月夜に釜を抜かれる
考えてみれば、結局着飾って北京ダックを食べに来てしまっている。
優夜は昼の火霜との会話を思い出す。尤も、ここで北京ダックが食べられるかどうかは分からないが。
今日は阿多良が学会でこちらに来るというので、鎌崎が食事をセッティングした。阿多良は今の優夜のスポンサーでもあるので、報告というのもあるのだろう。そうしなくとも、阿多良の耳にも優夜が今何も描いていないことくらいは伝わっているだろうが。
優夜の視線は夜景に戻ることはなく、一方で同調的な返答を皮切りに、黎子は優夜へ質問する。
「優夜さんって結婚されてるんですか?」
「してません」
「え、じゃあ独身で画家やってるんですか? すごーい。食べていけるものなんですね」
急に学生のようなライトな返答になり、優夜は目を瞬かせる。黎子はメニューを置いて、椅子に背中をもたれた。
「いいなあ。でも私は早く結婚して、早く仕事辞めたい。そう思ったこととか、無いんですか?」
「養われるってことですか? それは無いです」
「優夜さんって綺麗だし、絶対今のうちに結婚した方が良いですよ。だって今も描いてないんでしょう? 絵はこれからも描けますけど、若さはどんどん無くなっていくばっかりだし。阿多良おば様も優夜さんも久遠の家から出てちゃんと自立しててすごいですよね、私も出たいなあって思うんですけど、なんかそこまでの情熱もなくて。だからずっと会ってみたいって思ってて」
捲し立てるように喋り出す黎子を止める術もなく、優夜は聞いていた。
画家をしている優夜に会いたかったわけではなく、単に久遠の家から出た人間として興味があったらしい。
頭のどこかで、本家にこんな年配女性が居たなあと考える。血は争えない。
「それなら、鎌崎も自立してるし仕事に追われてる」
「あー確かに、鎌崎さんもそうですけど。なんかちょっと、出たっていうか、あの人は出された側じゃないですか?」
「出された?」
「男性だけど、女性の格好してるんですよね? なんかちょっと変わってる人だって、本家でも話があがります」
黎子が頬杖をつきながら苦笑した。
優夜はその唇の動きをじっと見ていた。
「まあ分家の方だから居ても関わり無かったと思いますけど、正直同じ家じゃなくて良かったです。だってあんな人居たら、恥ずか」
「失礼致します。お連れ様が来られました」
ウェイターが個室へ、阿多良とその後ろに鎌崎を連れた。
「遅れてごめんなさい。東京の道混みすぎよ……」
「遅くなりすみません。鎌崎と申します」
「こんばんは! 久遠黎子です。お二人とも早く座って!」
先程まで喋り倒していた黎子はぱっと立ち上がり、二人を迎えた。阿多良にも、鎌崎にも、平等に挨拶をしている。
名刺交換をして、鎌崎は優夜の隣の席へ座った。漸くその表情を見て、ぎくりと固まる。
「……優夜? どうしたの?」
無表情かつ、その中に怒りが見えた。
「いや、何でもない」
「何でもないって……」
「二人とも、飲み物決まった?」
「白酒で」
「え」
途端に作った笑顔になり、優夜が阿多良へと伝える。
「飛ばしますねえ、鎌崎さんは?」
「あたしは、車なので烏龍茶で……」
「医師が居るなら安心して飲めます」
あはは、と優夜は軽やかに笑った。
助手席に沈む優夜を見て、鎌崎は口を開く。
「あんなに飲んだら気持ち悪くもなるわよ」
白酒を五杯飲んだ後、紹興酒を何杯飲んだのか。阿多良と黎子がそのままホテルに泊まるのでレストランの前で別れ、エレベーターの中で優夜は崩れた。
ヒールだが骨格的にも鎌崎は余裕で優夜の肩を抱いて車まで連れてこられた。
食事中も言葉少なで、明らかに機嫌が悪いことが分かったが、阿多良も黎子も気付かない程には取り繕い、よく飲みよく食べていた。
久遠からきたという初めて会った黎子もどんな女性かと不安だったが、阿多良の姪だからなのか久遠の教育の賜物なのか、礼儀正しく失礼のない人間だった。
しかし、絶対に何かあった。しかも聞いても言わないということは、優夜を逆さにしてもその理由を知ることは無いのだろう。
「……今日、遅くなってごめんね」
昼も優夜が珍しく画廊に来てくれたというのに。それもこれも仕事だから仕方は無いのだが。
「あんたはわたしの彼女か」
「良い息抜きに、なると思ったのよ」
「こっちは毎日息抜きだっつの。描いてないからな」
目を瞑ったまま優夜は言う。鎌崎はハンドルに手をかけたまま、黙り込む。
「普通に楽しかったよ。それで良いだろ」
「良くないわよ、楽しくなさそうだったし。怒ってる理由も教えてくれないし。なんで描かないのかもあたしは一生、分かんないまんまで!」
「頭に響く……」
「優夜はどうしたいの!?」
一見、男女の喧嘩に聞こえるが、二人は心の友と書いて心友である。そして仕事仲間だ。
鎌崎は優夜が描く為なら、手を尽くしたいと思う。優夜の描く絵が好きで、描いている優夜が好きだから。その為なら、蓬来山の玉の枝だって、どうにかして作るだろう。
でもそんなことを優夜は少しも望んでおらず、喜びもしない。
「どうしたらいいの……」
優夜は目を開いた。
駐車場の中、アルコールで脳みそが巣食われている中、隣で友人が嘆いている。
「わたしだって、泣いて描けるなら号泣してる」
頭を動かすと脳みそが揺れて気持ち悪い。それでも窓へと倒した。ドアの内張りに頬がつき、冷たく気持ち良い。
「昔から言ってるけど、待たなくて良いよ。鎌崎はさ、もっと……」
鎌崎は優夜の言葉が途切れたのに気付き、隣を見た。
健やかな寝息を立てている。それに溜息を吐き、できるだけ静かにエンジンをかけた。
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