単純なディーンなら騙されるだろうけどさあ」

 どうしてそんなことを言われないとならないのだろう。おまけにディーンまで。

 恐怖とともに、小さな怒りの炎がメルの胸の奥に灯る。

 だが彼と違い、自分は彼女たちになにも言い返せずにいる。目を逸らした友人のことも、責める資格なんてない……。

「つまんない、まあいいわ。ところでさ、あんたあの石頭に気に入られてるよね?」

 陰で生徒たちに石頭と呼ばれているのは、英語教師のニコラス・シルヴェストルだ。

 これには心当たりがあったので、メルはさらに身を縮めた。メル本人はあまり好きではないのだが、シルヴェストル教諭は彼女の英文法のテストの点数と作文を、よくこう言って褒めるのだ――「ミス・エーデルスタイン、君の舌が、ここに書かれているように文法的に完璧で美しくなめらかに動くのなら、君は作家としても詩人としてもやっていけるだろうに」。

「で。そんなあんたに助けてほしいんだけど」

「た……助けるって……なにをですか」

 それこそありえないフレーズに、つい反応してしまう。

「あいつのテストのときにちょっと答案用紙を見せてほしい――なんて嘘よ。あたしたちだってそんなヤバい橋を渡るつもりなんてないんだから」

 アマンダが、安心させるかのように、リップグロスできらめく唇を微笑みの形につくってみせる。

「課題をやってほしいのよ、あんたに」

「課題……?」

「あいつよく作文の宿題出すでしょ、それを代わりに書いてくれないかって言ってんの」

 あんた馬鹿なの、と言い出しかねない剣呑さだった。

「あっ……あの、それは……無理です」

「――はあ?」

「なに言ってんの。あんた自分の立場わかってる?」

 メルの頭の中はすごい勢いで回転し、自分でも思ってもみないことを口にしていた。

「シルヴェストル先生は剽窃ひょうせつを許さないから、全部手書きで提出させます……筆跡でわかっちゃいます。それに、文章にはその人独自の癖があるので……わたしが代わりに書いても、それはわたしの文章になってしまうから……先生にはきっとわかります」

 上級生三人はわけがわからないという表情で、互いの顔を見合わせた。

「……あんたの言ってること意味不明なんだけど」困ったようにリズが言った。

「要はさ、手書きなのはあとで書き直せばいいってことでしょ、超めんどくさいけど」ポーラがだるそうに続ける。「文章が違うっていうのは……あれかぁ、ジャンルが違うみたいなものかな。コメディ専門、とかさ。でもなんか真似する方法があるんだよね、たしか」

「なんだ、できるんじゃん」

 アマンダがにやりと笑う。

「――と、いうわけで、あんたに頼みたいの。ポーラが言う方法があるんならさあ、当然あんたも知ってるでしょ、アタマいいんだから。今度の課題からやってもらうからね。あ、それから」

 体を固くしているメルの耳元に唇を寄せてささやく。コロンだろう、ひどく甘いベリーの香りがした。

「誰かにチクってもいいけどさあ、あんたの言うことなんて誰も信じないよ。いっつもなに言ってんだかわかんないんだから。マクファーソン神父に言いつけてもムダよ。神父さんとあたしのあいだには秘密があるの。神父さんはゼッタイあたしを売ったりしないわ」

(嘘……)

 メルは目の前が真っ暗になったように感じた。

「やだ、アマンダ、いつのまに?!」

「ねえそれホントなの? なにをいつどうやって?」

「うふふ、それこそナイショの話だから誰にも教えない」

 きゃあきゃあ騒ぎ出した三人のことなど頭からふっとんでしまう。

 彼女たちの姿が消え、始業のチャイムが鳴るまで、メルは洗面台の前で立ちつくしていた。

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