曼倩三冬


 年末の歌番組が始まった頃に、少し酔って機嫌の良さそうな雅史は帰ってきた。優夜の姿を見て、「おう、ただいま」と軽く言う。


「大家さん、おかえり。酒、台所に置いた……蟹!」


 何やら大荷物を台所へ持っていくのを見て、その後に続けば、物置になっている食卓テーブルに広げられた蟹。優夜の声に朝臣も立つと、そこには発砲スチロールに入れられた蟹があった。


「ビンゴ大会で当てた」

「最強だ」

「爺ちゃんは昔から勝負事に強いんですよ。この冷蔵庫も福引です」

「え、不動産じゃなくてギャンブラーが向いてたんじゃない?」

「金には興味ないからな。蟹鍋にするか」

「やったー! 蟹!」


 カセットコンロの上に鍋が置かれ、歌番組を見ながら夜は更けていく。雅史は大晦日も変わらず同じ時間に就寝し、朝臣と優夜で鍋の洗い物を終えた。

 歌番組を見終えないまま、家を出た。昼間とは違う寒い空気に、耳が凍える。

 スタンドカラーコートを着た優夜は首を襟に竦めながら空を見上げた。無数の星に目を煌めかせる。


「流れ星見えるかな」


 子供のようなことを言う。


「何か願い事でもあるんですか」

「そりゃ一杯あるだろ。億万長者になりたいとか、美味しいものを食べたいとか。朝臣は無いの?」

「あり……ますけど」


 ちら、と優夜を見て歩き始める。


「お、また黙りか。思春期だな」

「鎌崎さんみたいなこと言わないでください」

「どんな会話してんだよ。猥談か」

「違います」


 断言した。優夜はポケットに手を入れてその斜め後ろを歩く。ふーん、と興味のない返事が聞こえ、朝臣は歩を緩めた。

 隣に並ぶ。


「親いつ帰るの?」

「明日の夜にこっちに着くみたいです」

「朝臣ってよくグレなかったな」

「グレるって」

「バイク乗り回したり、酒煙草賭け事、夜遊び回ったり。これだけ放任でさ。わたしですら年末年始は大雪でも帰って来いって言われてたのに」


 暁も言われており、実家に揃っていた。

 今はもう集まることはない。暁は常に繁忙期だ。


「素質が無いんですかね。あとあんまり興味がない」

「へえ、寂しくないのか?」


 そう尋ねられ、考える。

 一人でいることに、抵抗を覚えたことがない。寂しいと泣いたこともない。


「いや、朝臣はあれだよな。ちょっと鈍感」

「え」

「寂しくないわけない。だって最初に会った時、おかえりって言ったら嬉しそうな顔してた」


 二月の終わり。朝まで降った雨が止み、花壇の様子を見に行った。その淵でしゃがむ優夜と目が合った。

 優夜は朝臣をアパートに住んでいる少年だと思い、挨拶をした。


『おかえり』


 一方朝臣はその言葉にどう返して良いのか考え、やはり、


『ただいま、です』


 と言ったのだ。帰る場所では無かったが。


『わたし、この前、部屋に引っ越してきた蜂永優夜』

『染川朝臣です。ここの大家の孫で、高二です』

『あ、そうなのか。わたしは画家』


 画家。絵を描く仕事。朝臣は生まれて初めて画家に出会った。

 初めて会った画家から『おかえり』と言われた。

 実際、とても嬉しかった。他人から、無条件にそう迎えられたことが。


「うわ、すごい行列」

「本当ですね。俺、初めて来ました、二年参り」

「わたしも」

「なんか、楽しいですね」


 神社の前の列に並ぶ。たまに前を通るが、大晦日深夜にこんな人が来ているとは想像もつかなかった。朝臣は深夜に人が集まり、がやがやと話しながら列を作る様子に少し笑う。

 それを見て、優夜は肩を竦める。グレる素質が無かったのではなく、その機会が無かっただけなのかもしれない。そういうことに誘ってくる友人が居なかったのも恵まれていたのか、それとも運が良かったのか。


「優夜さん、甘酒売ってます」

「え、飲みたい」

「俺買ってきます」


 人の波を掻き分け、器用に列から出ていく朝臣の後ろ姿を見る。道脇には露店が出ており、香ばしいソースの匂いや甘い香りが蔓延る。あれだけ蟹を食べたのに、まだ食べようと思えば食べることの出来る優夜の胃袋はブラックホールだ。


 前に並ぶ人々を見る。優夜の後ろにもどんどん列は繋がり、長くなっていった。この列に並ぶ殆どが、物申すというのだから、神様も忙しいだろう。全部を聞いている余裕はない。


「買ってきました」

「ありがと。あー寒いし、熱燗飲みたい」

「それは我慢してください」


 はーい、と言いながらコップに口をつける。優しい甘さが口に広がった。


「新年か……ずっとここに居て遊んでたい……」


 鼻を啜りながら優夜が言う。朝臣はその横顔を盗み見た。


「絵、描くんじゃないんですか」

「描くよ。描くけどさ、思う通りに描けなくて、嫌になっての繰り返しで。昔の自分がどうやって絵描いてたのか知りたいくらいだ」


 手の中で紙コップを回す。


「それでも、わたしは画家だから。描けない自分は許せない」


 許す。

 許せない。


「描けなくても、良いじゃないですか」


 朝臣は飲み干した甘酒のコップを握っていた。じわりじわりと列が進んでいく。


「描けない優夜さんのこと、俺はゆるします」


 優夜が顔を上げる。視線が絡む。

 許したい。

 ふ、と緩く静かに微笑んだ。


「そんなことを言ってくれる人間に、初めて会った。鎌崎には絶対に描けって言われてきたし。それが嫌だったわけじゃないけどさ」

「辛いなら……ずっと、ここに居たら良いのに」

「じゃあ、朝臣だけは許してよ」


 許されたい。


「描けないわたしのこと、許していて」


 前の方で並んでいた学生たちがカウントダウンを始める。三十から。それによって周りがそわそわし始めた。


 朝臣は優夜の笑顔を目に焼き付けた。

 自分だけは、許していよう。描けないと泣いていた優夜のことも、これから描けないと言うかもしれない優夜のことも。


「はい、永遠に」

「誓いじゃねえんだから」


 あはは、と楽しげに笑う優夜につられるように朝臣も笑う。


「三、二、一、ゼロー!」


 遠くで鐘が鳴る。口々に明けましておめでとう、と言い合う。

 参拝を終えると優夜が御守を買う列に消え、朝臣は少し離れた場所に立っていた。

 とん、と肩を突かれて振り向けば、マスクをした香波がいた。ひらひらと手を目の前で振っている。


「あけおめ! 染川来てたんだね」

「土暮、おめでとう」

「優夜さん!」


 ひょこ、と染川から体を逸して嬉しそうな声を出す。その視線の先に居た優夜が香波を見つけて、軽く手を挙げた。


「久しぶり。つか、受験生が出歩いてて良いのか」

「お久しぶりです! 元旦くらい休んで良いんですよ。予備校も閉まってるし」

「風邪ひかないように」

「はーい。じゃあ、今年も宜しくお願いします! あ、染川も!」


 ひらひらと再度手を振って香波は一緒に来ていた家族の元へ戻っていく。途中から朝臣なんて眼中になかった。

 残された優夜が朝臣に「はい」と白い紙袋を渡す。


「誕生日、おめでとう」



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