3-4
その夜。
俺は全然眠れなかった。
明日テストなのを忘れてたのは
課題図書をひらいてもまったく中身が頭に入ってこない。仕方ないからあきらめて、朝に賭けようと思ってベッドにもぐりこんだのに、目が冴えまくっている。
(満月のせい……とかじゃないよな、コレ……)
ゴロゴロ寝返りうつのにも飽きて、カーテンを開けてみても、半月で……。
しょうがねえ、課題図書を睡眠薬代わりにするかな、と思ってデスクライトを
「……ディーン、起きてるかい?」
「ななななに? クリス、夜食なら
なんで動揺してんのかわからないままドアを開ける。と、パジャマ姿のクリスが立っていた。
「入っても?」
「う……うん」
クリスは入ってくるとベッドに腰をおろした。うう……なんでそっちに座るんだ……っていうか、俺がベッドと机のあいだに立ってるからか。
俺が椅子に座ろうとするとクリスが手招きした。
「な……なに?」
「大事な話だからだよ」
ベッドの上でする大事な話ってなんだよ……と思いながら、並んで座る。
なんだか妙に長い
「……あ、あのさあ……」
「ミスター・ノーランが言っていたことだが」
同時に言葉が出た。
「……クリスの血に力があるって話?」
「そうだ。そのせいで私が狙われるのだとすれば、私のそばにいるお前にも危険が及ぶんじゃないかと思って……」
「クリス……」
俺は今度は心臓が締めつけられるのを感じた。まさか……俺が心配だからここから出て行け、なんて言わないよな?
たとえ無一文で追い出されるわけじゃない(クリスは絶対にそんな薄情なことはしない)ってわかっていても、爪先から血の気がひいて冷えていく。
「クリス、俺のことなら大丈夫だから――そりゃ、心配しないでとはいえないけどさ、俺はできそこないだし、悔しいけど、六百年も生きてる
「なんの話だ?」クリスは
「……違うの?」
俺はつんとした鼻をこすった。
「違うよ。私が言いたかったのは……ほんとうに、私の血を与えることで、お前が“完全”になって、望むような人生を送れるのなら――それが
すぐには言葉が出てこなかった。
それはすごく魅力的な話だった。クリス本人がいいって言ってくれてるんだし……誰も傷つかないし誰も損はしない、いいことずくめに思えた。
「だ……だけどさ、ニックは“かもしれない”って言っただろ……あいつは本職の吸血鬼だから、どれくらいまでなら死なないとかわかってるのかもしれないけど、俺はわかんないし……」
もごもご言っているとクリスがまた微笑って、俺の膝に手を置いた。
「それはお前の気にすることじゃないよ。それに、たとえ私が死なない程度の量では効果がなかったとしても、これは私のためにもなることなんだし……」
「……どういうこと?」
俺はクリスの顔をまじまじ見てしまった。
カーテンが半分あけっぱなしの窓から差し込む月明りで、白い額にかかっている金髪が銀色に輝いて、デスクライトのオレンジがかった光が頬を染めている。ブルーの瞳は夜の空の色になっていて……女の子(バアさん連中も含めて)がぽーっとする顔立ちなのは知ってるけど……ほんとに……きれいだ。
特にそのなめらかな白い喉元と、風呂上がりみたいな、形のいいピンク色の唇に俺の目は釘づけになった。
「床から落下することはできない……堕落した聖職者なら、血の効力も失われるだろうと、ミスター・ノーランは言ったんだよ」
「だ……堕落した聖職者って……」俺の声はほとんど裏返っていた。クリスの右手が俺の頬を撫でたからだ。指が細くて長くて……ひんやりしている。
「お前が偏見とは無縁なのはわかってるよ」
クリスの声が耳をくすぐる。くすぐってるのは声だけじゃない。
「今日みたいなことをすれば、まちがいなく私は恩寵を……力を失うだろうね。そうすれば、闇の眷属が私に興味を示すこともなくなるし、お前も安全だ……」
「きょ……今日みたいなことって……」
俺は阿保みたいにくりかえした。
「ミスター・ノーランに邪魔されなかったら、お前は自分のやりたいようにやっていただろう?」
いつもはやさしいか、凛としているクリスの声が、ちょっとかすれたようにハスキーになっている。
「……いいの?」
なにが“いい”のか、聞いた俺にもどうでもよくなっていた。俺の唇がクリスの唇をふさいでいたから。
どっちが先だったかもわからなかった。
(柔らかい……)
白状するとキスははじめてだった。どうしたらいいか戸惑っていると、クリスが両腕を俺の首に回してきて、同時に、舌がするりと入ってきた。
(やば……)
ニックのセリフじゃないけど、ここまでとは思ってなかった。クリスの舌が犬歯をなぞって、俺のに絡んで――指がうなじを撫でている。俺は頭が沸騰しそうだった。
