ピースオブケイク


 横たわる。乗り板は白いキャンバスの上に浮かぶ小舟のようだった。その上に器用に収まり目を瞑る。優夜は眠ろうとしていた。


「オウちゃん、北京ダック食べないかい?」

「食べます」


 突然降ってきた質問に即答し、目を開いた。

 傍らにいつの間にか居た火霜が優夜を見下ろしていた。素早く起き上がり、靴を履く。その動きにくつくつと笑った火霜が杖をつきながら先に歩いていく。

 その斜め後ろをゆっくりと歩きながら、優夜は廊下から空を見上げた。頭の中で、何と何を混ぜればその色になるかは配合まで完璧に昔から分かった。誰に教わったわけでもなく、感覚的なもの。火霜は優夜の描くそれを「大事にしなさい」と言った一人だ。


「あー! 火霜先生、こんなところに!」


 前から元気な声が聞こえ、優夜は視線を廊下へ戻した。和泉がバタバタと走り、火霜の前で止まる。


「和泉くん、廊下は走らないように」

「それより先生、午後から会食ですよ。アイスエッグ社の取締役と」

「ああ、そうだったかね。今日はキャンセルで」


 恍けるように髭に触れながら窓の外を見る火霜。和泉は白目になりながらその腕を取る。


「前回もドタキャンしたじゃないですか! もう無理ですよ」

「倒れて運ばれたって言えば大丈夫だよ、きっと」

「その架空の理由がどれだけ業界を揺るがすか考えてください。桜水さんからも言ってください!」

「火霜先生が北京ダック食べさしてくれるって」

「食べる気満々だこの人」


 ああ、と大袈裟に天を仰ぐ和泉の姿がコミカルで面白く、優夜が笑った。火霜が肩を竦めて振り向く。


「あ、オウちゃんも一緒に来て北京ダック食べるかい?」

「ドレス着るなら行きません」

「やっぱり今日はキャンセルで」

「先生!」

「分かってるよ。じゃあオウちゃん、北京ダックはまた今度」


 はーい、と優夜は聞き分け良く返答した。和泉がほっとしたように息を吐き、優夜に小さく会釈をして火霜を連れて行く。その後ろ姿を見ていた。

 静かなアトリエにきちんと色はあった。靴にも、光のあたった壁にも、彫刻のひとつひとつにも、違う色があった。

 折角起き上がったのだから、とそのまま優夜はアトリエから出た。


 鎌崎を誘おうと考え、ギャラリーへ行くが、スタッフから不在を伝えられて後にした。都会のタイルの上をとぼとぼと歩き出す。ウィンドウショッピングする程、優夜はファッションには興味が無く、若者たちが並ぶようなカフェに入りたいとも思わず、結局駅前の高架下にある定食屋へと入った。

 鯵フライ定食を前に手を併せる。

 ご馳走様でした、と店を出たところでポケットからバイブ音がしたのに気付いた。驚いたことに携帯を携帯していた。着信相手は鎌崎だった。


「もしもし」

『携帯持ってたの? 珍しい』

「わたしも持ってたことに驚いてた。なに?」

『いや、お昼に来たって聞いたから。何か用事でもあったのかなって』

「昼飯誘いに行っただけ。もう食べた」


 電話の向こうの鎌崎は更に驚き黙った。優夜からわざわざ昼飯に誘うために、画廊へと赴いたなんて、十年に一度あるかないか。そんなことは露知らず、優夜は電話を切ろうとする。


「じゃあそれだけ」

『あ、優夜。今日の夜、阿多良さんと食事だからね』

「え、そうだっけ」

『忘れてると思ったわよ……。迎えに行けたら良いんだけど、ちょっと予定が押しそうなのよね。お店の場所、送ったけどわかる?』

「たぶん」

『こういう時、朝臣くんがいたら……』


 ぼやいた言葉は、上を走っていった電車の音にかき消されていった。

 うん? と優夜は尋ね返す。


『なんでもない。とりあえず六時だから』

「はーい」


 六時、きちんと優夜はネイビーのワンピースを着てホテルのエントランスで待っていた。髪をてきとうにまとめ、阿多良の姿を目で探す。鎌崎はやはり30分ほど遅れるらしい。

 入口近くにある大きな置き時計が六時を示す。それをぼんやり見ていると、視界の中に知らない女性が入った。彼女は優夜を見て、駆け寄る。


「蜂永優夜さんでお間違い無いですか? 私、阿多良の姪の久遠くどお黎子れいこと申します」


 にこりと美しい笑顔を見せた。優夜と同い年か少し下くらいの黎子は、優夜が何も言わずに目をぱちくりさせているのを見上げる。巻かれた髪の毛に意思の強さを感じる。

 何よりも、まさかここで聞くとは思わなかった、久遠の名前。


「どうも、初めまして」


 努めて穏やかに優夜は挨拶を返した。黎子は笑顔を絶やさず言葉を続ける。


「阿多良おば様に優夜さんとお会いしたいって承諾頂いたんです。肝心のおば様が遅れてしまっていて、すみません」

「あー……そうでした、ね?」


 そう言えばそんな話をされていたような気がする。一番当てにならないのは自分の記憶だと、優夜は考えるのを止めた。黎子は柔く優夜の腕を取った。


「先に行ってましょう。鎌崎さんも遅れるって聞きました」

「ああ、はい」


 レストランは15階の中華料理だ。

 ちょうど来たエレベーターに乗り、違う階で他の客が降りていく。優夜は小さくなっていく街の灯りと夜景を見下ろしていた。


「優夜さん、つきました」


 初めて会った黎子だったが、久遠の家で厳しく育てられたのだろう。姿勢にも気の遣い方にも無駄が無い。

 黎子の後についていけば中華料理店の個室へ着席し、ターンテーブルを前にわくわくするだけで済んだ。


「おば様、あと20分ほどで着くみたいです。渋滞してるみたい」

「鎌崎もそれくらいで着くと言ってました」

「飲み物、決めておきましょう」


 優夜はドリンクメニューをさっと見ただけで決め、窓の外の夜景に目をやっていた。


「綺麗ですね」


 黎子の、優夜の気持ちを代弁したかのような感想に、視線が戻る。


「……そうですね」


 よく知らない人間との会話の基本は同調だ、と鎌崎に言われたのを思い出す。そして苦笑した。

 優夜は夜景を見て、火霜の展覧会をやったあの庭園を思い出していた。

 朝臣と一緒に見たあの庭園。美しく咲く花もあれば、枯れている花もあり、虫に食われている葉もあった。それでも、遠くから見れば総じて美しく、整って見える。

 この夜景も同じだ。

 どんなに苦しんで、辛い目にあっている人間がいようと、遠目からでは総じて美しく、気にならない。

 残酷な夜景だな、と思っていた。




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