朝の来ない夜はない
形、色、感触、美しいところ、枯れるところ、全て。
花が好きだと思う。
朝臣は鎌崎の結婚式のブーケやブートニア、花のトータルコーディネートを任されていた。話を貰った時、本当に依頼されるとは思わず「経験がありません」と答えた。専門業者に頼んだ方が予算は抑えられるだろうし、スムーズだ。しかし、鎌崎は譲らなかった。
「じゃあこれで失敗しても仕方ないし、成功したらすごいことよね」
その言葉を聞いて、流石優夜の相棒だと思った。
それに、乗っかってしまっている自分もいる。朝臣は閉店後、店に残ってそれを考えていた。
花の苗たちを入れて、CLOSEの看板に変える。シャッターは半分だけ閉めた。足元に弱く暖房を入れる。
床の上で丸まる。いつの間にか眠っていたようで、優夜は窓の外を見上げた。優夜のアトリエは静かだった。
秋の夜長。
どうしてかこの時期は、いつも身体と精神がごちゃごちゃに縛られたように、誰にも奪われるわけもないのに、盗まれるわけもないのに、動けなくて、辛くて、苛々して、ぶつけてしまいそうになる。
でも、ぶつけられない。
ぶつける方法が、分からない。
何も描けない。
――だって、あんな人いたら、
――なんで描かないのかも、一生分かんないままで!
起き上がる。
逃げるようにして、家を出た。
煙草を買おうとコンビニに入る。レジで会計をして外に出てから、ライターが無いことに気付いた。フィルムを噛み締め、周りに喫煙している人間はいないかと辺りを見回す。
コンビニの時計を見れば午前四時。まだ電車は動いていない。勿論歩いている人もいない。
ライターを買いにまたコンビニに入る気になれず、煙草を戻して歩き出す。宛もなく。
あの日は雨が降っていた。
どこへ行こうとしていたのか、そんなのは全く思い出せないけれど。
――死にたい夜は一緒に越えましょう。
どうして、言ったことは忘れてしまうのに、言われたことはこんなにも鮮明に思い出せるのか。
――描けない優夜さんのこと、俺はゆるします。
そうか。
ゆるせないのだ。
こうして描けない自分を、少しも、寸分も、ゆるせない。自分が一番自分をゆるせなくて、首をぎりぎりと絞めている。
もう死にそうだぞ、あんた。
そう言って、冷静な自分が嘲笑っているのが見えるのに。それでもゆるしてやれなくて、それでもどこかゆるしてもらいたくて。
ゆるしてくれる人が、居たじゃないか。
思い出して、歩を止めそうになる。
いや、それは酷く都合が良く、勝手すぎる盲言だ。第一、優夜はこの前朝臣を遠ざけた。朝臣には朝臣の人生があり、優夜の為に、消費して良いものではない。
夜は、一人でも越せるはずだ。
嘘だ。
たくさんの、死にたくて、明日も来ない夜を、眠らないままに越した。
自分の宣言した道を、自分のちからで、力強く歩く姿が、眩しく。
そして、それを認められず。
足が止まった。花の匂いに、右を向く。こんな暗い朝に光が漏れていた。シャッターが開ききり、その草木の中に、その姿が見えた。
目が合い、どちらも固まる。
「優夜さん」
朝臣が声を出したの先で、店の中から優夜の方へ出てこようとした。
「朝臣」
それを咎めるような声で、名前を呼び返す。朝臣はぴたりと止まった。
「朝臣はさ、描けないわたしのこと、ゆるしてくれるって言ってたけど。わたしは、やっぱり、そういう自分をゆるせない。そんな自分は辛くて、たまに殺してやりたくなる、ぐちゃぐちゃに」
優夜は左手を腹の辺りで握りしめた。
ハッと目を覚ますと時間が経っていた。時間を見れば午前五時過ぎ。外はまだ暗いが、もうすぐ通勤で道に人が出始めるだろう。
朝臣は暖房を切って、店のシャッターを全開にした。秋の朝の、冷たい空気が流れ込む。
開店まで帰って家で寝ようか考えていると、目の前で人が立ち止まった。
青いシャツに、黒いスキニーパンツ。足元はスニーカーでなくサンダル。優夜によく似ている服装だ。薄い色素の髪の毛を見てみれば、優夜だった。
夢か?
