秋雨前線
たまに、世界が白と黒になる。病院に行くのも、その症状を誰かに言うのすら憚られ、優夜は黙っていた。本能的に弱みを曝せないと思っていたのかもしれない。
疲れたり苛々しているとよくなった。雨の日も多い。それでも絵を描くことに影響がないのなら良い、と思っていた。
今日も例に漏れず。
雨の降る外から建物に入り、パーティー会場の扉を開くと同時に、それは起こった。
人の喋る声、食器がぶつかる音、用意された食べ物の匂い、混ざった香水、静かに設定されたピアノのBGM。
顔を上げた世界に色が無かった。
「桜水さん、会長さんに挨拶してきなさい」
知らない年配男性と会話していた大伯母が優夜に耳打ちする。誰のことか分からなかったが、取り敢えず視線の向けられた方に歩き始めた。
「ゆーや」
一歩前に出る度、小指と親指が圧迫される。慣れないパンプスで水膨れが潰れたのは一度や二度じゃない。
「ゆうや」
こんな靴もどこかに捨てて、遠いところへ行ってしまいたい。
ぼんやり考え、ふらふらと歩む。
「蜂永優夜」
足を止めた。さっきから聞こえていたのは優夜の本名だった。
濃い灰色の絨毯から顔を上げて振り向く。自分より頭一つ背の高い、小顔の女性がいた。耳にぶら下がったレースのピアスがきらきらと美しいが、残念ながら優夜にはどんな色か判断がつかない。
顔を見ても知ってるのか知らないのか判断できなかった。何せ広い世界であり狭い世界。相手の出方を見ようと、瞳を覗いていた。
「やっぱり優夜だよね、良かった、無駄足じゃなくて」
「……はい」
「中学一緒だったけど、覚えてない?」
にこ、と笑った顔が昔見た何かに重なる。学ランを着ていた、男。ピンクのハンカチ。
それを大事そうに持っていた。
カチカチとピースが埋まっていく。それと鎌崎の顔が合致するのにそう長くはなかったと思う。
それでも、鎌崎は「完全に忘れられてた」と恨みがましく言ってくることがある。半分冗談で半分本気だ。
「なんで、こんなとこに」
女性の姿が優夜より様になっている。
「言ったじゃない? 優夜と一緒に仕事するって」
「は……?」
「引かないでよ」
「引いてるんじゃなくて」
じわり、と渇いていた目の奥から溢れる。涙を留める術がなくて、落ちた。
驚いた顔をした鎌崎が慌ててハンドバッグからハンカチが出される。
淡いピンク、皺一つない。
色が、世界に戻ってきた。
あの日踏みつけられたそれは、優夜から鎌崎の手に戻り、こうして今も大事に身に着けられている。
「感動してる」
鳥肌が立って仕方ない。
一緒に仕事がしたいと思ってこんなところまで来てくれたのだと、本当にそうなら。
あの日の約束を守って、そのハンカチと同じように優夜を心のどこかに覚えていてくれたなのなら。
どれだけ恵まれているのだろう。
「やだ、泣かないで」
鎌崎に引っ張られて会場を出た。
「ちょっと化粧が台無しじゃない。上向いて」
化粧が取れぬように目尻を綺麗に拭われる。
「でも鎌崎、あんたとは仕事できない」
「え、どうして」
「わたし、今久遠の家にいる」
ピンクを大事にしていた、あのときの弱虫な男はどこにも居なくなった。
「お母さんが亡くなったって聞いたけど……それから何かあったの?」
鎌崎の細い手首を遠ざける。揺れるレースのピアスは水色で、鎌崎によく似合っていた。
これまで何があったのかを話す。これを口にするのは初めてだった。優夜には話せるような友人が居なかったからだ。
話し終えたとき、ぐちゃぐちゃに泣いていた。鎌崎も同じように泣いていた。
傍からみたら何事かと思うだろう。運良く、誰も話しかけてこなかった。
「優夜、久遠本家から出よう」
ハンカチで自分の涙を拭った鎌崎が立ち上がった。鎌崎の目元は黒くパンダのようになっていた。それを見て優夜はふにゃふにゃと笑ってしまう。
「無理でしょ」
「何笑ってるの。無理じゃないわよ、お金なら返し終わってるはずだもの。あたし、あんたのこと捜すのにどれだけ色んなこと調べてると思ってるの」
「でも、暁が」
「暁だって良い大人なんだから。自分でどうにかできるわ」
実際、鎌崎がこのパーティー会場に辿り着けたのも暁に連絡がついたからだ。携帯を持たない双子の片割れには、事務所を通して話すことができた。
関西にいるとは思わなかった鎌崎はすぐに飛行機のチケットを取った。そして今日のコネというコネを使い、今日のパーティーに潜り込んだ。
優夜にとって、中学の二年間が人生にとってクラフト紙のように薄くても、約束を忘れていても、それでも良い。鎌崎にとってはそうではなかった。あの時間が人生において大きく影響し、そして鎌崎を変えた。優夜との出会いは、歩む道を大きく変えたのだ。
それでも優夜は閉口する。鎌崎はその手を掴む。自分の方が大きい手だ。しかし、きっと優夜よりも力は持たない。それでも。
「あたしは皆を黙らせるような優秀な人間になった」
「それ、自分で言うことか?」
「自己判断よ。悪い?」
鎌崎が首を傾げるとピアスが大きく揺れる。その煌めきを目が追う。
「優夜は
考える。いや、考えるまでもなかった。
首を緩く振る。
借りてきた猫は、漸く本能を思い出す。
「次はあたしが優夜を救うから」
それから鎌崎は大伯母と話をつけてきた。
目を覚ます。長い夢を見ていた。優夜は頬に感じる布が枕でないことがわかり、首を動かす。見覚えのある、雅史の家だった。
視線を動かせば、横に朝臣がいる。いつものように英単語帳を開いていた。雨戸は閉まっていて、今が何時なのか分からない。
あの雨の中、朝臣に手を引かれ雅史の家に転がり込んだ。風呂場を借り、優夜が熱いシャワーを浴びている間に朝臣は優夜の部屋へ行き、鎌崎から替えの服を受け取りに行った。
「川でも見に行ったのか」
「そんな危ないことしないけど。ちょっと、傘忘れて」
「蜜柑を食え。風邪ひくぞ」
そんな雅史と朝臣の会話を聞きながら、優夜は炬燵に潜った。
朝臣は英単語帳を閉じて籠の中の蜜柑へと手を伸ばした。優夜の方を見れば、目が合う。
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