神の慈悲なくばII ~蜂蜜の花嫁あるいは冥府の女王~

吉村杏

Prologue

1-1

 着信音が鳴り出す前に俺はケータイに手を伸ばし、かけてきた相手の名前が表示されるのとほとんど同時に通話ボタンを押した。

「はい、もしもし……違う、今手が離せないんだ。一日中パソコンに向かってりゃいいあんたとは違うんだよ。……なんだって? 金曜はウチ魚なの。……うるせえなあ、ひとんちの夕飯にケチつけんなよ、あんたが食うわけじゃないんだから。ハイハイ、わかったよ。伝えとく。じゃあな」

 通話口の向こうでののしり声が聞こえたが、秒で終話ボタンを押す。

「ディーン、皿を――」キッチンからクリスが顔だけ出して呼んだ。

「今の電話は誰からだったんだ?」

「友達」

 クリスはうさんくさそうな目つきをよこしたが、

「友達に、うるさいなんて言うものじゃない。まあいいや、棚の上の深皿を取ってくれないか」

「はいはい。――うーん、いい匂い!」

 俺は喜んで棚に向かった。フライパンの中ではアクアパッツァがぐつぐつ湯気を立てている。ドライトマトと、バジルとオリーブオイル――それとたっぷりのニンニク!

 狭いテーブルに向かい合わせで食器を並べ、真ん中に、名前のわからない魚――俺にわかるのはサーモンとタラだけだ――の入った深皿を置く。

 食前のお祈りもそこそこにかぶりつこうとした俺を見て、クリスは形のいい眉をちょっとしかめたが、目をつむって、いつもより少し長めのお祈りを始めた。お祈りの最後に、このあいだ食料を届けに行ったアル中のハワード爺さんとシングルマザーのモリソンさん、それからダニーの名前が出てきて、さすがに俺のフォークを持つ手も止まった。

 運動神経がよくて、どっちもひどい家庭環境だったっていう共通点から仲良くなれそうな気がしていたけど、結局、ダニエルは北部の叔母さんの家に引き取られることになり、転校していった。悪魔が離れたあとも、クリスは時々、彼と、まだ入院しているその父親のために祈っている。

「待たせたね。先に食べていてもよかったのに」

「それなら先に言っといてよ」

 アーメン、っていうのが「よし」の合図みたいなもんじゃないか。

 俺は遠慮なく、脂ののった白身とドライトマト、オリーブオイルのしみたニンニクをすくいとってバゲットに載せた。こぼれ落ちそうになっているそれをかじると、オリーブオイルが染み出して、ニンニクとハーブの香りが鼻に抜ける。

「――うまい! レストランで出してもいけると思うぜ、これ」

「どういたしまして」クリスが得意そうににっこりする。「でもこれは見た目より簡単なんだけどね」

 クリスは料理を、前にこの教会にいたレオーニ神父から教わったそうだ。オリーブオイルとワインを儀式でも使うこととなにか関係があるんだろうか? 

 とにかく、健康的な食生活のおかげか、最近、俺の背はクリスに追いつきつつある。

 ダニーの一件以来、クリスは前より少し明るくなった。説教をするときの、長いまつげを伏せた、うれいを帯びたような表情がいいのよね、なんていう中年の奥様方はもちろんいるけど、なんていうか、花が開いたような感じっていうんだろうか。男に使うのは変だけど。よく冗談を言うようになったし、もともと人当たりはいいほうだったけど、さらに雰囲気がやわらかくなっている。

 おかげで、学校にはファンが増えて大変だ。クリスは真面目だし、大体いつも俺が一緒にいるから、ヘンな誤解が生じたりはしてないけど。

 女の子に騒がれて気にならないのかって聞いてみたら、「年の離れたきょうだいがいるんだ」と言った。「だから、あの年頃の女の子は妹にしか見えないよ!」って。

 ただ、反対に、俺に対する説教の頻度が上がったのは謎なんだが――

「さっきの友達のことだけど」クリスが言った。

「お前が友達を司祭館ここに連れてきたことはないよね。よかったら連れておいで。大したことはできないが、なんだったらデザートも出せる」

「――え、マジで? そんなのがあるんなら俺が食べたい」

 思わずテーブルの上に身を乗り出す。

「お前はダメだ。このあいだ夜中にアイスクリームを一気に三パイント〔約1.5L〕食べただろう。……よく太らないな」

「成長期なんだよ」

 俺はちょっと申し訳なさそうに肩をすくめた。

「ねえ……また俺の食費のせいでヤバいの? ニックに血を売るとか言わないよね?」

「なんてことを言うんだ。彼だってそんなつもりはないだろう」

 あいつなら喜んで出すと思うけどな、とはさすがに言えなかった。

「このあいだあいつに、少しは施しをしろよ、誰かから騙し取ったんなら四倍にして返せっていうだろ、って言ったら、お前は聖人の家に奉公する女中か、って言われたんだよな。聖人の家ってのはわかるんだけどさ、俺はメイドじゃないよね?」

 クリスは笑い出した。

「ああ、それはね……」

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