ただあなたがたの求めるところを

2-1

「マクファーソン神父さん、ディーンいます?」

 木曜日の夕方、教会を訪ねてきたのはディーンのクラスメイトの少女だった。

 赤みがかった金髪をポニーテールにして、アンディ・ウォーホールの〈マリリン・モンロー〉がプリントされたTシャツにスキニージーンズ、首には黒いチョーカーという格好。以前から、たまに日曜のミサに来ていた子だ。

「彼は今いないよ。走りに行っているから一時間は戻らないと思うけど……ディーンに用事?」

「ううん、いないほうがいいんです。神父さんにお話があるから。学校じゃいつもあいつが一緒にいるでしょ、誰にも話を聞かれたくないんです」

(一時間は戻らないと言ったけど……ハーフマラソン並みの距離を一時間で走って帰ってくる子だからな……)

 聖堂にはまだ祈りを捧げている人や近所の老婦人たちが残っている。

「どうしても人に聞かれたくない話ならそこがあるけど……ええと、」

 私は告解室を指した。

「アマンダです。アマンダ・ラヴレース」

 分厚い木の壁で囲まれた小部屋の中に入ると、外部のざわめきはほとんど聞き取れなくなる。内部には狭い腰掛がひとつあるきりだ。

「わたし、こういうところ入るのはじめてなんですけど。すごく狭い。テレビで見た、刑務所の面会室、みたいな?」

 彼女は物珍しそうに周囲の壁を触っている。

「神父さんの顔もよく見えないし……」

「面会室ならアクリル板だけど、格子だからね。顔見知りだと思うと、懺悔をするのは気が引けるものだよ」

「ディーンもこの中に入って怒られたりするの?」

「彼はしないよ。それに、べつにここは説教部屋じゃないからね。だから、君がここでなにを話しても私に叱られることはない」

 おそらくそれがスイッチだったのだろう。どこかうわついた様子でふるまっていた彼女が、びくっとしたように動きを止めた。

「えっと、どこから話せばいいのかな……。アメフト部のマーク――マーカス・アダムスって知ってます?」

「タックルの子? 十一年生ジュニアの?」

「そうです。あたし今彼とつきあってるんですけど。今までで一番長いかなぁ……半年くらい?」

 そういえば前にディーンが、信者でないのに教会に来ている女の子たちについて、そんなうわさ話をしていたっけ……。

「あたしのほうから声かけたんじゃないんです、だって、さすがにそれってカッコ悪いでしょ、なんか男に飢えてるみたいで。だからはじめはちょっと冷たくしてたんです。そしたら彼はあたしの言うことなんでも聞いてくれるようになって……なんか、女王様扱いっていうか?」

 ちょっとなげやりな表情でくすりと笑う。

「でも……でもこのあいだ……どうしてもってお願いされて、その、最後まで許したら、それから、彼、態度が変わっちゃって……」

「どんなふうに?」

「それまではあたしがなにしててもなにも言わなかったのに、あたしがほかのチームメイトとちょっとしゃべっただけでも不機嫌になって口きいてくれなくなったり、今どこでなにしてるんだってしょっちゅうメッセージを送ってくるようになって……。あたし、最初はそういうのムシしてたんです。だって……」

「彼のほうが君のことを好きだと思っていたから?」

 私は〈アヴェ・マリア〉を唇だけで唱えるのをやめて聞いた。

「そう、そうです、でも……」

 彼女はしばらく黙ってうつむいていたが、

「あの……ここでしゃべったことは誰にも言わないって本当ですよね?」

「本当だよ」

「絶対に? 先生にも親にも……警察にも?」

「言わないよ」厳密には告解ではないから守秘義務はないのだけれど……信頼関係ラポールを考えるなら、毒を食らわば皿まで悪魔を飲み込んだなら角まで飲み込めるだろう。「君がたとえ連続殺人犯だったとしても、猫の尻尾に火のついた爆竹を結びつけていたとしても」

「……あたしそこまでひどくないわ」

 かすかに格子の向こうにうかがえる彼女の表情は、泣き笑いのようにゆがんでいた。

 首のうしろに手を回して、黒いレースのチョーカーをはずす。

「……これ」

 私はロザリオをる手を止めた。

 細い首には赤く滲んだ爪の跡がくっきりとついていた。

「彼に……?」

「絞められたの」

 彼女はまたすぐチョーカーをつけなおした。

「ねえ……絶対誰にも言わないでしょ?」

 すきまから聞こえてくる声は涙声だった。

「誰にも言わない。……だけど、彼が君にしたことは、まちがいなく暴力だよ」

「わかってる」洟をすすりあげる音。「……でも好きなの。あたしのほうがたぶん……彼があたしのことを好きなのよりずっと。これがばれたら、きっと接近禁止命令が出されちゃう。それは嫌なの、だけど……」

 自分でもどうしたらいいかわからなくて、でもこんなこと友達にも言えないし、だってみんなあたしと彼がうまくいってると思ってるから、と彼女はしゃくりあげながら切れ切れに言った。

「しっ……神父さんもあたしのこと馬鹿な女だと思うでしょ……?」

「思わないよ」私は言った。「ほんとうに自分のしていることがわかっていないなら、相談に来ようとも思わないだろうからね。君は勇気のある女性だ。今は……自分がとるべき行動と欲求のあいだで揺れ動いているんだろうと思うよ……」

 嗚咽はだんだん小さくなっていった。

「……神父さん、ハンカチかなにかもってない?」

 私は格子のすきまからハンカチを差し出した。

「……ありがとう。洗って返すね」

「それはいいから……。落ちついた?」

「……うん。あー、絶対目がハレてる。マスカラも落ちちゃったし。帰りどうしよう。誰かに、ていうかディーンにでも見られたらサイアク」

 思わず苦笑する。これもたしかに強さのひとつなんだろう。

「じゃあ私が先に出るから、もう大丈夫だと思ったら出てくればいいよ」

 少し迷った末につけ加える。

「ひとつだけ約束してほしい。彼のほかにも、君のことを大切に思っている人たちはいるんだ。だから、また危険な目に遭う前に、そういう人たちを頼るのを躊躇しないでほしい――その人たちは、最初は怒るかもしれないけど、どうでもいいと思っている相手に怒ったりはしないものだよ。最後には力になってくれる」

「……うん」

 告解室を出たときには、聖堂の中は静かになっていた。しばらくして、木製の扉の小さくきしむ音をさせて彼女が出ていったあとも、私は背を向けて祈っていた。

 神父になったのをつらいと思うときのひとつは、こういうときだ。

 カトリックの、というよりキリスト教徒でなければ罪とも思えないような事柄ことがらならまだいい。人は愛――あるいは愛だと思い込んでいるもののためにときに自分を傷つけるようなふるまいにおよぶ。

 そのこともべつに構わない。誰だって愚かな行動をとることはあるのだし、私にもひとのことはいえない。問題なのは、実際に彼女に危険が迫ったときに役立つのはおそらく祈りではないということで――それを知っていてもなおなにもできないのがつらいのだ。

 こんなとき、レオーニ神父師父なら、『フィリピの信徒への手紙』第四章六節を引き合いに出したかもしれないけれど……。私にできるのは、彼女の目が開き、彼の耳が聞こえるようになること、そしてそうなるまでのあいだ、私がこの秘めごとを背負っていけるだけの強さをお与えくださいと祈ることだけなのだから。

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