晴雲秋月
「猫、見に行きませんか?」
家で小説を読み漁っていた優夜は、朝臣の言葉に顔を上げる。
「行かない」
「うちの学校、今、文化祭なので出入りできます」
「……行かない」
「俺の気分転換に付き合ってください」
二度目の躊躇いを見抜かれた。
英単語帳を閉じて、朝臣は立ち上がった。雅史の家で制服に着替え、優夜の家に戻る。玄関でスニーカーを履く優夜の姿があった。
あれから鎌崎とは会っておらず、優夜は心が沈んでいた。その横で勉強をする朝臣が気付かないはずもなく。
「猫、何色?」
「確か、黒だった気がします」
「撫でられるかな」
先程行かないと言った口だが、全てを覆してご機嫌に歩き出す優夜。秋雨前線は通り過ぎたらしく、今日は秋晴れ。文化祭日和だ。
迷いもせず優夜はするすると高校までの道を辿り、正門の前でその装飾に立ち止まる。
「文化祭っぽい」
「文化祭です」
その横を通った朝臣に着いていく。自分のクラスへと客引きする男子生徒や、手作りの屋台でクレープなどを作っている女子生徒が視界に入る。
優夜には殆ど文化祭の記憶は無かった。この時期はコンクールが近く、クラスメートも自分も狂ったようにキャンバスへ向かっていた。
「文化祭ってこんななのか……朝臣は何もやらなくて良いの?」
「三年は展示なんで、夏前に授業で調べてまとめたやつが貼られてるだけです」
「受験勉強優先ってことか」
ふーん、と言いながら優夜はぺらぺらと入り口で貰ったパンフレットを捲る。
「猫はあっちです」
「行こう」
朝臣について行けば、校舎裏へと辿り着く。喧嘩も男女の修羅場もなく、静かだった。倉庫があり、横に文化祭で出たのであろうゴミ袋が積まれている。
優夜は倉庫の横あたりに撒かれたキャットフードの残りを見つけた。餌やりで問題になったと聞いていたが、未だに続けられているのか。それとも違う生徒が続けたのか。
「あ、いました」
その言葉に顔を上げる。朝臣の視線の先には黒い猫がのんびりと毛繕いをしていた。
「ふわふわしてる」
優夜の声に、二人の方を向いた。猫は毛繕いを止め、行儀良く座る。ふと優夜は振り向き、猫の視線の先を辿った。
校舎の角から、二人の男子が漫画のように顔を出していた。朝臣も気付き、振り向く。
「あ」
「あはは……」
「こんにちは」
へらへらと笑ったのは白木、挨拶したのは高梨だ。
優夜は色素の薄い目をぱちくりさせてから「こんにちは」ときちんと返した。育ちの良さなのか、性格の単純さなのかは、謎だ。
目の前にいた猫は警戒しながら高梨たちを見てから、ぴゅっと倉庫の裏を抜けて木の茂る裏へと走って行ってしまった。
「行っちゃった」
「行っちゃいましたね」
「なんかすみません」
「ごめんなさい」
「いや、見られただけで十分だ。朝臣の友だち?」
笑って優夜は立ち上がる。
「高梨と白木です。クラスメートです」
「あ、もしかしてバスケ仲間?」
指をパチンと鳴らして尋ねる。驚いた顔をした朝臣が答える。
「なんで知ってるんですか」
「香波が、朝臣は休み時間に友達とバスケしてるって」
「ああ、なるほど」
合点がいったようで、朝臣は頷いた。
「蜂永優夜です、もしかして朝臣と約束してた?」
「いや、染川が居たんで着いてきたらこんなことに」
「ゴミ置き場で挨拶になるとは」
「だってよ。まわってけば?」
優夜は朝臣を見た。それをじっと見返して、朝臣は高梨たちへ視線を向ける。静かな圧を感じ、白木はそろりと目を逸した。
朝臣は尋ねる。
「優夜さんは帰るんですか」
「んー美術室ある?」
「あります。美術部が出し物してると思います」
「行ってみよ。一緒に来る?」
優夜が聞いたのは朝臣だけにでは無かった。三人の男子高校生たちに尋ねたのだ。
ゴミ置き場から移動して、優夜は文化祭パンフレットを見ながら三人の先頭を歩いていた。
「優夜さんって大学生ですか?」
「いやもうアラサーだから」
「え、見えない」
「あんた……出世しそうだな、高梨だっけ?」
「俺は白木でーす」
持ち前のコミュニケーション能力を生かし、白木は優夜に絡んでいる。それを後ろからじっと見ながら黙る朝臣に、高梨は苦笑した。
「最初から一緒に回りたいって言えば良かったのに」
「……口実が猫だったんだよ」
「猫? あー、なるほど」
「まあ別に、気分が紛れればそれで」
朝臣は優夜を見た。鎌崎とはあれから連絡を取っていないらしい。酷く凹む様子も落ち込む様子もないが、外側からは分かるわけもなく。
パンフレットだけの案内で、すんなりと美術室へついた。中では部活の展示や創作物の販売が行われている。
へえ、と言いながらまず外に貼ってある生徒たちの授業で描いた作品を見始める優夜。高梨と白木はクラスメートを見つけ、中へ入って行った。
「香波のだ。入選だって」
「あ、そういえば言ってました。優夜さんにありがとうございますって」
「どういたしましてって返しといて」
「俺は伝書鳩ですか」
笑いながら優夜も中へ入る。
有孔ボードに貼られた紙に描かれたそのひとつひとつを見上げた。
「優夜さんって美術部だったんですか? 中学とか」
朝臣の質問に、視線を戻す。
「ううん、囲碁将棋部」
「囲碁……? え、何故」
「人が足らないって言われて入ってた」
「美術部は無かったんですか?」
「あったけど、わたしは自由に絵が描きたかったからさ」
並べられた絵画。同じサイズの紙と、同じモチーフ。
提示されたテーマに沿って描くのが窮屈。
優夜が美大を目指さなかった理由のひとつだ。高校の美術コースで行う課題も本当は好きではなかったが、何とかこなした。
「自由……」
自由なのに、孤独なのか。
朝臣はその横顔を見る。
「優夜さーん、絵描きます?」
白木の声に弾けるようにして顔を向けた。優夜と朝臣、どちらも。
教室の端に、絵を描くコーナーが設けられていた。スケッチブックがいくつか置かれ、白い紙が好き好きに汚されている。色鉛筆、コピック、筆ペン、カラーマジックにカラーペンなどが近く散らばっていた。
優夜はふらりと吸い寄せられるようにそれに近付く。
「俺は高梨の横顔を書いたる」
「なんで横顔」
「そこの男子ー、静かに」
「はーい」
注意され静かに白木はスケッチブックへ向かった。
「わたしも描こうかな」
その言葉に、優夜は角椅子へ座る。久しぶりに座ったそれに、心細さを感じた。斜め後ろへ立つ朝臣へと視線を向ける。
ぽんぽんと隣の椅子を叩いた。そこに座れ、という意味で。素直に朝臣は椅子へ座った。
優夜は楽しそうにテーブルへ肘をつき、スケッチブックを捲る。
小さいものから大きいものまで。彩り豊かなものから白黒のものまで。様々な絵があった。
心は踊るのだ、やはり。そして、色を手に取ってしまう。
「これ、どんな紫?」
尋ねられ、優夜の持つ色鉛筆へと視線を向けた。
「濃い紫です」
「明度でそれは分かるんだけど、赤系? 青系?」
顰めた面で鉛筆を見ていた。
絵を描こうとしているらしい。
しかし、紫は赤と青で構成されているのでは。
「
丁度通りかかった美術担任、去年の朝臣のクラス担任だった来海へ話しかける。
「三年生がこんなにいっぱい。しかも美術室に。荒らしに来たの?」
「俺らをなんだと思ってんの、先生」
「受験勉強の息抜きに来ました」
「先生、この紫って赤と青どっちですか?」
朝臣の質問に、優夜が顔を上げた。
来海と目が合う。
「あら、蜂永さん」
「久方ぶりです。お元気そうで」
「毎日へとへとよー、貴方は?」
急に親しげに話し始めた二人を見て、男子高校生三人は興味津々にそれを聞く。
「優夜さんってもしかして卒業生?」
「いや、地元は違う」
「え、何繋がりなんですか?」
白木の質問に来海は優夜を示す。
「私がバイトしてた絵画教室の生徒さん」
「絵画教室の先生」
優夜も同じように来海を示した。
「絵画教室ってあの、暁さんが元々通ってた所のですか?」
「そうそう。よく覚えてんね」
忘れるわけもない。朝臣は小さく息を吐く。
「そんなことあったわね。というか、なんでここの男子たちと一緒なの?」
「朝臣とは近所。で、その仲間たち」
「仲間一号でーす」
「二号でーす」
あらあら、と来海は笑う。優夜とは十数年ぶりに会ったのだが、あの頃とまるで変わっていない。昔から人を吸い寄せる力のある人間だった。
善人も、悪人も。
「引っ越したって聞いてたけれど」
「数年、関西の方に居ました。二年前に帰ってきたんです」
「まだ絵は描いてる?」
紫の色鉛筆を握った優夜に問う。
それが、赤紫なのか青紫なのか区別のつかない優夜に。
「描いてます」
答えたのは朝臣だった。朝臣自身も答えたことに驚いていた。優夜は目を丸くする。
来海は優しく微笑んだ。
「それは、良かった」
心から吐き出された言葉に、優夜はスケッチブックへ視線を戻す。
そう。描いている、今も、昔も、それから離れたことはない。
色が、この手からするすると逃げていってしまっても。
逃げようと思ったことは星の数ほどあり、結局明けない夜に戻ることも星の数ほどあった。
ここは、まるで長い夜で。
生きていける明日が欲しいと嘆いて。
少しずつ、取り戻していく。
「……綺麗な青紫だ」
優夜が呟き、朝臣もそれを見た。
「すげえ……」
「本当だ」
白木と高梨もそれを覗いている。
そこには先程見た、濃い青紫の猫がいた。
ぞくり、と背中が震えるほど上手い。あのふわふわとした毛並み、あちこちに広がる髭、身体の模様。少し目を離せば動き出しそうだ。色鉛筆の濃淡だけでここまで描けるものなのか。
くるりと色鉛筆をまわして、優夜はテーブルへ置いた。
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