冬の雪売り


 ふあ、と猫が欠伸をする。かれこれ二時間程ここに座っていると、猫の方も人間扱いをしなくなるのか、陽だまりの場所へ座って寛いでいた。

 優夜の座る位置は日陰になっており、猫へ顔を向ける。毛先や髭先にきらきらと光の粒が見えた。目を細め、優夜も欠伸を噛み殺す。それから漸く立ち上がった。


 いきなり動いた人間に猫は警戒し、ベンチからさっと降りてどこかへ行った。公園内は早朝なのもあり、ランニングやストレッチで使う人以外は現れず、静かだった。時折、部活動の朝練があるのか、公園の外の道を歩いていく学生たちの姿が見える。


 優夜はとぼとぼ歩き、アトリエとして借りている火霜の作業場へ帰った。手を洗い、最初にコンビニで買ったパンを食べる。五個入りのクリームパンだ。齧った場所からカスタードが舌に当たり、脳みそが幸福を感じる。


「おはよーございます」

「おはようございます」


 後から入ってきて眠そうな声で挨拶するのは同じくアトリエを借りる画家の和泉いずみだ。去年美大を卒業し、ここで作業をしている。スペースはひとつなので、人が来れば分割する。火霜の若い画家を育てるという一環で、ツテがあれば只で借りられる。

 優夜も作業場は持っているが、マンションの一室ということもあり、画材などの持ち運びの観点から火霜に場所を借りた。


「今日も一日、がんばろー」


 和泉は一人そう言い、キャンバスに向かった。いつものことだ。

 優夜はクリームパンを全て平らげ、次に缶コーヒーを飲んでから、白いキャンバスと向き合う。とりあえず裸足で乗り板に乗ってみる。


 立ちはだかるのは、いつも白い壁だ。


 その壁と向き合うとき、優夜はいつも一人だった。

 絵具は使っていたものの半分以上は駄目で、買い足した。久々に入った自分の作業場には描きかけの絵があったが、何を描こうとしていたのかは思い出せなかった。置いてきた二年前の自分と対話出来たなら、救えるだろうか。いや、そうしたらこの二年が無くなってしまうな。

 白いキャンバスを見下げた。


「真っ白だね」


 その声に、優夜は振り向く。火霜が立っていた。

 乗り板から下りて、挨拶をする。


「おはようございます、早いですね」

「君の絵が見られるのかとわくわくして」

「単に起きちゃっただけでしょ」

「そうそう。老人は朝早いんだよ」


 鎌崎が居たなら、今頃優夜は頭をひっぱたかれていただろが、火霜は楽しげに笑うだけだった。


「描きたいものが、ありすぎて、決められなくて」

「それは贅沢な悩みだ」

「嘘です。描きたいものがあるんだけど、描けるかどうか分からなくて、怖い」


 優夜は小さく笑った。笑って言わないと、泣いてしまいそうだった。

 唯一同じ芸術家の火霜に、弱音を吐く。


「描きたいものを描きたいように描けなかったら、どうすれば良いですか?」


 目元を覆っていた手を離して、火霜を見た。

 火霜の表情は変わらず、笑い皺を残し、目を細める。


「何度も描けば良い」


 笑っているのではない。

 嘲笑っているのだ。


「躊躇っている間にも時間は流れる。時は金なり、だ。描けなかったら、そんなことに絶望してる余裕なんてあるのなら、何度だって描いて描き直せば良いんだよ」

「……はい」

「オウちゃん、君は確かに天才だけれども、自分で自分を天才だと認めちゃ駄目だ」


 その言葉に顔を上げる。


「自分を天才だって思ったことは無かったけど……確かに、今のは天才みたいな発言だったかも」

「でしょう? 人間は驕った途端に成長しなくなる。和泉くん、君もだよ」

「は、はい!」


 耳を欹てていた和泉が背筋をピンと伸ばした。その様子に火霜は豪快に笑う。


「でも成長だね。オウちゃんが他人の言葉を素直に聞くなんて」

「わたし、そんなに反抗期ばかりでしたかね」

「前の君はまず、私にそんな質問をしてくれなかっただろうね。オウちゃんはこの二年で、何が変わったんだい?」


 優夜は二年前の秋のことを思い出した。

 世界の大半が白黒になり、もう絵が描けないと鎌崎の前で泣いたこと。それから約一年、燻った思いと共に世界から目を背けたこと。

 そして二月の終わりに引越し、朝臣に出会った。花を大事に育てる、少年と。

 夏には女子高生に絵を教えて、秋には絵画教室の先生に会い、冬には両親を知る親戚と話すことが出来た。色を少しずつ取り戻していき、今ここにいる。


「髪が、伸びました」


 首を緩く振ると後ろで一つに結んだ髪が揺れた。

 その答えに、火霜は噴き出すように笑った。



 大晦日になった。両親は揃って年末年始に帰国する予定であり、雅史は町内会の忘年会で忙しくしている。クリスマスから一週間、鎌崎とは何度か夕飯を共にしたが優夜には会っていない。


