ゾンビ学基礎Ⅰ

牛尾 仁成

ゾンビ学基礎Ⅰ

 キーンコーンカーンコーン。予鈴が鳴り響く講義室にはゾンビたちがひしめいていた。


 皆一様に肌の色が悪いがゾンビだから当然だ。灰色の肌に皮がめくれて、筋肉の繊維が見えているやつもいる。最近のトレンドとして眼球を飛び出させて、顔面に吊るすことが流行っているらしいが、俺にはよくわからない。


 教壇の横の扉が開き、教授が入って来た。普通に身長が3メートル近いので、最初は這って講義室に入って来た。眼鏡をかけている以外昔の映画で見た緑色のスーパーヒーローにそっくりだった。


 その巨体のどこから出るのだろう、と思うほど小さな声で「はい、それでは授業を始めますよ」とだけ言って、さっそく板書のためその巨大な手に小さすぎるチョークを器用に握った。ああいう全身筋肉で出来ていると力加減を間違えそうだが、教授はこれまた器用かつ流麗な文字で講義の内容を板書し始めた。


「えー、今日はゾンビの歴史についてです。皆さんもご存知のとおりで、我々ゾンビが人間に代わってこの星の事実上の支配者になったのは今から百年前です。人間が作り出した生物が我々ゾンビですが、我々は特に苦労せずに万物の霊長になりました。つーか、なってしまったのです」


 ゾンビは元々は人間の空想から生まれた架空の生き物だった。ウィルスだったり薬品だったり、特殊な方法で人間を不死身のような状態させることだ。ゾンビとなった者が人間を噛んだり、引っかいたりすることによってゾンビは増える。知性は無く、生物であれば手あたり次第に襲うが、何故かその対象は人間が上位になるようになっていたらしい。ゲームや映画といった人間の娯楽の中にいた時の話である。


 しかし、ある時本当に人間はゾンビを開発してしまった。どうやって、とか何故とかいうのは小難しくてよく分からなかったが、要するにたまたま偶然できてしまった我々の祖先は別に凶暴でもなければ知性が無い訳でもなかった。ただ、単純に人間に比べて強かったのである。


 生物としては死亡状態にあるゾンビはまず飲み食いをしない。そして排泄もしないから代謝をおこなわない。そのくせ傷つくとすさまじいスピードで細胞が修復する。そしてそのスピードや適用を個人の判断で意識的に行うことができた。しかも知性や記憶は人間のままである。死亡しているから眠る必要もなく、また病気にもかからない、そして年をとらない。どうして意識があるのかとかいろいろな問題を無視してもあきらかに夢の様な新種の存在であることは明白だった。


 だから、100年前の人間は我先にと自分をゾンビへと変えていった。死の一字を克服したために、老いも病も超えてしまった存在に人間は憧れたようだ。こうなると、実は何か大きな落とし穴があって、というのは実によくある話だ。少しの数だけならどうという事はないが、たくさんの数が発生すると絶滅するようなプログラムがあったとか。でも、今のところ大きな社会問題にはなっていない。それどころか、人間が持っていた社会の問題がほとんどなくなってしまった。食べなくていいからお金がなくても飢えない。病がなくなったので、どんなゾンビも活動できる。


 社会保障はそもそも必要なくなった。医療、介護、食に関わる全ての産業において大量の失業者が出たが失業して金が手に入らなくても飢えないから、失業した本人たちもそれほど焦らなかった。もちろん自己実現とかそういう個人的な問題は残っていたが、そもそもフィジカルが明らかに人間より強いので、危険な場所での作業なども一気にはかどることになった。


 ありとあらゆるブレイクスルーを可能にしてしまったため、次にゾンビと化した人間が取り組んだのが気候変動対策だった。というのも、その時点で想定されたゾンビという種を脅かすのは気候変動による津波や地震、台風といった惑星規模の巨大なエネルギー運動以外に考えられなかったかららしい。対策には失業した分野からの人的資源が凄まじい数で流入したため、嘘のように進むことになった。冷房も暖房も必要ないから結果として、ものの十年程度で平均気温が下がりはじめたわけだ。かつての農地や病院、老人ホームといった施設はことごとく緑の海に沈んだってわけ。


 ただ、ちょっとした問題も発生した。何かといえば、それは子孫の問題だ。ゾンビは生殖能力が無いから、子孫を作れない。ただ人間をゾンビに変えることはできる。そう、地球から人間が消えた今、地球上で活動しているゾンビだけが万物の霊長の座を担っていることになる。ちなみに俺たちのような若いゾンビ、というのは最後の人間がゾンビになった、という意味で若いと表現する。


 そんなことを1時間半きっかり、つらつらと講義した教授は講義の終わりに宿題を残していった。死を失った我々ゾンビがこの先するべきこととは何か、という問いである。ゾンビになっても宿題に追われる、というのも変な話だ。ふと、顔を横に向けると、隣の学生もそんなことを思っていたのか、心底ダルそうな顔で取れかけた下顎を元の位置に戻していた。

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ゾンビ学基礎Ⅰ 牛尾 仁成 @hitonariushio

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