夢、ではなく?
スイーツビュッフェのチケットを貰ったきり、一度もその姿を観ることはなかった。鎌崎から様子は聞いていたが。
夢でなければ、何故ここに。
「――殺してやりたくなる、ぐちゃぐちゃに」
何故、泣いて。
秋の夜には、薄着すぎる。足元もサンダルで裸足で、細い足首が折れそうだ。
「それでも、ゆるせる?」
泣きながら、優夜は尋ねる。
闇の中、消えてしまいそうで、その腕を掴みたくなる。朝臣が一歩出ようとすれば、優夜はそれから一歩退がる。
「そこで、こたえて」
泣きながらも、その一線を引く。
明るい場所と、暗い場所。こっち側と、そっち側。
朝臣は優夜にそう言われれば、その手を取ることは出来ない。再会したあの日と同じで。
「優夜さん」
出来ない、のではなく、勇気が無かった。
手首を掴む。ひんやりとしたその体温と、 薄さを感じさせる皮膚と、その下を通る血管の数。
それを引き寄せて、光の下へ。
こんな、簡単に。
ぽす、と簡単に朝臣の腕の中に入った。
「つめた、なんでこんな薄着で……早く入ってください」
「え、い、いかない」
「風邪ひきますって」
今更足を踏ん張る優夜だが、もう遅い。朝臣は背中へと回り、シャッターを下ろした。それから優夜の背中を押す。
朝臣が座っていた場所を通り抜け、バックヤードへと優夜を入れる。暖房を持ってきて、パイプ椅子に座らせたその足元につけた。
「これ最初弱いんですけど、暖かくなるんで」
「……うん」
すんすんと鼻を啜る優夜にティッシュケースを渡す。インスタントのコーヒーと共に。
休憩に入るのは大抵一人なので、パイプ椅子はひとつだ。朝臣はしゃがんで優夜の顔を覗いた。
「優夜さん、俺は」
涙腺が壊れたのでは無いかという程、未だ泣いている。優夜は朝臣を見る。
「優夜さんが好きなんです」
「……こんな、べしょべしょに泣いてるアラサーが?」
「はい。こんな、夜更けに散歩してふらりと現れて、薄着で、泣いてる人が」
詳しく説明され、優夜は小さく唇を尖らせる。
「本当に好きなんです」
余りに穏やかに笑うので、優夜の涙は止まった。
もう何に泣いていたのか半分忘れている。
「だから、ゆるしますよ。優夜さんが自分のことをどんなにゆるせなくても、殺したくなっても、殺したとしても。その度、俺は何度も優夜さんを生き返らせます」
「……どうやって?」
「……お湯をかけたり?」
「わたしはカップ麺か」
「毛布をかけてみたり」
「赤子かよ」
「鉛筆とスケッチブックを用意してみたり」
朝臣は優夜を見た。優夜は口を結んでから、噴き出すように笑った。
「描かせるつもりか」
描けないと泣いているのに。残酷な人間だ。朝臣は苦笑する。
「だって優夜さん、描きたいんですよね? だから描けないって悩んでるんですよね」
しゃがむのに疲れて、朝臣は床にあぐらをかいた。優夜は瞳をぱちくりと瞬かせる。
「そっか、わたし描きたいんだ」
今更な言葉に朝臣はきょとんとする。
「描きたくなかったんですか?」
「いや、結婚がどうだとか家がどうとかライター買い忘れたりで、苛々してた」
「……結婚? ライター?」
ぴしりと固まって聞き返す。当人は泣いてすっきりしたようで、コーヒーをぐびりと飲み干した。
「優夜さん、結婚するんですか?」
「しねえよ。ねえ朝臣」
「あ、はい」
「今度中華食べに行こうよ」
からりと笑った優夜に、朝臣の方が泣きそうになった。
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