朝雨に傘いらず


 何が起こったとしても地球は周り、時間は経っていく。駄目になった筆を捨てた。物は人間と同じく年を重ねる。劣化する一方だ。

 劣化。

 優夜はぼんやりと駅ビルに入っていた無料の原画展を見ていた。名前の知らない画家の油絵だ。

 火霜の新作個展から帰る途中だった。圧倒的な画力に魅了され、今はただ打ちひしがれる。ああなりたいと思ったことは無いが、ああなれると思ったことも無かった。

 例え、誰に望まれようとも。


「良かったらこれ、パンフレットです。読んでください」

「あ、どうも」


 在廊していたことに気付かず、優夜は面食らった。受け取ったパンフレットをパラパラと捲る。原色使いが独特で、誰に憧れ何を目指しているのかが明確だった。

 人物紹介の欄に日本有数の美大の名前が記載されている。優夜はそれを閉じて、七畳程の会場を後にした。


 駅ビルの本屋へ入り、文庫本コーナーと新刊コーナーを一巡した。ふと目に入った旅行誌コーナーへ足を踏み入れると、見知った人物がいた。

 朝臣はぎくりと優夜を見て止まる。横には同い年ほどの女性を連れており、優夜は見なかったふりをするのが無難かと考える。


「優夜さん」


 その考えを見透かし一蹴するように朝臣は名前を呼んだ。


「こんにちは」


 驚くほど他人行儀な挨拶に、朝臣は距離を取られたことを察した。またしても人見知りか、と。


「私、あっち見てるね」

「あ、うん」

「じゃあ」


 女性が何かを感じ取ったのか、その場を離れようとするのと同時に優夜も二人から去ろうとした。


「優夜さん、あの」


 それを引き止めるように朝臣が立ちはだかる。


「個展とかの、帰りですか?」

「ああ、うん。火霜先生の」


 優夜はダークブルーのワンピースを着ていた。耳元に光るピアスの数々がきらきらと反射する。長くなった髪の毛をまとめて縛っているだけだが、美しかった。


「行かなくて良いの? 待ってるんじゃない彼女」


 彼女の去った方面を指す。その爪先には洗っても取れない絵の具の色。


「大学の時の友人です」

「一緒に旅行する友人が待ってる」

「一緒に……」


 次に指されたのは朝臣の持っていた旅行パンフレットと関西方面の旅行誌だった。


「ゼミの仲間と行く予定です」

「そうか。楽しんで」

「優夜さん」

「足痛いからもう帰る」

「スニーカー、買いに行きましょう」

「え?」


 朝臣は旅行誌を戻し、本屋を出る。優夜はまさかそう来るとは思わず、その後を追って裾を掴んだ。隣が靴屋だった。


「買わない」

「靴くらいなら俺にも買えます。あの頃は無理でしたけど」


 あの頃。それが高校生の頃を言っているのだと優夜にも分かった。

 遠い昔の記憶だ。


「それでも、要らない」


 持ってるし、と付け加えた。朝臣は小さく落ち込んだ様子を見せ、優夜は何をどうしてそれを回復させようかと悩んだ結果、小さな鞄からチケットを二つ取り出す。


「これ、あげる」


 某有名ホテルのスイーツビュッフェの割引チケット。火霜から貰ったもので、『カマちゃんとかと行っておいで』と言われたが、まあ良いだろう。

 朝臣はパチクリとそれを見る。二枚ある、ということは。


「あの子と行きなよ」


 上げて、落とされる。


「……いいです」

「え、いいの。絶対美味しいと思うけどな。アイスはダッツらしいよ」

「優夜さんが行ったら良いじゃないですか」

「……そうする」


 結局、鎌崎を誘うコースになった。

 まあ良いかとチケットを鞄に戻す。それを朝臣は見て、口を開いた。


「一緒に、行きませんか」


 勇気はいつも必要だ。それでも再会したあの夜よりはずっと言葉はかけやすくなった。

 もう曲がり角を曲がった先に優夜は住んでいない。鎌崎からランチに誘われない限り、優夜に会う術がない。