 優夜が朝臣と夕飯を一緒に食べなくなったのは、優夜の様子を見に行く必要がなくなったと判断したからだろう。交換条件を出したのは朝臣なのに、先にそれを切られるとは。鍵は鎌崎に返した。驚いた顔をしていたが、すんなり受け取られた。

 クリスマスは休みでは無かった予備校も、年末年始は閉まっていた。家でゆっくり休むような気持ちにもならず、朝臣は花壇を前にしていた。

 何か種を撒くか、それとも植えるか……。木枯らしが耳にくる。


「あ、朝臣」


 声がした。振り向く。


「大家さんどっか行ってんの? 知り合いから酒貰ってさ、渡そうと思ったんだけど」


 優夜がいた。

 一月は見なかったその姿に、朝臣はぽかんと口を開く。


「聞いてる? 寝てんのか」


 その口の悪さはまさしく優夜だ。

 長くなった天然の茶髪が後ろで一つに束ねられている。


「……可愛いですね」


 それを見て、最初に口から出た言葉がそれだ。

 怪訝な顔で優夜が首を傾げる。


「なにが」

「……ポニーテールが」

「邪魔だから結んでるだけだけど」

「……爺ちゃんは忘年会です。夜に帰ってきます」

「忘年会か。鎌崎もそう言ってたな」


 吐いた息が白い。優夜は階段に足をかけてから、気付いたように振り向いた。


「朝臣、今日予備校ないの?」

「年末年始は休みです」

「じゃあ蕎麦食べに行こうよ。あ、腹空いてない?」

「いえ、空いてます」


 おやつ時だ。起きるのも遅く、昼も食べていなかったので丁度良い。

 家に荷物を置いた優夜はすぐに下りてきた。駅の方へ歩いて蕎麦屋に入る。中は盛況だった。

 未だ優夜がここに居るのが信じられず、朝臣はその姿をじっと見た。鎌崎から元気だとは聞いていたが、確かに元気だ。


「鴨一枚ちょうだい。この海老天一本と交換」

「どうぞ」


 朝臣の鴨南蛮蕎麦から鴨肉を取っていくくらいには。


「絵は、描けましたか」


 茶色い髪に、赤い髪ゴムが映えている。優夜は箸を止めて朝臣を見た。


「全然。でも年末年始はアトリエ閉めるって言われて追い出された」

「あのマンションで描いてるんじゃないんですか?」

「なんでわたしの作業場知ってんの?」


 はっと口を閉ざそうとするが、もう遅い。朝臣はおずおずと口を開く。


「……言いたくないです」

「なんで?」

「大葉くれたら喋ります」

「ちょっと待って。検討する」


 検討するのか、と朝臣は少し笑う。いや、大葉と交換される理由もどうなのか、それよりも交換されない場合はどうするのか。

 優夜は大葉の天ぷらを半分に割り、半分を朝臣に寄越した。


「あげる。まあ食べな」

「いや、欲しかったわけじゃないんですけど」

「ちゃんと食べて大きくなれ、青年」


 言われた通り、朝臣は大葉の天ぷらを口にする。

 同じような言葉を前にも言われた。モンブランを食べていたときだ。口に栗を押し込まれ、いや、あの時は。


『ちゃんと食べて大きくなれ、少年』


 あれから半年経ち、少年から青年に変わっている。

 それに気付き、朝臣は優夜を見た。


「優夜さん、いつ帰るんですか?」

「蕎麦食べたら帰るけど」

「もう帰るんですか」

「年末セールにでも行きたいのか」

「セールは特に……神社とか」

「それなら夜出て二年参りしようよ。でも受験生か。やめと……」

「行きます。というか、夜……アトリエに帰らないんですか?」


 きょとんとした顔と視線が合う。朝臣の質問に優夜は二度瞬く。


「わたしの帰る家は一つだけど。それにアトリエは年末年始閉まってるんだって」


 優夜の帰る家は、あの階段の軋む、ボロくて、朝臣の育てる花壇があるアパートひとつだ。どこに帰らせるつもりだ、と呆れたように笑った。


「そう……ですよね」


 鴨南蛮蕎麦に視線を落とした。ぐっとこみ上げる何かを抑えて、朝臣は蕎麦を啜った。海老と大葉の天ぷらも食べた。



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