一日千秋


 喫茶店の外で傘を畳み、扉を開いた。からんと昔ながらのベルが鳴り、コーヒーの香りと煙草の匂いが鼻を擽る。優夜と外で打ち合わせをする時はいつもこの店だった。鎌崎はハヤシライスが好きで、優夜はカレードリアをよく注文した。

 常連なので店員も鎌崎を見て、優夜の方へ顔を向けた。


「あちらでお待ちです」

「ありがとうございます。アメリカンひとつ」

「かしこまりました」


 会釈をして優夜の座る席へ近づいた。窓際の、外の雨がよく見える。テーブルの上のコーヒーはすっかり冷めていた。

 正面に鎌崎は座る。

 優夜は外へテーブルに頬杖をついて窓の方へ顔を向け、目を閉じていた。眠っているのかどうか分からない。


「お待たせ」

「ん」


 ゆっくり目が開き、鎌崎を捉える。

 目の下の隈と顔色の悪さに、大丈夫か、と口から出そうになって止めた。大丈夫なわけがない。


 先日、女子高生が自殺した。

 悲しい哉、小中高生の自殺は増減を繰り返しながらも確実に増えている。ある意味、どこにでも起こり得ることであり、どこにも起こって欲しくない出来事。既に高校も卒業して学校という場所に縁のない優夜に、それは降りかかった。


 遺書に優夜の雅号、桜水の名が記されていた。『桜水の絵があるから死ぬのは怖くない』と。

 その情報を得た記者たちがこれみよがしにある事無いことを書き始めた。もうそのネット記事は見飽きたほどだ。自殺を後押しした作品、と書かれたのを見たときは鎌崎はそこへ電話して憤慨した。ギャラリーの同僚が止めるまで怒っていた。

 優夜はそれを知った時、平然としていた。


「まあ、わたしの作品がそれに寄り添えていたなら良いけど」


 息を吐く。


「聞けないのが、悔しいな……」


 窓の外を見ながらぽつりと零す。

 それを聞きながら、崩壊がすぐそこまで近付いているのを感じていた。


 事件があり、久遠のことまで嗅ぎつけられ、自分から出たはずの優夜は正式に久遠から縁を切られた。わざわざ鎌崎も一緒に関西の本家まで呼ばれ、放たれた言葉に、優夜より鎌崎が怒った。

 帰りに寄った居酒屋で、テーブルを叩く。


「何なのあれ!? 呼びつけといて言うこと!? 知らねーわ!」

「鎌崎、声でかいし。ビール零れてるし」

「挙げ句の果て、『久遠から出た人間は不幸になるのよ。朔也さんも家から出たからああなったんだわ』って! 絶対家に居るより幸せだったっつーの!」

「うるっせえな」

「本当よ、うるせえよ!」

「いや、鎌崎がだよ。いくら個室だからって煩い。あと言われたの主にわたしなのに、なんであんたが怒ってんだよ」


 テーブルを叩いて零れたビールを優夜が拭く。耳につけた無数のピアスが照明に反射してきらきらと光る。

 前にどうしてそんなに穴を空けているのか、と尋ねたら、願掛けだと返した。優夜にとってピアスすらお洒落ではないのだ。


「優夜が、怒らないからでしょう、だからあたしが代わりにこうなってるんでしょ……」


 ぼろぼろと泣き始めた鎌崎に引いた顔を見せる。


「え、それってなんか意味ある?」

「芸術家のくせに、変なところで合理的なこと言わないで」

「感情だけで描けたら誰も苦労しないな」


 とんとん、とノックが聞こえて簡易的な扉が開かれる。店員が困ったような顔をしながら注文した料理を持ってきて、鎌崎の様子に驚いた。

 大凡、静かにしてくれと言いに来たが、ぼろぼろ泣く女に驚きと戸惑いを受けたのだろう。


「申し訳ない、色々ありまして、静かにしますね」

「あ、はい、お願いします……大丈夫ですか? おしぼり置いておきます」


 エプロンに数本入れられていた全てのおしぼりがテーブルに置かれる。どれだけ泣く予定なんだよ、と優夜は苦笑する。


「まあ実際事実だろ。父はあの家から出て母と一緒になって、事故で死んだ。わたしたちもこうして今、世間の言う幸せとは縁遠い場所にいる」


 久遠と血縁関係にあることが明るみに出て、今まで数々の賞を獲ったのはその影響からでは、という外野の雑な推察と共に、業界から干された。上がっていた個展の話は勿論立ち消え、繋がりから晒されるのを嫌がった知人たちは近寄らなくなった。


 おしぼりでごしごしと目元を拭いた鎌崎は、そのことに嘆く以外にどうしたら良いのだと思った。

 自分の力ではどうにもならない、神様の言うとおりどれにしようかなで指名されたみたいに、自分を救ってくれた女からこれ以上、何を奪うというのだろう。何を取り上げるというのだろう。

 優夜はひとつひとつ目の前でそれらを失っても、泣き言すら嘆きすら怒りすら零さない。それにも怒っているのだ。


「じゃあ後悔してる?」


 鎌崎が優夜を久遠から連れ出したこと、それから一緒に仕事をしたことを。


「してないよ」


 優夜は優しい声色で即答した。それがまた胸に刺さり、鎌崎はおしぼりを涙で濡らす。


「するわけがない。鎌崎がここまで一緒にきてくれた。不幸か幸せかなんて、他人に決められるもんじゃない。わたしは誰がなんと言おうと、この世で一番の幸せものだ」


 追い打ちをかけるように言われ、鎌崎はついにテーブルに突っ伏して泣いた。


「あた、あたしも、うっ、幸せだもの、誰かになんて言われようと、優夜と一緒に、うっ、仕事ができた」


 嗚咽を漏らしながら言った。



 ここまで来られた。

 それなら、ここからどこへ行く?


 優夜はゆっくりとコーヒーカップに手を伸ばそうとして止めた。その指を目元へ、額へ持っていった。


 制作が進んでいないことは知っていた。明確な理由を話そうとはせず「なんとなく」とはぐらかすことが多くなった。

 前に会った時はここまで酷くは無かった。記者が家の前で彷徨いてるから引っ越したい、という要望通り場所をいくつか探している最中だ。そもそも、優夜は他人によって怯むことが少ない。


 本家から帰った頃は、良いものを描いて良い値をつけて売り出そうと二人して肩を組んでいたのに。

 何がそこまで、優夜を追い詰めているのか。

 目元を手で覆ったまま、優夜は口を開く。


「鎌崎、わたし」



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