「……ん」
夢中で応えていると、クリスが鼻にかかった吐息を漏らした。
それがブースターになって、俺はクリスをベッドの上に押し倒した。まだあと二インチばかり足りないが、ここ最近でぐんと背が伸びたので、身長は同じくらいになっている。
長いキスから解放されて――俺はいつ息継ぎをしたらいいのかうまくコツがつかめなくて、ちょっと酸欠になっていた――クリスがぺろりと濡れた唇を舐める。
長い金色のまつげが陰を落としている青い眼が、猫みたいに細められる。俺をじっと見つめたまま、思わせぶりに、自分のパジャマのボタンを片手でゆっくりと外していく。はだけたそこからきれいな鎖骨がのぞく。
その様子っていったら、祭壇の上で説教している、ご清潔な神父と同一人物とはとても思えない。まさかね――これが本当の姿なんだとしたら、ニックも俺も、そして信心深いバアさんたちも、みんな騙されてたってことになるけど――かまうもんか、って気に俺はなっていた。
「クリス、えーと、俺、こういうことするのはじめてで……どうしたら、あんたをその……」
「――おいで」
クリスが薄く笑って両腕を差し伸べた。
そこでたぶん俺の頭の配線はブチ切れたんだと思う。俺は着ているもののボタンを全部ふっとばす勢いで脱ぎ捨てて、誘ってるみたいに――事実そうなんだから――開かれたクリスの唇にもう一度ふるいついた。
勢い余って歯が当たったんだろう、クリスの唇の端が切れて、血の
(嘘だろこれ……すげー甘い……)
俺は自分の味覚がおかしくなったのかと思った。血が甘い、だなんて。
うなじから尾骶骨のあたりまで背筋がぞくぞくした。
いつだったか酔っ払ったクソ野郎にケツを撫でまわされたときに感じたみたいな気色悪さじゃない。
髪の毛が逆立つ。肩のあたりが盛り上がって骨格が変わっていく――変身しかけてるんだ。
いつもだったら、マズいと思うんだが――コントロールできない変身ってのはスムーズじゃないし、痛みを伴うから――全然そんなことはなかった。
シーツについていた右腕から手の先までが黒い毛に覆われて、爪が伸びて獣の前脚になる。
――マジかよ。
俺はそれこそ赤頭巾ちゃんを目の前にした狼みたいに、耳まで牙をむきだした。今まで、こんなふうに、“完璧”に近いかたちで変身することなんかなかったのに。血の一滴でこれかよ。
俺が狼になりかけてるっていうのに、クリスはなだめようともしないで、それどころか、頭をのけぞらせて、その白い喉を晒した。ほんとうに、どうなってもいいっていってるみたいに。
狼の眼には、薄い皮膚のすぐ下を走っている頸動脈も、それが脈打っているのも見える。
――ちくしょう、ニック、あんたは正しかったってことだ。
俺が目の前のごちそうにかぶりつこうとしたそのとき、
「――繁栄と富とはその家にあり、その義は
紫の稲妻みたいなものが目の前を走り、俺はベッドから転がり落ちた。
逆さまになった視界に映ったのは、ズボンに包まれた二本の脚と、辿っていくとその上には、パジャマじゃなくて、きっちり服を着込んで聖書を手にしたクリスの姿――
「……え、なん、で……???」
クリスはひっくりかえっている俺には目もくれず、けわしい顔でベッドの上に向かって祈りを唱えて十字を切った。
俺は飛び起きてベッドを見た。
そこにいたのは、紫色の布きれ(
三度目の祈りでそいつは金属をこすり合わせたような悲鳴?をあげ、みるみるうちに縮んで、ほどけたストラのすきまから黒い煙みたいに抜け出て、消えた。
消える直前に見えたのは、蛾の触覚みたいなでかい耳をした毛むくじゃらの化け物で、テールランプ顔負けの赤い眼がギラギラしていた。ちょっと猿に似ていなくもなかった。
「ああああれなに?!」
「……夢魔だよ」
クリスはほっと息を吐いて言った。……えーと、てことは、絶対こっちがホンモノだよな。
「じゃ、俺が見てたのは……夢?」
あらためて自分の恰好を見てみると、上半身裸なのはそのままだったが、変身はしていなかった。
「うーん……そうともいえるし、そうでないともいえるな。実体をとる場合もあるからね。あっちが正体に近いから、お前にはべつの姿に見えていたんだと思うけど」
げえ……俺はあんなのとヤろうとしてたのかよ! あれをクリスだと思い込んで……。
「ひとまずいったんここから出たほうがいい。空気がよどんでいるからね」
クリスがパジャマの上着をとって着せかけてくれたけど、俺はどうにも彼と目を合わせることができなかった。
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