 今この状況がどれだけ恐ろしいものなのか、朝臣は思い知る。


「え、なんで」


 そう。この人は、いつもそうだ。


「行きたいならあげるって」

「俺は、優夜さんと行きたいんです」

「いや、なんで。わたし途中で甘いもの飽きて、ポテトばっかり食べると思うし」

「別に、最初からポテト食べても良いですよ」

「いやダッツのアイス食べるだろ」

「じゃあ行きましょう」


 言質を取った、くらいの勢いで朝臣は顔を輝かせた。それを見て、優夜は返答を間違えたことを知る。しかし、もう手遅れだ。


「いつ行きますか? 合わせます」

「いや、ちょっと待て」

「いつまででも、待ちます」


 それが脅迫に聞こえた、ような聞こえないような。

 いつまででも待つから、絶対行く。

 まるで飼い主との散歩の約束を待ち続ける忠犬だ。


「……行かない」

「え」

「はい、あげる。他の子と行っといで」


 鞄から再度出されたチケットを朝臣へ握らせ、優夜はその場を離れた。




 放置していた読みかけの小説を読んでいると、カツンカツンとヒールの音が聞こえた。その音に現実へ帰り、顔を上げる。


「携帯、出なさいよ」

「あー」


 パタパタと優夜は自分の身体のあらゆる場所へ触れるが、携帯の気配は感じなかった。きっと家に置いて来たのだろう。

 それでも火霜のアトリエにいることを推察した鎌崎に称賛を送るべきなのだろう。しかし、優夜は時計を見上げてその気は失せた。


「もう。ランチ行かない? 美味しいパスタ屋さん見つけたのよ」

「朝臣いるなら行かない」

「え」


 最初に朝臣の名前が出たことにも驚き、更に『いるなら行かない』という言葉にも驚いた。

 鎌崎は様々な可能性を考えるが、それよりも尋ねる方が早いと結論づけて口を開く。


「何かあったの?」


 この前一緒に洋食を食べたときはあの頃のように普通に会話をしていた。

 優夜は静かに鎌崎を見ていた。それが酷く、恐ろしい。


「鎌崎さ、朝臣に何させたいの?」


 そう問われ、止まる。

 自分のアトリエにも居らず、恩師のアトリエの隅で絵を描くこともせず小説を読む優夜。鎌崎にとって唯一の心友であり、仕事仲間であり、家族と相違ない存在。


 優夜に絵を描いてほしいだけだ。


 それがきっと、優夜にばれている。


「良いじゃない、一緒にご飯食べるくらい」

「それは良いけど、鎌崎がそうしたいなら。でもあんな子供で遊ぶなよ」


 子供"と"ではなく、子供"で"。

 鎌崎は優夜の残酷さに時折震えることがある。いつもは見えない線を、くっきりと引いて来ることがある。


「朝臣くんはもう子供じゃないと思うけど」

「朝臣には朝臣の人生がある」

「その人生で選択して、そこにいるんでしょう」


 いつか聞いた、選択した上でここにいる、という言葉を思い出す。あの頃、鎌崎にとっても朝臣は子供だったが、今でも思う。


 あの頃、朝臣が居なければ今の優夜は居ないのでは、と。


 朝臣が優夜を好きだという事は否定もしないが、優夜に無理強いするつもりない。しかし、優夜には朝臣が必要なのではないか、と思うときが無いわけではなかった。

 他人によって怯むことのない優夜が、朝臣に告白されたときだけは例外に、参っていたのだから。


「巻き込むのはどうかと思う」


 当人はそれに気付いていないようだが。


「……あたしの数少ない友人なんだから、そんなに邪険にしないでよ」


 鎌崎がぽつりと零せば、優夜は黙った。

 歳も性別も関係なく、連絡を送ると返してくれる優しい友人だ。優夜に、そんな優しい友人は勿体無いくらいだが。


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