[2]
〈現在〉
渓谷を覆う重苦しい雲の底に雷鳴に似た音が響き渡った気がした。
ビショップはライフルの照準器から眼を離して顔を上げる。大口径ライフルの銃声にも似ていた。金属の塊どうしが衝突したような音にも聞こえた。
音が響き渡ったのは一瞬だった。余韻も無かった。だが、ビショップは全身に鳥肌が立つような戦慄を感じた。脳裏で何かが捻じれ、引き裂かれた。噴き出す血まで見えた。悲鳴のような音まで混じっていたような気がする。
「どうかしたのか?」
左隣でうずくまっている観測手のヴィレム・デ・ゼーヴが押し殺した声で訊いた。2人は今、擬装用ネットに全身を包んでいる。人間らしい輪郭を全て消し去った状態で大声を出すバカはいない。ビショップは低い声で答えた。
「何か聞こえなかったか?」
「いや」
息を殺して見つめるデ・ゼーヴの視線を感じたが、ビショップは構わず曇天を見上げつづけた。今までに味わったことのない感覚に襲われている。胸の内側が大きく抉られたような空漠感。地面が割れ、暗闇に落ち込んでいくような不安にすっぽり包まれた。無意識に唇が動いていた。
《死の陰の谷を行く時も、私は災いを恐れない。貴方が私とともにいてくださる》
声を出さずに胸中で祈りを捧げる。意味は分からない。もしかしたら意味など無いのかもしれない。
「大丈夫か」
「ああ」
響き渡った音が一瞬で空いっぱいに広がったのと同じように空漠感も不安もあっという間に退いていった。何かの知らせだったのだろう。ビショップはそう思った。
耳を澄ませる。渓谷を抜けていく風の音だけが聞こえてくる。
渓谷は南北に開けている。北の開口部が海に続いているため、常に風が吹き込んでいた。昼夜で風の方向が全く変わってしまう。ビショップとデ・ゼーヴは目標―教会の北側、やや西よりの山間に潜んでいた。目標までの距離は457メートル。今は北よりの風が吹き込んでいるため、射線に対して斜め左から追い風になっていた。
ビショップはリンベルクTRG-42に取り付けた照準器に眼を戻した。円形のレンズに教会の入口が見える。ライフルも全体のシルエットを消すため、ボロ布が巻きつけてあった。照準器は中綿が入ったカバーで覆っている。
荒れ果てた渓谷に石造りの教会がポツンと佇んでいる。3日後の夜、あの教会にビショップが暗殺する標的が姿を現わすことになっている。連邦軍の情報部は標的に《軍師》という
《軍師》は連邦軍の暗殺対象者リストで常に最上位に書かれていた人物である。今まで幾度も暗殺作戦が行われてきたが、全て失敗に終わっていた。2か月前、連邦軍に《軍師》がこの星―ダマガラム星系第3惑星マイナサラに姿を現わすという報告が届いた。帝国軍に潜伏する
マイナサラは開発途上の星で連邦軍と帝国軍の駐屯地があり、何年か一度に思い出したように両軍の間で低強度紛争が起こる。《軍師》がマイナサラを訪れる理由は不明だが、対連邦軍工作の指揮を執ると見られる。
連邦軍に《軍師》の動静を伝えた内通者は殺害されたと思われる。敵の苛酷な尋問に耐えかねて全て自白したと考えた方が良い。ならば、《軍師》は自分が狙われていることに気づいているはずである。予定通りにマイナサラに姿を現わさないかもしれないし、何かしら対抗手段を採るはずである。
「それでも貴官はやるか」
半年前に《軍師》の暗殺を命じた上官はビショップに問いかけた。
「やります」
ビショップは迷わず答えた。
教会は町の外れに建っている。帝国軍の兵士や車両が近くの道路を全く通らないわけではない。だが擬装用ネットで全身を包んでいる狙撃手であれば、ほんの目と鼻の先に潜んでいても発見される可能性は少ない。
「2時の方向。手前、200メートル」
双眼鏡を覗いているデ・ゼーヴが言った。ビショップはライフルを動かし、デ・ゼーヴが指示したポイントを見た。円形の視野に黒い装甲車が入って来る。車体を揺らしながら、荒れた道路を走っている。装甲車のテールランプが赤く光り、道端に停まった。
装甲車のガラス越しに運転している帝国軍の兵士が見える。くすんだ灰色の野戦服に包まれた腕が太い。
「いつもの連中だな」
「ああ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます