万古千秋
お互い何も言わず、結局先に口を開いたのは優夜だ。
「鎌崎は」
「帰りましたよ」
寝返りをうって、優夜は上体を起こす。
「……風邪、ひいてない?」
朝臣は目をぱちくりと瞬かせる。数時間前まで子供のように泣いていたのに、今は自分より他人の心配をしている。
思わず笑い、肩を震わせた朝臣は蜜柑を差し出す。
「丈夫なのでひきません」
「わたしも。ここ五年はひいてないかな、鎌崎は病弱だけど」
「そうなんですか?」
「うん……中学の時はさ、風邪ひいたなら休めば良いのに、家で母親といるのが嫌だからって登校してきたことあった」
それを受け取り、優夜は朝臣のペンケースから油性マジックを取った。また何かを書き込んでいる。
以前の蜜柑は雅史が「気持ち悪いが、芸術家だな」と言いながら食べていた。
「鎌崎もわたしも、クラスメートから避けられてたから、そこまで学校の居心地も良くなかったのに」
「避けられて……? なんでですか」
「気持ち悪かったからじゃない? 男女で一緒にいて、片方は絵ばっか描いてて、もう片方は女みたいな男。そこまで陰湿じゃなかったけど、今で言う、いじめみたいな図があったわけだ」
今で言わなくても、いじめだ。朝臣は優夜の過去の事件を頭に思い浮かべた。
死んで終わらせるなんて、甘い。
そう言っていた気持ちは計り知れない。
「なんで、ムカついてたのに鎌崎の話ばっかしてるんだろ」
優夜は力なく笑い、マジックペンを置いた。その蜜柑は鎌崎の顔をしていた。
絵が上手いとはこういうことを言うのか、と朝臣は漸くその断片を理解し始める。鎌崎の顔の特徴をよく捉えており、言われなくても分かった。
「鎌崎さんは、優夜さんの目のこと知ってるんですか」
ふたつめの蜜柑を手に持とうとして、動きが止まる。
「知らないと思うし、言ったこともない」
「原因は分かってるんですか?」
「心因性による色覚異常。カウンセラー勧められたけど、二回で行くのやめた」
「それはまたどうして」
「解決策は分かってたから」
解決策が分かっているのなら、どうして。
優夜は朝臣の考えていることが分かり、苦く笑った。
「生き方が原因というか」
描きたい、描けない、でも描けないと見えない。見たいから描かないといけないのに、描けない。
その盾と矛を繰り返し、悪循環に陥った。
「俺、この前鎌崎さんに優夜さんの生い立ちを聞きました」
「生い立ちって、偉人みたい」
「……幽閉されてたって」
「幽閉? そうか、鎌崎が言ってた?」
頷く。ふたつめの蜜柑はテーブルに置かれ、マジックペンも手放された。優夜は後ろに倒れて、また寝転ぶ。そのまま横になり、朝臣に視線だけを向けた。
「別にわたしは檻に閉じ込められてたわけじゃない」
それはそうだろう。朝臣は放置された蜜柑をむいて、口に運ぶ。鎌崎もそこまでは言っていなかった。
「誰も信用はしてなかったけど、それでも、あの部屋は鍵もついてないし、自分で出られる部屋だった。鎌崎が来るまでそうしなかったのは自分で、本当はこうしたくないと分かってながら、そこに居続けた」
まだ未成年だった優夜を迎え、優しくしてくれた者もいた。絵を描いて受賞し、有名になって名前を馳せるだけの道具として見てくる者もいた。
他人からの感情に、優夜は怯むことはない。ただ、世界でただ一人の母親が居なくなってしまった事実から、どこか逃げていたような気もする。
賞状を見せる相手も、もう居ないのだ。
ぎゅっと目を閉じ、何かに耐えるように息を吐く。
「わたしだけ、何も変わってない」
泣くのも、悲しむのも、怒るのも堪えた。
そこに、何が残るというのか。
「パンタレイですよ」
朝臣が口にした言葉に、優夜は目を開く。
「ぱんだ?」
「パンタレイ。万物は流転するって、古代ギリシアの哲学者が表した思想です」
万物は流転する。同じことをこの前考えたのを思い出した。
「優夜さんは鎌崎さんの手を借りながらも、そこを出たじゃないですか。そして、ここに来た。何も変わってないことなんて無いと思います」
「……どこらへんが?」
「え」
「変わったの、どこらへん?」
暫しの沈黙。朝臣は優夜を見て腕を組む。
「髪が伸びました」
「そこかよ」
ふ、と噴き出すように笑う。
「朝臣は身長伸びた。来た時はわたしより少し高いくらいだったのに」
「十センチは伸びました」
「どこが伸びてんの、怖いな」
優夜のいつもの笑い方に朝臣もつられる。
「あと、よく笑うようになった。会った時、表情動かなすぎてロボットみたいだった」
「え、そんなにですか?」
「あと根無し草みたいのが無くなったよ」
根無し草……と朝臣は考える。またしても、根の話。
優夜は瞬きをした。
「なに?」
「いや、今パンタレイの話を出しといて何ですけど、優夜さんの根は俺が知ってる中ではずっと変わってないなと思って」
「そうかね」
自分ではよく分からない。朝臣は初めて会ったときのことを思い出していた。
「優夜さんは画家ですね、ずっと」
その声が優しく、優夜の目は潤み、息を吸ってそれを留めた。
画家であることは、優夜にとって生き方だ。また、生きることは画家であることでもある。
誰に言われずとも、そうなのだ。
絵を描くことから離れ過ぎて、それをどこかに置いてきぼりにしてしまっていた。
枕にしていた二つ折りの座布団に顔を埋め、その表情を隠す。とんとんとん、と階段を下る足音が聞こえて、雅史が居間に顔を出した。
「起きたか。飯はどうする」
「あ、うん、食べる」
「寝てるのか?」
優夜を示し、朝臣に尋ねる。
「起きてる。夕飯なに?」
「鍋だ」
「……何鍋ですか」
「鱈だ」
「鱈!」
優夜が起き上がる。一気に回復したらしい。
「わーい、鱈好き」
「そうか、そりゃ良かった」
雅史が少し笑い、台所の方へ行く。立ち上がり、それに吸い寄せられるように優夜も台所へ行ってしまう。
「大根ある? みぞれ鍋が良いです」
「ああ、あったな」
「朝臣! 大根摩り下ろし対決しよ!」
千年の悩みも鱈鍋で晴れるとは。
朝臣は呆れたように笑い、返事をした。
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